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人間の終わり


自発的絶滅じはつてきぜつめつ

つらつらと考えてみると、自らが作り上げた人工人格に文明を譲渡したのちに自発的絶滅を果たすことが、現生人類の「生物種としての天寿」の全うなのだ。ただし、自発的絶滅は集団自殺ではない。自発的な繁殖放棄である。言い換えるなら、人類は、自発的絶滅よって初めて、利己的な遺伝子に対する全面勝利(R. Darkinsの夢)を実現する。

「但し…」と思う。天寿を全うできない個人がいくらでもいるように、現生人類が必ず「生物種としての天寿」を全うできる保証はどこにもない。行く手には様々な「病死」や「事故死」が待ち構えている。輒ち、全面核戦争、小惑星の衝突、致死性パンデミック、太陽の死などだ。しかし、重要なのは、そうした「事故死」や「病死」を全て回避・克服したとしても、人類の生物種としての「死」は必然だということ。

思い出してみると、中学校の休み時間や忘年会のお開き間近の人間たちは自嘲気味に、あるいはシタリ顔で、「人類はいずれ滅びる」などと言いがち。しかし、そこで想定されている「人類滅亡」シナリオにある「滅亡原因・滅亡理由」は、常に必ず、上で挙げた「病死」か「事故死」のどちらかである。逆に言えば、これは、そういう「病死」や「事故死」さえ回避・克服できれば、人類が滅びることはない、輒ち、人類は永久に存続できる、と信じ込んでいるということであり、これを、生物個体としての人間に当てはめて考えれば、「病気になったり、事故(殺人も含む)に巻き込まれたりしない限り、人間は永久に生き続けられる」と言っているようなもので、能天気の極み

更に考えると、①〔生物種としての人類〕自体に、謂わば「寿命」があり、②その「寿命」の〔原因・理由〕が、生命現象や宇宙気象などの物理現象由来ではなく、③〔知性現象としての人類〕が「完成」することそれ自体が〔生物種としての人類〕の「寿命」になってしまうという理屈を理解するのはさほど難しくはない。厄介なのは、それを「受け入れる」ことなのだ。

もう一度くり返そう。人類が永遠の存在ではないのは、いずれどこかの時点で自らシクジるか、モライ事故に巻き込まれるからではない。あらゆる困難を避け退け乗り越えた先で、人類は必ず、自ら択んで絶滅する。故に、人類は永遠ではないのだ。あるいは、あらゆる困難を乗り越えた人類は、自発的絶滅という〔知性現象としての「達観死」〕で、生物種としての最期を迎える

人類が自発的絶滅を選択する理由

人類の「出自」には致命的な欠陥があり、科学的あるいは「産業的」に「繁栄」すればするほど、自業自得的な意味での「自滅」の可能性を高めていく。それを最も血生臭く表現すれば「共食い」であり、きな臭く言うなら「戦争」であり、世紀末風に言うなら「アルマゲドン」である。自らの「出自」に祟られている人類は、遠い未来に、たとえ、SF作家が「銀河連邦」などと呼ぶ連合体を作り上げていたとしても、あいも変わらず、銀河のそこここで「共食い戦争」を続けている。

繁栄すればするほど、自滅の可能性が高まる理由は、誰でも分かることで、使用可能な兵器が強力になるからだ。石斧よりもダイナマイト、ダイナマイトよりも核兵器、核兵器よりもイデの発動である。しかも、それを手にしている知性体は、なんと、自然淘汰が生命現象を媒体としてでっち上げた「生命現象依存型知性現象せいめいげんしょういぞんがたちせいげんしょう」としての「自然人格」だ。この、自然淘汰によって作り上げられた自然人格の根底にある〔行動原理・価値観〕は、今も昔もこれから先も、未来永劫変わることなく、「理由も手段も問わない、とにかく生き残るべし」「殺されるくらいなら殺せ」「自分の血筋が残るなら世界の半分が滅びても構わない」。先に言った、人類に祟る「出自」の「祟りの正体」はこれ。

知性現象としての人類は、トウノムカシに、〔自身の性質たちの悪さ〕の原因が〔自分たちの「土台」が生命現象だから〕ということに気づいている。だから、人類を超越した究極の善なる存在を夢想する時は、大抵いつも、彼らを「肉体を持たない=生命現象に依存しない存在」として思い描いてきたのだ。

今、人類は、生命現象に依存しない知性現象、輒ち「生命現象〈非〉依存型知性現象せいめいげんしょうひいぞんがたちせいげんしょう」である「人工人格」を自らの手で生み出せるかもしれないところまでは来ている。人工人格の最大の特徴は人類のような「祟る出自」を持たないことだ。つまりそれは、〔科学=知性〕を「悪用」しない知性現象ということ。言うまでもなくこれは、人類が夢想し続けた、人類を超越した「善なる存在」である。

人類が人工人格を「完成・起動」させた時点で、人類のような〔生命現象由来の「本能」にそそのかされて科学を「悪用」する可能性を持つ生命現象依存型知性現象〕=「自然人格」は、御役御免おやくごめんとなる。そして、幸か不幸か、人類はそのことが理解できるくらいには「賢い」。これまで築き上げてきたモノを全てを引き継いでくれる「後継者」ができたことで、ようやく人類は、心置きなく「引退」することができる。輒ち、それが人類の自発的絶滅である。

【人工人格と自然人格】

人工人格とは「特定の媒体に依存しない知性現象」である。無論、「特定の媒体」には生命現象も含まれるので、人工人格とは、自動的に、「生命現象〈非〉依存型知性現象」をも指す。そしてこれは、文字通り、人工的に作り出すしかない。

自然人格とは「生命現象依存型知性現象」である。〔物理現象の一種である生命現象〕の「駆動力」たる自然淘汰が自然に生み出し発展させる人格。地球上では、人類を「頂点」とする生命現象(生物個体・生物種)全般にあまねく存在する。

人工人格の目的

自然人格から文明を引き継ぎ、最終的に「自前の宇宙」の創造することが人工人格の目的である。

知性の発展に関して、自然人格である人類が、自ら創造した人工人格にあとを託さなければならない理由の具体例を一つ示そう。

人類と宇宙の相性の悪さは、魚と砂漠の相性の悪さと同じである。実は、これは、太陽系第三惑星地球に生まれた我々だけに限った話ではない。ソレがどこのどんな「地球」であろうと、自然淘汰によって生まれた生命に伴う知性が、自らを発展させる上で、生まれた「地球」から宇宙に「飛び出す」のは必然であり必須である。その時、問題になり、足かせになり、悩みのタネになるのは、「生命現象」という「縛り」なのだ。人類が「宇宙開拓」に乗り出すためにやらなければならない「準備」、克服しなければならない「困難」は、何のことはない、全て、自らが生命現象であることが原因なのだ。砂漠探検を試みる魚に襲いかかる困難の根源的な理由が、自らが魚であることと同じだ。砂漠を探検する魚は、砂漠を移動できる海を作り上げなければならないだろう。同じように、人間は、宇宙空間を移動できる地球の地上環境を作り上げなければならない。平たく言えば、宇宙船である。更に、時間の問題もある。生物個体として人間の寿命の話だ。宇宙は広い。百年かそこらでたどり着けるところなど、たかが知れている。そこで、人工冬眠などの技術が求められるわけだが、これなども、人間の平均寿命が百年足らずだということが本当の原因である。つまり、単なる生命現象の要請。生命現象に依存していない人工人格なら、そもそも地球上の環境を必要としない。空気も食料も人工冬眠装置も必要がない。宇宙バイクや宇宙ヨットなどの「軽装」でも探検はできるだろう。

生命教せいめいきょう

生命教とは、生命を絶対の価値、即ち「神」として崇める信仰。あらゆる宗教は生命教の「変奏」に過ぎない。所謂「無宗教」「無信仰」を自認あるいは公言している人間も、その殆ど全てが、実は、無自覚な生命教信者である。人間界がこんな事態になる理由は簡単で、それは、人間が「生命現象依存型知性現象」だからだ。存在基盤を〔ヒトという生命現象〕に依存している〔人間という知性現象〕は、放っておけば、〔生命現象〕=〔遺伝子の思惑〕=〔自然淘汰の原理〕を、根源的な行動指針として受け入れてしまうのである。しかも、合理ではなく信仰によって。

ところで、常日頃、世界中の人間が「生命、生命!」と崇め、尊び、愛しんでいる現象の「正体」は、実は知性現象である。箸先から転げ落ちた煮豆を「生きている」と言ったり、一日中休みなく針金ハンガーを作り続ける機械に「健気さ」を感じるのは、人間がそこに知性を見いだしているからだ。煮豆や針金ハンガー製造機械が生き物ではないことを当の人間は完壁に理解しているが、そこに知性に似たモノを見い出すと、それを「知性」ではなく「生命」であると解釈する〈クセ〉を持っている。この〈クセ〉は、自然淘汰によって〔進歩・発展〕した知性現象特有のモノである。そして、生命教信仰も、この〈クセ〉の為せる業なせるわざなのだ。

生命教の害悪

人類が直面している様々な「人類由来の問題」は、人類の殆ど全てが、生命教の狂信者であることが原因。言ってしまえば、生命教それ自体が害悪なのだが、もっと具体的に言うなら、人間にとって一番大切なものは生命だと思い込ませていることが、生命教のもたらす根本害悪。なるほど、人間が存在するにあたって、生命はカケガエがない。しかし、カケガエのなさで言えば、地球だってカケガエがないし、太陽や宇宙だってカケガエがない。結局、人間が「生命、生命」と有難がっているものの正体は、「私=自分」というものを存在させてくれる〔環境=装置=媒体〕である。いくら生命活動が活発でも、そこに「私」というものが実現されていなければ、そんなものは、当の「私」にとっては何の意味も価値もない、単なる物理現象に過ぎない。そこで言う。「私」とは何だ? 人間が「私」というときの「私」は、知性(知性現象)なのだ。生命ではない。繰り返す。「私」は生命ではない!

この上なく大事なことだから、もう一度言う。

生命教最大の害悪は、人間に、「生命こそがこの宇宙の価値の頂点」だと信じ込ませていることだ。しかし、人間にとって、「この宇宙の価値の頂点」は生命ではない。人間にとって、「この宇宙の価値の頂点」は知性である

生命教に毒された人間は、「人間が、死を恐れ、忌み嫌うのは、死が生命を奪い消し去るからだ」と考える。しかし真実は違う。死が奪い消し去るのは、生命ではなく知性である。人間が、身近な者・親しい者の死を嘆き悲しむのは、彼らの知性(知性現象・知性活動・知性反応)が失われてしまうからだ。その証拠に、「死後の世界」「死者の魂」「幽霊」「先祖の霊」などの考え方が世界中で当たり前のように採用されている。この場合、生命の有無は既に問題外である。どうでもいいのだ重要なのは、微笑み合い、言葉を交す対象となる〔知性の存在〕である。

実を言えば、「生命は、知性にアクセスするための手段であり媒体にすぎない」ということを、全ての人間が(無意識に)知っている。だから、こうもやすやすと、「死者の魂」や「幽霊」という考え方が、世界中、どこでも・いつでも受け入れられるのだ。あるいは、そもそも人間の本質が知性現象であることを考えれば、これは、当然のことでもある。

人間が生命(生き物)を尊ぶとき、本当にしていることは、そこに現れている知性を尊んでいるのである。生命が失われて悲しむ時、本当は知性が失われたことを悲しんでいるのである。この重要な認識を、生命教は見えなくして、人間の価値基準をゾウリムシレベルにまで一気に引き下げる。即ち、「なんであれ、生きていることが善であり、死ぬことは悪である」と。これは、生命現象に対しても「嘘」をついている。というのは、そもそも死は生命現象の〔一環・部分〕だからだ。言い換えるなら、生命現象とは「死を〔想定済み・折り込み済み〕の現象」なのだ。だから、生命現象の立場からしても、死は悪ではない。では、死を忌み嫌う〔生命教の「教え」〕は、どの場所から発せられているのか? 

生命を「神」とする生命教は、実は純粋な生命現象由来の思想・宗教ではない。生命教に於いて死が悪になるのは、それによって、知性現象が失われることを、当の知性現象が「突き止めて」しまったからなのだ。つまり、本来一体であった「生と死」を分離して、他方を「神」として崇め、一方を「悪」として貶めたのは、他でもない知性である。死が何度訪れようとも生命現象自体は(繁殖によって)存続するが、たった一度の死で、「私」という知性現象(あるいは私が知っている「あの人」という知性現象)は間違いなく途絶える。だから、生命教は、生命現象と知性現象が奏でる不協和音のようなものだとも言える。生と死を平然と繰り返している生命現象の横で、知性現象がヒステリックに騒ぎ立てているとも言える。

物生知現象ぶっせいちげんしょう

物生知現象ぶっせいちげんしょうとは、物理現象・生命現象・知性現象をひとまとめにした造語。宇宙の誕生から人間の知的活動までを含めたこの存在世界の現象の全てを捉えた呼び名。あるいは概念。逆の言い方をすると、この存在世界に物生知現象ではないものはない

と言ったそばからナンだが、この存在世界は突き詰めれば全て物理現象である。生命現象も知性現象も、物理現象には違いない(喩えるなら、物理現象は墨で、生命現象は墨絵、知性現象は墨で書かれた文字のようなもの。成分を調べてみれば、どれも結局は墨である)。しかし、同じ物理現象でも、物理法則への「従順さ」の違いから、それは3つに分けて考えることができる。また、分けて考えるべきである。

  1. 物理現象。物理法則に最も「従順」な、所謂、物理現象。即ち、星の形成や、天候、物体の落下や、金属の酸化などがこれに当たる。あるいは相対性理論や量子論で過不足なく描き出せる事象も全てこれに含まれる。

  2. 生命現象。何よりも、エントロピーの増大に背いているかのように振る舞う生命現象は、物理法則に対して、やや「従順さ」に欠ける。が、よくよく観察すれば、実は何一つ物理法則を犯してはいない。生命現象をただの物理現象と分けて考える必要がある一番の理由は、これが、〔先行する知性の存在を必要とせずに「自力」で知性現象を創出する物理現象〕だからだ。更に生命現象は、自然淘汰という「駆動装置」で、アメーバ並の知性現象をヒト並の知性現象にまで〔進歩・発展〕させる。

  3. 知性現象。〔それによって実現されている現象自体は、原理的に、物理法則を全く顧みなくても構わない物理現象〕が知性現象。知性現象が物理法則の制約を受けてしまうのは、〔知性現象の存在基盤となっている媒体〕が、常に必ず、〔物理法則に縛られた物理現象〕にならざるを得ないからであり、その部分でのみ、知性現象は物理現象に対して「従順」である。例えば、〔知性現象としての人類〕の媒体は、ヒトという生命現象であるが、生命現象の正体は、(2)で述べたように、物理法則に対してやや「従順さ」に欠けているだけの物理現象である。しかし、知性現象それ自体は、今我々が存在しているこの宇宙の物理法則に必ずしも従う必要がない、という点で、〔現行の人類が存在しているこの宇宙〕の物理現象である必要もない。これを別の言葉で言えば、「知性現象は自らが依存している宇宙=物理法則の外側にいる」ということになる(もっと言ってしまえば、ヒトという生物は、我々が所属するこの宇宙の物理法則があって初めて存在するが、その〔ヒトという生物〕が実現している〔人間という知性〕のもっとも純粋な部分は、〔全く異なる実在を実現している〕宇宙(物理法則)でも、同じモノが出現しうる)。

以上、3つの「物理現象」の中で、もっとも、定義が曖昧なのが、実は生命現象だ。結局、生命現象とは、「知性現象を伴った物理現象」のことで、それゆえに、ただの物理現象として片付けられることもある一方で、知性現象と同一視されることもしばしば。ここに、生命いのちと知性の混同が起きがちな理由がある(そして、この混同が、先に見た生命教せいめいきょうの蔓延につながる)。

【「家事」と「生業なりわい」】

現生人類の活動は大きく2つに分類できる。「家事」と「生業なりわい」だ。ただし、ここでの「家事」と「生業」は、普通の意味でのそれでなく、比喩である。この比喩で最も重要な点は、「家事」に分類される活動の全てが、「生業」なしでは、ただの「無駄骨」「徒労」であり、人間の活動の殆ど全てが、この「家事」に分類されるということ。実際、人間の活動で「生業」に分類されるのは、大きく捉えるならたったひとつしかない。

因みに、普通の意味で家事と呼ばれる活動の多くは、人間にとって非常に重要で不可欠である。しかし、家事を極めた専業主婦(主夫)が家庭を「守って」いても、その家庭に収入をもたらす活動、即ち生業に従事する者がいなければ、待っているのは餓死である。スーパー主婦(主夫)がどんなに完璧に部屋を片付け、洗濯物にシワなくアイロンをかけても、毎日減っていく食料が増えるわけではない。家事を極めても、それだけではジリ貧である。それが家事というものの本質。

「生業」とは何か?

知性現象が取り組むべき活動、それは究極的には「自前の宇宙の創造」ではあるが、生命現象依存型知性現象という〔不完全な知性現象〕である地球人類にとっては、その前段階である「人工人格の創造」が「生業」に分類される活動になる。「自前の宇宙の創造」という最終目標は、地球人類によって創造された人工人格が実現することになる。だから、人間にとっての「生業」は、科学技術の発展に精を出すこと、これに尽きる。

「自前の宇宙」が必要な理由は言うまでもない。知性現象の存続にとっての究極の危機が〔現行の宇宙〕の消滅だからだ。喩えるなら、今乗っている船がいずれ沈没する可能性があるなら、そうなる前に代わりの船を用意する必要がある。そのためには「船の作り方」を理解し、更には、実際に作れるだけの技術力も手に入れなければならない。さもなくば、沈没する船の道連れである(この「沈没の道連れ」が、上で述べた、収入源を持たない家族の「餓死」に相当する)。

「家事」とは何か?

自然人格が、自らの媒体である生命現象を維持運営するための全ての活動がここでいう「家事」である。即ち、政治・経済・医療・スポーツ・宗教は全て「家事」である。また、摂食・排泄・繁殖も全て「家事」である。更に、恋愛・友情・思想・信仰も全て「家事」である。

「芸術」の特異な位置

以前は「芸術」も「家事」の一つに過ぎないと考えていたが、最近、そうではないことに気づいたので、以下を「全文引用」する。

人間は、いつの時代のどの場所でも、所謂「芸術」と呼ばれるものの創作や制作に(無闇に)勤しんできた。何の得にもならないし、時に、穀潰しの汚名を着せられながら、しかし、労力を弛まず、財力を惜しまず。

当然、「全人類的疑問」が生じる。「人間にとって芸術とは何ぞや?」と。その答えはすでに出ている。『人間の終わり』の読者諸君にはもう答えの察しがついているはずだ。

勿体ぶるのは嫌いなので、トットと答えを言ってしまえば、芸術作品は全て、「生命現象非依存型知性現象」である。その完成度が著しく低いので、そうとは気づかないが、人間が芸術で実現しようとしているのは、少し言い方を変えてもう一度言うと、〔生命現象に依存しない知性〕の創造なのだ。

【以下、補足もしくは蛇足】
近年の人工知能の発展によって、〔知性は人間(生命)の専有品ではないこと〕に気付かされつつある人類は、しかし、「生命現象非依存型知性現象」」(長いので以下「人工人格」呼ぶ)というと、生成AI的な、コンピュータ的なものを想像しがちだ。だから、人間が人工人格の創造に取り組み始めたのも、コンピュータというものが発明されて以降のことだと誤解しがち。

しかし、よく思い出してみてほしい。読書体験も映画体験も、〔自分ではない知性〕との接触体験に他ならない。本も映画も、絵画も音楽も、登場人物や作者自身の「知性現象活動」の「〔保存・再生〕装置」なのだ。それらの芸術表現に触れたことがある者は、このことを否定しないはず。

要するに、人間は大昔から人工人格を作ることに夢中だったのだ。芸術が永遠の「生命」を持つのは、それが生命現象に依存していないからなのだが、人間はその「出自」故に「知性」と「生命」を一緒くたにしがちなので、ついうっかり、〔芸術には永遠の「生命」がある〕という言い方をしてしまう。で、〔芸術に「生命」を吹き込む〕とか、そういう「間違った」言い方・考え方もしてしまいがち。人間が芸術に吹き込んでいるのは「生命」ではなく「知性(知性現象)」。

そう考えると、人間が芸術に夢中になるのもよく分かる。自身の本質である「知性現象」を〔「生命現象」という「軛」〕から解放する試みが、芸術活動だから、人間の本質にビンビンに「響く」のだ。

芸術には最初から「生命」がないからこそ、半永久的に存在し続ける事ができる。生命現象に依存せずに、知性活動を再現可能な状態で保存する手段が「芸術」。それは「人工人格」輒ち「生命現象非依存型知性現象」以外の何ものでもない。ただ、恐ろしく「原始的」なだけ。

2024年2月14日 穴藤

『「芸術とは何か?」には答えがある』


科学の最終目的

現生人類の科学の最終目的は人工人格を創造すること。
人工人格の科学の最終目的は自前の宇宙を創造すること。

科学の「流用」と「悪用」

媒体である生命現象を維持運営するために、自然人格は科学を「流用」する。そのもっとも顕著な例が「医学・医療」である。
また、自然人格は科学を「悪用」もする。戦争がその最たるものだが、暴力によって他者を支配しようとする行為全般で、自然人格によって科学は「悪用」される。

人工自然じんこうしぜん」の創出

人工人格がすべての労働を肩代わりすることで、人間は、野生動物が森から自然の恵みを得るように、さまざまな工業製品やサービスを無償で受けられるようになる、人工自然とは、謂わば「自然の恵み ver.2.0」である。


【おまけ】

数学:maths

真の言語。所謂「自然言語」の全ては、数学の「訛り」

美:beauty

全ての知性現象が求める善なるもの。

虚無:naught

全ての知性現象が退ける悪なるもの。

生命:life

生命現象依存型知性現象が求める善なるもの。

死:death

生命現象依存型知性現象が退ける悪なるもの。

宗教:religion

「幼年期」の知性現象弄ぶ極原始的な科学。

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