コウイチの雑想ノート

岡崎孝一 / Koichi Okazaki  ロンドンのRoyal College o…

コウイチの雑想ノート

岡崎孝一 / Koichi Okazaki  ロンドンのRoyal College of Art卒業。写真家。現在東京在住。※意見や発言がコロコロ変わると思いますが悪しからず Instagram: https://www.instagram.com/ok___human/

最近の記事

Photography(ing) 

上の記事の冒頭でも少しだけ触れたことなのだが、一般的には写真は認識の対象である。それは文字や絵と同様に何かしらの観念や概念を指し示しているということだ。林檎という文字が林檎それ自体ではないように、林檎を写した写真は林檎を指し示しているに過ぎない。この意味において、写真はあらかじめ一定の虚構性を内包していると言ってよい。 しかし、この話はある意味当たり前のことで、本当に面白いのは「だからどうするのか?」という問いの方だろう。だから、私はそういった前提があり、(人間である以上)

    • イメージVS肉体

      イメージを認識する人間は、それに付随する記憶、感情、無意識を喚起され「頭の中で」リアリティを感じる。しかし、それは頭の中での認識の話に過ぎず、経験としてリアリティを持っているわけではない。 イメージは嘘つきだ!! だが、私たちは普段生活をする上ではそんなことをいちいち意識することもなく、戦場の惨状を伝える写真に怒り、推しキャラのイラストに悶え、今は亡き者を懐かしむ。イメージは人間の認識のバグに巧妙に働きかける。 私もそんなイメージと人間の関係を虚構だ、病理だと目の敵にし

      • 焚火の興

        焚火は火を起こすという人間にとって最も基本的で重要な行いの過程で自分の主体性を思い出せてくれる。だから、私にとって焚火のクライマックスは火を使ったり眺めたりする時間ではなく、まさに火を起こす過程にこそある。 まず、ナイフを使って薪を様々な太さに割る。そこから選んだ適当な薪を毛羽立たせるようにナイフで薄く削る。そして、ちょうどクリスマスツリーのようになったその薪を、一番下に敷き、その上に他の薪を細い順に積み、火を付ける。あとは、火の状態を見ながら適切な大きさの薪を適切な場所に

        • アイデンティティーのはなし

          いきなりになるが、私はアイデンティティーは存在しないと思っている。ここで私が言うアイデンティティーとは、ある個人の同一性を絶対的に定義できる「何か」のことだ。一般的にその「何か」は、名前、国籍、人種、民族、性別、ジェンダー、年齢、身体的特徴などを指す。そして、人間はそれらの要素を複合的に組み合わせながら社会的な自己というものを構築していく。しかし、それらは私が私であるということを絶対的に証明できるものでは無いのだ。なぜならば、先に挙げたような要素は非常に流動的であり、常に比較

          透明化された死

          上の記事で私は自分の生の実感の欠如についての考えを簡単にまとめた。そして、その原因として自分の生活を支えているシステムの「確かさ」の無さを挙げた。 システムにおける「確かさ」の無さとは具体的にどんな事であろうか? たとえば、スーパーで豚肉を買う時にリアルな実感を持って「これは生きていた豚を殺して作られた肉だ」と考えることがあるだろうか?また、街ですれ違う無数の人々それぞれに異なる人生があり、その数だけ異なる欲望、幸福、悲しみや夢があるということをどれだけ想像できているだろ

          ふわふわな視界

          僕には生の実感がない。毎日の生活が夢の中の出来事のようにふわふわしているように感じる。この感覚がどのようにして生まれたのか、具体的なきっかけなど思い当たることは無いのだが。この感覚は僕の中で切実な問題として存在している。もちろん、僕だって腹が減れば食うし、眠ければ寝る、カッターで指を切れば血も出るし痛みもある。でも、そういう生理的なところとは別のところで、自分が生きているという実感が欠落しているのだ。自我が肉体に収まりきっていなくて、少し自分を観察しているような感じがする。

          世界から争いが無くなるには?

          高校生の時、電車の中で世界から全ての争いをなくすにはどうすればいいのか?ということをふと、考えたことがあった。 僕が導いた結論は人類全ての感情や思考を並列化して、他人の体験をまさに自分のものとして感じるとこができるならいいのでは?というものだった。その延長線上で、究極的には人と人との間の差異や隔たりをなくせばなくすほど、争いは無くなっていくだろうと思った。争いの根源は「違い」にあると思ったからだ。完全に争いのない世界ではそっくりな人間たちが思考、感情、記憶の生成を集合知的に

          世界から争いが無くなるには?

          予定調和の視線を批判する

          まず、本題に入る前にハッキリさせておきたいことがある。この文章は私の写真に対する暫定的な考え方を記したものだ。さらに言えば、必ずしも人に読んでもらうために書いたものでは無い。では、なぜ公開するのかというと、今取り組んでいる作品と関連して、ある程度自分の思考と距離を保ちながら考えを整理するには、この方法が良いと思われるからだ。なので、修正・加筆は自分の中でその必要が生まれたら、その都度していくつもりである。 子供の眼 自分の中に強く焼き付いている子供の頃の記憶では、事物はむき

          予定調和の視線を批判する