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0426_不意な愛

 私の胸の中に、小さな赤子がいる。母親に聞けば生後3ヶ月らしい。

「ぃぎゃあぃぎゃあぃぎゃあ」

 生後3ヶ月の彼は力強く、顔を真っ赤にして泣き叫んでいる。何を、そんなに、怒っているのだろうか。私は思わず頬が緩む。

「本当にすみません」

 母親はこっちを見ては手元の書類を見て、ペンを持つ手を動かしたり止めたりしている。

「気にしないでください。ゆっくりどうぞ」

 私は言い、それは本心であった。胸にいる小さな小さな赤子はとても熱い個体である。熱い塊を私は抱き、発する熱を1番近くで感じている今、私は幸福で仕方がなかった。彼の怒り泣き叫ぶその顔の、細く刻まれた皺と、まだ保湿が足りていないわずかにカサついた頬や額のうっすいうっすい皮、もしくはキレイな皮脂。そのどれもが瞬時に愛しく感じるのだった。全くの他人であっても、である。

 母親は保育園入園希望の書類を書いている。私は単なる役所の職員で、たまたま幼児課に配属されており、たまたまその母親の受付をし、対応に困ったので先輩職員にお任せし、そのかわりに赤子を抱いている。
 弾け飛ぶ彼の熱に混じって、ふぅんと優しい匂いがした。生まれたばかりの赤ん坊の匂い。出来立ての匂い。

「ちょっと待ってね」

 母親がまた申し訳なさそうにこちらを見てはペンを走らせる。

「ぃぎゃあぃぎゃあぃぎゃあ」

 その声に気づいたのか、赤子の泣く声が一層大きくなった。お腹にいた時から聞き慣れている声なのだからそら安心感も大きかろう。

 そうか、私ではだめか。
 不意に悲しくなった。

 母親は数メートル向こうにいて、彼に、最も近いのは今私である。彼が何かをしようと思う際、絶対的に頼れるのは私なのに。ここには私しかいないのに。
 それでも母親がいいのね。

 そうか、そうか。
 私は仕方がないねと小さく言いながら、とんとんとん、と彼の小さな小さな背中を弱く叩いてやる。

 しばらく続けると、彼は寝た。
 大粒の涙を目の端に残したまま、ポッカリと小さなとんがった口を開けて。

 不意に嬉しくなった。

 母親でなくても、私のこの手から、あなたへの思いが伝わったのだと、無性に嬉しくなった。

「ありがとうございます」

 書類を書き終えた母親が、私の手からゆっくりと彼を抱きとった。
 彼は、私の腕からの去り際、ニヤリと笑った。


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