「種の保存」という道楽

「種の保存」など、千年単位か、よくて万年単位でしか物事を考えられない人間の単なる道楽。で悪ければ、感傷。

38億年の生命の歴史を少し振り返ってみれば誰でも分かる。生命現象自体は、嘗て一度も「種の保存」など試みたことはない。生命現象は、どんな形であれ生命現象自体が継続すればそれでいい。その継続にどんな「種」が関わっていようと、知ったこっちゃない。様々な「種」が現れては消えして行くこと自体が生命現象の有り様とさえ言える。それは、個体としての人間が絶えず〔生まれては死ぬ〕を繰り返していくことで人間という生命現象が続いているのと似ている。

もっと言ってしまえば、個別の「種」を、生命現象にとっての特別な何かだと思い込んでしまうのは、人間が〔人間という「種」〕に過剰な思い入れを持つ存在だからだ。つまり人間は、〔生命の価値は「種」にあり〕と思い込んでいる。

と、いうとお行儀が良すぎる。

人間にとっての生命現象は〔生命現象でありさえすればいいものではない〕のだ。人間という生物種を作り出し存在させているからこそ、値打ちも価値も意義もあるのが、人間にとっての生命現象なのだ。早い話が「人間様を生かし続けてこその生命現象だろう!」と、大っぴらにか密かにか無自覚にかは別にして、みんな思っているのだ人間は。

人間がやたらと「種」がどうしたと騒ぎ立てるのも、人間にとって、馴染みがあったり、都合が良かったりする生命現象の「風景」を維持したいからで、いくら生物多様性が実現されていても、カンブリア爆発の頃の生命現象の「風景」は、きっと、人間様のお気には召さない。

要するに、「種の保存」は、ひたすら「人間本位」の活動であり欲求。百歩譲ってもただの「道楽」。

はたから見れば、わかりやすい偽善でしかない「種の保存」活動が、なにやら高尚で尊いもののように思えてしまうのは、人間という存在が、生命現象に依存した知性現象だからだ。もし本気で「種の保存」をやるなら、一日でも速く、自らが、生命現象から完全退場すればいいだけのこと。でもそれはやりたくないから、道楽みたいな「種の保存」活動に耽る。


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