掃除の哲学

人生で8年間ラグビーをしていた。そのうち3年間は高校ラグビーだった。ラグビーの試合というのは命懸けで、怪我といっても腕や足の骨折くらいで済めばいいが靭帯を断裂してスポーツができなくなったり半身麻痺が残って生活に支障が出たり最悪の場合には死に至ることもある。実際そのような事例もある。ただこれは試合に限ったことではなくてラグビーというスポーツの特性によるものであるから練習でも同じことなのであるが、こと試合となるとお互いがお互いの命を懸けて闘っているわけなので練習よりも気持ちが入り激しくなったりもする。

そんなラグビーであるが、高校時代の監督が試合前日にいつも言うことがあった。
「明日死んでもいいように部屋の掃除をしてから来い」
この言葉をなぜか今でもよく覚えていて、ラグビーを引退してからも大事な日の前日は部屋を掃除してみたりする。翌日の予定がどう転んでも死に至らなそうなものであっても。

一人暮らしを始めてから掃除をするようになった。実家にいた頃全く掃除をしていなかったというわけではなく、私が実家でしていた「部屋の掃除」は片付けであって掃除ではなかったと気がついた。水回りやコンロの掃除なんて実家にいた頃はやったこともなかったし、床の埃や髪の毛がどのくらいの頻度でたまるのかも知らなかった。

そんな私が一人で暮らすようになり、汚れが目につくようになった。水垢や排水口の汚れ、油汚れが気になると掃除しなければ気が済まないようになり、掃除癖がついた。元々こだわりの強い性分なので気になったら他のことそっちのけでそこにのめり込んでしまう。歯磨きをしている最中に洗面所の汚れに気が付いたら最後、最終的に歯磨きを終えるまで1時間以上かかったりする。

そんなこんなで日々掃除と片付けをしながら生活水準をある程度保っているのだが、実家に帰ったときもその掃除癖というのが発揮されることとなった。実家はお風呂も洗面所も私の一人暮らしの家より当然広いので掃除が行き届いていなかったり、まして私のように簡単に思い立って掃除をできるような大きさでもなくそんなことをしている時間もないであろう家族なので、汚れにどうしても目が行くようになった。私が暮らしていた頃とさして変化はないはずなのに、当時は何も気にならなかったはずなのに、もしくは気になっても何もしなかったはずなのに、気になったが最後、綺麗に掃除することになる。

そこで考えるのが、実家とはいえ現況の自分の生活空間でないのにどうしてここまでこだわって掃除をしているのだろうか、ということである。実家に帰るたび、お風呂や洗面所を狂ったように掃除している私は、どこかなんらかの感謝の表明かもしくはなんらかの償いでもあるかのように必死に汚れを落としている。自分のためではない掃除をできるほど人間ができていないのでそれをするだけの理由がどこかにあるはずだと思うのである。

そこで監督の言葉が蘇る。
「明日死んでもいいように部屋の掃除をしてから来い」
この言葉を聞いた当時は遺品整理のようなことを思い浮かべていた。もし私が翌日死んだとしても、何がどこにあるかわかりやすいように部屋を片付ければいいんだなと思っていた。しかし、もしかするとそうではないのかもしれない。今の私のように、何かの感謝や償いであるかのような掃除具合はどこか「明日死んでもいいように」というニュアンスを感じる。
家族がその掃除に気づいていなくてもいいけれど、1ヶ月に1回程度実は綺麗になっているお風呂や洗面所が、私が亡くなった時綺麗にならないことにいつか気づいてくれるかもしれない。ごんぎつねのようなことである。

監督のあの言葉は、何か心残りのないように清算してから来いということだったのかもしれない。もっとも、そこまで深読みするような言葉でもなく状況でもなかったので、正解もないし深い意味もないのであろうが。感謝や償いの形として掃除が挙がっただけで、言葉通り部屋を片付けていればいいというわけではなかったのかもしれない。

私は元々自分のための家事はできても人のための家事はあまり得意でない。それが実家に帰った時の水回りの掃除だけはなぜかできるのである。苦でもなく渋々でもなく家族の誰にも見られないように必死でやるのである。気づいた時の家族の顔を思い浮かべながら。明日死んでも後悔のないように、明日死んでも私が生きた証が何か残るように、そんなことがその行為の裏にはあるのかもしれない。ないかもしれない。ただ、ほとんどが実家暮らしの高校生だったからこそあの言葉をかけたのだろうし、部屋の片付けをしなさいという意味でもなかっただろう。そんなことに今頃気づいたのである。

昔言われた言葉の含意に何年も経って気がつくことは多々ある。その場で読み取れるのが一番良いのであろうが、そんなことはできないのであとからでもわかればそれでいいのではないかと思う。掃除の哲学、というほどなにも哲学ではなかったが、私の中では哲学なのでこれはこれで良いだろう。

これにて。2024年4月6日。

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