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ここ最近の映像論

創作物には全て意味があってこれを作っているんだという強い意識を持って物事を見ているため、そこに見出されるものが何も無いと間延びさせているようにしか感じられない。映像は「現実」を写し取ったものであるので、現実を持ち出す意味を感じれなきゃならない。
芸術家は常に「新しいこと」をしようとしなければならないもので、ただ、私たちがどんだけ新しいことをしようとしてもそれは過去の作品のオマージュにしかならない。過去に全ては表現されている、そう教授に言われた時、酷く矛盾を感じていた。新しいことをしなければならないのもわかる。実際今の現代美術は新しいことをやろうとしすぎて訳が分からないという受けての立場に立たされることがほとんどで(私に絵の教養があまりないということもあり)
ただ最近の映画に見られるポリコレだの「全編ノーカット」だの、目新しいことをしたがるのはいいんだけどそこに私たちが何を見いだせるのか、それを引き出すのが監督の仕事なのに、そう思う。
そこに立ち現れた作品の中に込められた意味を感じ取る能力は教養に左右されてしまう。卒制を上映した時「解説がないと分からない」と言わた時はかなり幻滅した。

今だから絵画作品や作家が𓏸𓏸派だとジャンル分けできるだけで、私たちはまだ今を生きている限りジャンル分けなんてされてないわけだ。それは未来えらい誰かが、知らない誰かが決めることなので、自分の作品にジャンルを意識したことがない
どんな作品か、一言で言いあらわせないものだろう。

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