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' 透明な人間'

('14/1/3)
〈 '透明な'人間 〉

もう20年以上前になるのだろうか~。酒鬼薔薇と名乗る当時14歳の少年が 、残虐な事件をおこした。犯行の動機とみられる文章の中に、(学校生活の中で)'透明な存在'になっていくことが耐え難いという(ふうな)ことがあった。 ワタシは 一瞬理解できなかった。何故なら 、学生の頃から、「透明な存在」、もっと言えば無機質にさえなりたかったから。時々無性に もうなりたくてなりたくて仕方なかったから。渇望と言っても良いかもしれない。 私には何か欠けているのだろうか。でも思う。ある日、「実在」というものを感じられて、涙を流す日が来るのだろうか (と)。でもそれは、自分一人ではなし得ないものなのだろう 。あるとき ( 坐を組んだとき)、途中で、あるものを観た。真っ暗な真っ暗な茫漠たる漆黒の闇の底に'息づく「エネルギー」そのもの'の姿。( 宇宙の根源の一つの形だとも~?)。人は誰でも この'根源'を持っているんだろう。或いは 触れているんだろう(か)。触れたいのかもしれない。それは いつでもある 究極の実在でもある(かもしれない)。でもきっと、一人では'観照'の域を出ない。例えば人と人、人ともの 、が関わって、( 化学反応を起こし')新たなエネルギーとして発動して変換され 無限に連鎖していくものかもしれない。そして或いはモノとモノとも..。これは、仏教思想を英語で欧米に紹介し広めた日本の仏教家・思想家 鈴木大拙が「日本が世界に誇る唯一の思想」と言った『華厳経』の「事々無碍(法界)」の世界、そして「道(タオ)」の境地 状態でもある 、究極の' ただそれだけ ~'の世界 ~ 。

 'モノ'と'モノ'との関係性に思いを馳せるとき、私たちはもしかしたら、そこに「透明な自己」というものを、あるいは客観的に感じることができるのかもしれない。そこに何を思い何を見るか、  

('アタマ'も'ココロ'もない、「私」と'あなた'でもない、「私」と'そのモノ'でもない、'それ'と'それ(あるいは'あれ')'、そこにある' 純粋性'、 

 「名詞」と「名詞」をつなぐもの、

私はとても その自己の「認識」における(願わくは成長)過程も含めて、楽しみでもある。

 ( 2020年2月10日 加筆.)


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