『Zガンダム』(5周目):メモ

◯『Ζガンダム』を一文で言い表せば「痴話喧嘩の合間に戦争している話」。あるいは、「何人かの痴話喧嘩に巻き込まれて、無関係な大勢が死んでいく話」。

◯シロッコが象徴しているのは、「分かったようなことを言って、キャラ同士の殺し合いを見物しているガンダムファン」。これは大発見でもなんでもない。当人がそう言ってるし、ハマーンにもそう言われている。更に言えば、カミーユのシロッコに対する最後の叫びがまさにそれ。ガンダムの続編を無理矢理作らされた富野さんからの、「ガンダムファン」(おもちゃ屋を含む)に対する「怨み節」の爆発。

◯『初代』は、人類は結構な割合がニュータイプになる、と仄めかして終わる。その7年後の『Z』は、そこら中にいる「ニュータイプ」同士が戦場で殺し合ったら、当人たちには地獄だというオハナシ。輒ち、「アムロ・シャア・ララァの悲劇」が、毎回毎回繰り広げられる修羅場アニメ。

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【『Zガンダム』を勘定に入れない理由】

「痴話喧嘩」を延々描いて、最後に「オカルト」で終わるのが『Zガンダム』。ここで言う「オカルト」は、例えば、巨大隕石が地球に衝突するDisaster映画の結末で、人類が心を一つに「神様」に祈ったら、隕石が地球を逸れて、やれやれ助かった、みたいな展開のこと。最終決戦で死んだ人間(主に若い女たち)の幽霊(残留思念?)が次々と現れ、主人公に味方し、それによって主人公がいきなり謎の「無敵状態」になって物語を終結させるってのは、もう、ただの「少年ジャンプ」。でも、これはまだいい。「少年ジャンプ」は、馬鹿になれば愉しめるし、全部カミーユの勘違い(思い込み)ってこともあり得るから(実はそうとは知らずに、Ζやジ・オやキュベレイには、後に「サイコフレーム」と呼ばれるものが「材料」として使われていた、という「SF設定」を、ねじ込もうと思えば出来る)。

「勘定外」輒ち「落第」を決定的にするのは、シロッコを守ろうとする幽霊のサラに対して、幽霊のカツが、「あの人(シロッコのこと)も、こっちですぐに一緒になれるから」的なことを言って説得し、サラもそれで納得すること。要するに「死んだほうが幸せ」が『Zガンダム』の根底に流れている思想(という本音・諦め?)だということが、はっきりと示されている。これが決定的に駄目。

(因みに、この「死んだ方が幸せ・生まれる前が本来の有り様」思想は、『Ζガンダム』に限った話じゃない。劇場版『イデオン』の結末は、ガッツリそのとおりだし、『ダンバイン』の「バイストン・ウェル」だって、ありゃあ、どう見ても、「魂が帰る場所・本来居る場所」、要するに、「死んだ後・生まれる前」の世界。つまり、これは、富野さんの「持病」。)

「死後の世界」や「死後の実在」や「肉体に拠らない魂の永続性」が、物語の一番土台にあって、その「表層(生きている人間たちの世界)」で、好きだ嫌いだ、殺す殺されるをドタバタやってるという「世界像」を持っている『Zガンダム』は、自分自身の全50話を「最初から」全否定している。登場人物たちは、殺したり殺されたり、泣いたり怒ったり、騙したり騙されたりと、いろいろやってるけど、その全部は、「死んだほうが幸せ」という「真理」を「悟ってない」連中の「愚かな馬鹿騒ぎ」だと言ってるのと同じだから。

このことは、「魂」になった全キャラが全裸で宇宙を心安げに漂う劇場版『イデオン』のラストの方がもっとわかりやすい。観客はあの場面を見せられて、こう思うに決まってる。「死んでそんなに晴れ晴れと安心できるなら、ここまで見せられた二時間近くの〔殺すの殺されるのの大騒ぎ〕は一体なんだったの?」。

『イデオン』について書いたときにも書いたことだけど、「死後の実在」を肯定し、「死んだ存在になったら安らぎと悟りを得られる」とやってしまえば、生きている間のすべては、ただの「悪夢」に過ぎないことになってしまう。死んだことで、文字通りに目覚めて、「ああ、怖い嫌な夢をみていた」と安心するわけだから、これは、もうただの「夢オチ」。劇場版『イデオン』は、あのラストを付け足したせいで、完全な「夢オチ」アニメになったし、ちょっと分かりにくいけど、『Zガンダム』も、戦死者たちが全員、「安らいだ(ものが分かった風の)幽霊」となって、客観描写で登場してくる時点で、やっぱり「夢オチ」なのだ(←生きている人間たちが活動している世界は「本当の世界=本来あるべき世界」ではない、という立場だから)。

「夢オチ」が物語としては〔最低・最悪〕なのは、そもそも「虚構」である物語の「内側」で、もう一度「虚構でした」とやってしまうから。残虐非道なキャラクターに対して「本気で」ムカついている観客に向かって、当のキャラクターが画面の中から「ねえ、これ作り物だよ、芝居芝居。何をムキになってんの?」って言ってしまうような「ぶち壊し感」が炸裂するから。

初代『ガンダム』や『∀ガンダム』には、奇跡的にそれ(人間は死んでいる方が幸せで安寧で嘘がないという思想)がない。多分、この2作を作っているときの富野さんが「強気」だったからだろう。「自信」があったのだ。自信がなくて、弱気なときは、「高尚なもの」を小賢しく目指してしまう。でも小賢しさだけで「高尚なもの」を作り出そうとすると、まあ、たいてい、何千年も前から弄り倒されてきた、「魂の永続」だの「人間の精神の真の姿」だの「本当の世界」という「おもちゃ思想」に釣り上げられて、水面でパクパクしながら、「一見深淵、実は、幼稚で陳腐」な物語世界を構築してしまう。

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追記:人間存在の「理由」と「役割」は、我々の「物生知現象説」でもう答えが出ているのだが、人類のほとんど全ては、未だに「生命教信者」のままなので、どうしても「おもちゃ思想」を有難がって、『Zガンダム』だの『エヴァンゲリオン』だのに恍惚となる。

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