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0124_まぶた

 私は、彼がどうしても欲しかった。
 優しそうな表情とふわりと香る柔軟剤だろう衣服の匂い、近くに寄ると何となく温かいのを感じて、私はそれでもう満たされるのだった。
「お願いだから、一緒にいて」
 一年前の今日、私は自分の誕生日のプレゼントにと彼を所望した。彼は当時、仕事が忙しく、彼女はいないよと言っていた。だから、私の申し出に困った顔はしつつも、少しはにかんで了承してくれたのだった。私は嬉しくて彼の顔を覗き込む。すると、はにかんだその優しい顔の左目のまぶたがぴくぴくぴくと細かに痙攣していることに気づいた。仕事で疲れたりストレスがたまると出るんだよねと、これもまたはにかんだ顔で言われたので、私はその痙攣さえ愛しく思ったものだった。

 彼と付き合って今日で1年、まぶたの痙攣は現在消えている。

「仕事、忙しい?」
 彼とは1か月振りに会う。ここ3ヶ月は特に忙しく会えもしなければ電話もほとんど出来ていなかった。私の誕生日だからと、なんとか時間をとってくれた彼のまぶたはぴしりとしていて、1つもぴくついていなかった。3ヶ月までに会った時までは毎度小刻みに震えていたまぶただったのに。ああ、と私は下を向く。
「このところずいぶんと忙しくてね。ごめんね。全然時間が取れないんだ。昨日も会社に泊まり込みだったから、今朝一度家に帰って・・・・・・」
 彼はやや早口で説明を捲し立てた。こんな彼を、私は知らない。彼の、はにかんでいない顔を見るのは初めてだった。そして一度家に戻ったと言う彼の服から香る、およそ男性のそれではない香水の香りと、時間がないと言う割には見たことのない新しい服で、そのセンスも私は知らない。もう少し、もう少し信じてみたいと思って近づいたけれど、彼のそばで感じるのは温かさなどではなく、生ぬるさだった。
 私は知っていた。会えなくなった3ヶ月ほどまえから彼の家には知らない女性が訪れていたこと。何度も、彼の家の近くで見ていたから、分かっていた。でも彼になにかを言われたわけでもないから、どうにか信じていたかった。
 でももう信じられるものはなにもなくなった。
 無理矢理に付き合ってもらっていたわずか1年弱、私と会っている時の彼のまぶたはいつも、ぴくぴくぴくと震えていた。それが今はどうだろう。痙攣など少しも見せてはくれない。
 そんなに私はストレスだったのかと思うと、悲しいと同時に、そのストレスをなくしてあげられた知らない女性に感謝しかない。
 私は彼にお別れをした。彼は驚いていたけれど、随分とあっさり承知した。
 悲しいなと思いながら私は帰路を行く。
 泣きそうだなと思って目元に触れようとしたら、私の左目のまぶたがぴくぴくぴくと痙攣し始めた。
 彼のまぶただけが残ってくれたようで私は優しく人差し指でそれに触れる。
 よかった。ほんのり、温かい。

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★著者:あにぃ


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