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改めて写真を考える

写真とはいったい何なのか。
今でこそデジタルデータが一般的であるので物質的な側面より精神的な側面に着目されているとはいえ、機械を通すという手順は変わらず存在するからこそ、モノとしての写真についても考えることは意義を失っていない。
カメラは普段見逃しているものに気付かせることもあれば、見ていたはずのものを視野の外に押し出すこともある。そんなカメラを通した結果である写真は目の前の出来事をそのまま転写しているわけではないといえる。

今回は #エフェメラギャラリー の趣向を少し変えて、写真の撮り方、あるいは考え方の参考にしたいものを並べてみたい。


写真は撮って終わりでない。むしろ撮ったものを見せることに意義がある。
ただし写真を見せるというのは特定の誰かを狙うものでなく、宛所なく投げているようなものである。
といえ何かをどこか遠くへ投げてそれで終わるわけではない。いつか投げ返されるかもしれない。

風景は撮られることで新しい意味を帯びる。
主体的に写したいものよりも受動的なもの、写すつもりのなかったものが前面に出てくることも少なくない。

写真に出てくるものは何なのか。
見えていたものがそのまま出てきているわけではないーそのことに気づくか気づかないかで写真の在り方は大きく変わる。

見たはずのものはそこにないし、見えていなかったものに後から気づかされる。写真は時間や記憶を攪乱するのか? あるいは再定義するのか?

撮ること、撮られることが反転したところにあるもの。

再掲は後退ではない。
写真は相互作用であるから仮に同じものであっても時間が変わればまた意味が変わりうる。

写真は記号でないのだから物語がある。語るもの、それを聞くもの、それぞれに物語が生成される。

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