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実写化とは壮大な二次創作なのではないか

ディズニーアニメーション音楽における巨匠、アラン・メンケンという人物がいる。
『アラジン』『美女と野獣』『ノートルダムの鐘』など数々のディズニー作品の音楽を手掛けた彼はまさに生ける伝説。
アカデミー賞、グラミー賞、トニー賞…とにかく数々の賞を受賞し、ディズニーに『ディズニーらしさ』の魔法をかける素晴らしい作曲家である。

私はディズニーアニメーションおよびその音楽が大好きだ。特に前述したミュージカル映画の作品は何度も歌って、聴いて、弾いて、そのメロディの美しさにうっとりする。

先日、そんなアラン・メンケン氏のコンサートが日本で開催され、運良く足を運ぶことができた。
そのコンサートでの出演者は彼1人。ステージ中央に置かれたピアノの脇にスッと立った彼が最初に話してくれたのは、「ここが、私の仕事場です。」

彼自身の足跡や作曲家人生を振り返るMCの中で、私が印象に残ったのは、作品が何度も違う形でリメイクされることについての言及だった。

例えば、先述した『アラジン』はアニメーション版に加えて、ブロードウェイや劇団四季のミュージカルとして、そして実写版映画として、3つの形態で世に放たれている。

ミュージカル『アラジン』では、アニメーションに登場しない設定、キャラクター、音楽が登場する。
アニメには出てこないアラジンの盗人仲間が3人出てきて1曲歌ったり。彼が母親に向けて歌う1曲もある。
お馴染み"A Whole New World"以外にも、アラジンとジャスミンが「ここから抜け出してどこまでも行こう」と歌う1曲がある。

なぜ、アニメーションとミュージカルでこのような違いが出てくるか。

それは、アニメーションにはアニメーションの最適解が、ミュージカルにはミュージカルの最適解があるからである。

フィルムの長さ、観客が集中できる長さ、公開当時の潮流。歌のシーンとそうでないシーンのバランス。製作陣のクリエイティブ性だけではなく、商品として提供するため、成功するための様々な制約や計算が盛り込まれ、私たちの元に届けられる。

ミュージカルは、舞台という一つの装置に観客が集中するため、そこでできることも限られてくる。
アニメーションのように自由自在にアラビアの市場や宮殿の上を飛ぶことはできないし、猿を肩に乗せて会話するのも、ランプの魔人が実際に小さくなったり大きくなったりウサギになったりすることはできない。
しかし、その世界観を表現するために、演者の衣装や舞台装置、照明、セリフ、音楽さまざまな趣向が凝らされる。
幕間に休憩が入ることもあるため、アニメーションよりも長い時間上映しても構わない。

もちろんそれを楽しむ客層も違う。0歳の赤ん坊が家のテレビ画面でよだれをたらしながら見るアニメーションと、10,000円以上の金額を払って劇場に足を運び、じっと座って一つの舞台に集中し続けるミュージカルでは違いが出て当たり前である。

それと同じように、アニメーションとその実写版で違いが出ることも当たり前なのである。

同じ映画でも、そもそも作り方が違う。
アニメーターが鉛筆で何度もイラストを描き静止画を動かしていくアニメーションと、実際の人間がそのキャラクターを演じる実写映画。

先述したように、予算や、その映画のターゲット、公開される時代の潮流や、公開されるに至った背景などさまざまなビジネスが絡む。

映画『アラジン』では、実写化のために"Speechless"という1曲が書き下ろされた。こちらもアニメーション同様アランメンケン氏の作曲で、コンサートでも披露してくれた。

公開時にも大きく話題を呼び、評価され、わたしの周りの友人もこの曲が好きだという人が多い。

個人的にはややビジネスの香りが強すぎる気がしてしまうことや、メロディー自体が明るいものが好きなのでそこまで好きではないが、メンケン氏のMCを聞いて捉え方が変わった。

そのコンサートの中でメンケン氏が言っていたのは、「アニメーションとして産み出され、様々な人々に愛された作品が、また舞台や実写と形を変えて様々な人々に届くことが嬉しい
実際にブロードウェイの作品を見て感動したし、"アラジン"では実写映画のために曲をかきおろし、ありがたいことにとても評価してもらえた。」「今後公開予定の実写版"リトル・マーメイド "にも新たに曲をかきおろしており、それを皆さんに聴いてもらえるのが楽しみ。

といった内容であった。

当たり前であるが、アニメーションとして評価されたからこそ、舞台や実写化の話になる。

アラジンやリトルマーメイドがアニメとして大コケしだ作品だったとしたら、舞台や実写などの話にならないだろう。

では、ある種アニメーションで完成されているともいえる作品がなぜ舞台や実写など他のメディアでつくられるかというと「そこにお客さんがいるから」である。

私自身の経験でも振り返ってみると、アニメからのめり込んで原作を購入した漫画作品があった、映画で話題になっているからと原作小説を読んで、その作家を好きになったこともある。

そういった作品はきっかけとなる窓口が無ければ原作に辿り着かなかったかもしれない。

つまり、別メディアで作品を生み出し直すということは、ある種窓口を広げる役割を担っており、それによって作品をより幅広い人々に訴求することが可能になるのである。

また、作品がリメイクされるたびに登場人物やその関係性やストーリーに新たな意味が付与されることもある。

アラジンの実写化などはまさにそうで、おそらくアニメーション制作時には考えもつかなかった1曲が新たに生み出され、作品に深みを与えているのである。

つまり、その都度作品は新たに作り直され、アニメ、舞台、実写、映画、漫画、小説、ボイスCD…
そのフォーマットに最もふさわしい形で私たちに届けられている。

私は今まで原作マンガと、アニメ、原作小説と映画などの作品を見るたび「どれだけ原作に忠実か」をひとつの尺度に作品を鑑賞していた。

原作にリスペクトがあれば、「それ通りにつくりたい」と思うはずで、映画オリジナル!の部分やキャラの追加、改変などはある種原作への冒涜だと。

だからこそ本当にがっかりすることが多く、原作を好きであればあるほど、その作品の別メディアver.は見ないことに決めていた。

しかし、メンケン氏のMCを聞いて思ったことは「舞台化や実写化は公式がOKを出した壮大な二次創作なのではないか」という観点だった。

そもそもアラジンのアニメーション公開は1992年である。舞台はブロードウェイが2011年、劇団四季が2015年、実写映画は2019年に公開。よだれを垂らしてVHSを見ていた赤ん坊が大人になり舞台に関わった、実写の制作スタッフに関わったということが当たり前にあり得る。

そして、舞台化、実写映画化となった時に自分が制作陣であれば「原作をそっくりそのままやっても面白くないのではないか?」という考えが出てくるかもしれない。とも考えた。

異なるメディアで世の中に出す意味を付与したい、と思うのではないかと。
そしてその作品を愛し、様々な妄想を膨らませることもあるだろう。
作品内では語られなかった諸々を自分の中で勝手に想像し解釈しアナザーストーリーや、裏設定を作り上げるということも、あるかもしれない。

現に世の中で愛されている日本アニメーションはTwitterやPixivで様々なクリエイターが様々な二次創作を公開し、その二次創作にファンがついている。

二次創作上ではそれを見るファンによって様々な「推し」「NG」が存在する。いわば妄想の世界である二次創作上ではなんでも可能。
例えば原作ではただの友情にしか描かれていなかった二人を二次創作上では恋人にできるし、小学生や中学生のキャラクターの10年後などを描くこともできる。

ただ、原作では描かれていないそれらに対して、ものすごくのめり込む人もいれば、解釈が違う、許せないというユーザーもいるわけである。
二次創作を楽しむ人々はそれぞれの嗜好を尊重し、自分がNGなものは見ず、嗜好にヒットするものだけをじっくりと楽しんでいる。(ように思う)

それと同様、同じ作品でも作り手が違う「別メディア化」を受け取る時私たちは、
「作り手の嗜好で新しく作品を描きなおしてみたよ!好きな人はとことん楽しんで行って!苦手な人はごめんなさい。」
くらいの気持ちでパスが投げられていると思った方がいいのではないかと。

「どれだけ原作に忠実か」を尺度にすると本当にその作品を楽しめなくなる。舞台には舞台にふさわしい衣装や演出が、実写には実写にふさわしいセリフや音楽があり、それはその「舞台化」「実写化」に関わるスタッフが限られた予算や期限や様々な制約の中で必死に産み落とした作品なのだ。

私はアニメ「リトル・マーメイド」が大好きである。それゆえに最初は劇団四季のアリエルのビジュアルになかなか慣れなかった。

アニメ版で紫の貝殻を胸にあて、鮮やかな緑のヒレをたなびかせ、豊かな赤髪で海を泳ぐ彼女は、劇団四季Ver.では水色の胸からヒレまでが一体になったボディスーツに身をつつみ、ぐるぐるのオレンジ色の髪の毛がモヒカンのように大きく立ち上げられたビジュアルになっていたのだ。

引用:https://ure.pia.co.jp/articles/-/17843
引用:https://www.shiki.jp/applause/littlemermaid/gallery/index.html

劇団四季特有の発声方法や、日本語の歌詞が原作アニメver.と違うこともなかなか受け入れられず、少し敬遠していた。

しかし、一度舞台を見に行ってみると、アニメの中では登場しなかった楽曲に胸を打たれ、くるくると表情が変わるアリエルに心惹かれ、物語にどっぷりとのめり込んでしまったのである。

そうか、舞台には舞台の良さが、アニメにはアニメの良さがあるのだとこの時少しだけわかった。

それと同様に、実写には実写の良さがある。アニメーションをみて湧いたインスピレーション、感じたこと、「実写を制作するスタッフ」が考えた裏設定やストーリー、そんなものを盛り込んで作り上げられた「壮大な二次創作」をこれから見るのだと思えば「アニメーション通り」にいかないことにも納得がいく。
というよりも「アニメーション通り」に別メディアver.を制作してしまうとそれがその「別メディアver. 」である意味が無くなってしまうのである。

だからこそ「アニメーションのリトル・マーメイドが再現されること」は今回の実写化に際しても全く期待していなかった。
様々な議論を巻き起こしているが、私にとって問題だったのは「どれだけ再現されているか」ではなく、「その作品が一作品として面白いのかどうか」それだけであった。

その点から言うと、私は実写版「リトル・マーメイド」はそこそこ良かったと思う。

映画を見る際に一番楽しみにしていたのは、俳優の演技でも、実写のCGでも、ストーリー性でもなく「楽曲」だった。

アランメンケン氏がこの実写化のために書き下ろした曲はどんなものなのか、はやく聴いてみたい!と思っていた。

結果として、私の期待を大きく上まわる楽曲は見つからなかったのだが、アニメ版にも舞台版にもなかった新たな曲や、キャラクターのパーソナリティをより深掘りするような、ストーリーに深みを与えるような新曲は私をわくわくさせてくれた。

世の中の漫画やアニメの実写化全てに「原作と違う」と難色を示していた私であったが、「違って当たり前」「同じ題材をもとに違う人たちが作った(ただし公式からOKが出ている)作品」と思って鑑賞すると随分軽い心もちで作品を鑑賞することができた。

これからも様々な実写化作品は公開されていくであろう。その度に議論が巻き起こるだろうが、良い原作に触れ合えるきっかけかもしれない、俳優や音楽など意外なところでの良さを発見できるかもしれない、といったスタンスで軽い足取りでそれらを楽しんでみようと思う。

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