人という字

「人という字は二人の人が支え合ってできています」有名な言葉です。そう言われればそんなふうにも見えます。
が、本当にそうでしょうか。支え合ってるか?明らかに2画目の人の負担が大きくないか?と思うのです。よく見ると1画目の人が2画目の人に寄りかかっているようにも見えますし、むしろそう見えます。

しかし、それが正解なのかもしれません。長い目で見てお互いに支え合っている、つまり、誰かに寄りかかりながら違う誰かに寄りかかられているのではないかと。

そう考えると、私は明らかに1画目側の人間だなあとつくづく思います。誰かに寄りかかって支えられてようやく生きています。でも誰かに寄りかかられているような気はしません。人の負担になっている自覚はあっても、人からの信頼が負担になったことはないしおそらくそれほど誰かを支えたこともないのでしょう。そんな器でもありません。

人という字が寄りかかる人と寄りかかられる人であるなら、その連鎖が人間だとするなら、私は人間の欠陥品と言えるのでしょうか。それ自体はなんとも思わないですが、私が寄りかかってしまっている相手には申し訳なくなります。

とはいえ、私はその存在がなければ生きていけないし、もっといえば1画目の人は2画目の人の存在なしには立てません。人という字も完成しません。そうすると、無意識のうちに誰しも誰かにとっての1画目であり誰かにとっての2画目であるのではないでしょうか。そうでなければ人という字が何パターンも存在することになります。1画目側の人間と2画目側の人間の比率は1:1でなければなりません。しかし人間をどれだけ大きく分類しても小さく分類してもきっちり1:1なんてことはありえないので、やはり全員が双方の役割を担うと考える方が自然です。

私自身強くもなんともない人間なので、誰かを支えているという自覚は全くないですが、もしそうであるならそれは喜ばしく誇るべきことなんではないかと思います。私に限らず、誰もがです。

人の定義が人という字にあるならば、人は誰かに寄りかかりながら別の誰かに寄りかかられています。そう考えると、二者の間がwin-winでなくても人類全体を見てwin-winであれば人間として正解ということになります。

この人にはお世話になりすぎているなと思う相手に同じようにお世話し返すことは難しいです。しかし別の人に同じように接することはできます。それが人という字の表すところなのかもしれません。

人という字は2人の人間が支え「合っている」わけではなく、1人の人間がもう1人の人間に支え「られている」字です。それが人であり、その連鎖が人間です。誰もが誰かに支えられつつ誰かを支えている。そうあってほしいと願います。

これにて。2024年2月15日。

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