きゃしー

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最近の記事

少女のままで死ぬ

「あなたは自分で自分のことを優しいと言うけれど、全く優しくない」 そう言ったことがあった 私も自分のことを優しい人間なんだと思ってきましたが、そんなことないのかもしれないってその言葉を泣きながらぶつけた瞬間、何かの定義が自分の中で弾けて消えた 愛を持って毒を制す 優しい人間などいないです。自分で自称して回っていることは大抵は嘘です。客観視できていればこんなことにならなかったはずだけど。 やるならやる、やらなければいけないことがあるなら全部勝ってやります。 多分予備校に

    • 接客業の苦悩

      新卒からずっと接客業で生きてきた(それ以外の道が難しい)ので、ある程度の考え込みなどをしてきました。 しかし今年夏、分岐点がやってきました。なので今のところ対処してきた事柄を適当につらつらと書いてみようかと思います。 ・優しいお客さんには優しく ・ファースト声かけの時点で無視されても最後まで話し続け、めげない、気にしない ・自分が地雷だなという人と会ったらその人のテンション感に合わせて話す ・舐められないように強気で(強すぎるとクレームになるのでいい感じにフランクに)話す。

      • 景色を描いた私だけが風景から抹殺されてく

        泣きたい気持ちの時は泣いていいんだよーって自分に言ってみたけど涙ひとつ出なかった 日常に溢れる孤独感と虚無感とよく分からない自分の感情と色々とが重なって脳みそを駆け巡る いいこと書かなきゃーって更新しなかったnoteをちょっとだけ書いてみようかと思った 久しぶりの千葉は何も無かった 女子高生の集団に見られながら白いワンピースを着た、春だから そしたら照り返しがすごくて益々俯いて歩いた 暑くてどうしようもない吐き気と強制的に悲観的にさせるこの季節がすごく嫌いで行き場の無い気持

        • マティス展

          ※写真アーカイブのみ

        少女のままで死ぬ

          馴れ合う突き放す解き放つ

          思ったことを書き留めてもブログはサイトに依存していて、すぐどっか行っちゃうよね 昔描いていたアメブロも、フラッシュサイトで遊んでたゲームのチャットに書き込むだけのやり取りも、ずっと好きだった 壁打ち的な独り言的な取り止めのない言葉をこのインターネットに放流している 好きな人がパワハラしていた 私は昔からいじめやすいタイプで仕事で相性が合わなかった時パワハラ+セクハラ的なことをされたのを思い出す 映画の中で「怒り」の演技はすごく簡単であると思う。日本の映画は怒鳴ったり怒ったり感

          馴れ合う突き放す解き放つ

          私たちにまるで摩擦なんてなかったかのように

          空っぽになるばかりなの 家の中も散らかってばかりで読みたい本は山積みにしてその上からものを置いてそのまま避けてベットまでダイブしてそのまま寝ちゃうの そうすると本もなにもかも上に重ねたものがじっとりと質量を持っていく そうするとわたしの中から何かが一つずつかけていってしまうの 床にボロボロって撒き散らしながら歩いていくとそこにはなにもない 空白の中に紅一点 虚構の中にわたしはいる 空っぽの電車 空っぽの脳みそに 響いていく昔聴いて泣いていた大森靖子の歌声が トイレで吐いて涙ふ

          私たちにまるで摩擦なんてなかったかのように

          「愛するということ」Erich Fromm

          【著者】 エーリッヒ・フロム (Erich Fromm 1900~1980年) 精神分析に社会的視点をもたらし、いわゆる「新フロイト派」の代表的存在とされた。真に人間的な生活を可能にする社会的条件とは何かを終生にわたって追求したヒューマニストとしても知られる。著書に『自由からの逃走』『破壊』『悪について』『ワイマールからヒトラーへ』『反抗と自由』ほか多数。 この本を読むのには一苦労だった。途中までは良かったものの母性から始まり宗教色の強い段落も多かった。 その最中、本当に?

          「愛するということ」Erich Fromm

          ここ最近の映像論

          創作物には全て意味があってこれを作っているんだという強い意識を持って物事を見ているため、そこに見出されるものが何も無いと間延びさせているようにしか感じられない。映像は「現実」を写し取ったものであるので、現実を持ち出す意味を感じれなきゃならない。 芸術家は常に「新しいこと」をしようとしなければならないもので、ただ、私たちがどんだけ新しいことをしようとしてもそれは過去の作品のオマージュにしかならない。過去に全ては表現されている、そう教授に言われた時、酷く矛盾を感じていた。新しいこ

          ここ最近の映像論

          フラニーとズーイ

          フラニーとズーイ、フラニーでの読みやすさと話の面白さにこのままで行くだろうとズーイまで行ったら急に何言ってんだ?!ってなって、最終的に宗教哲学の話になって討論小説になるの本当に良くて、2章の序盤で作者の語りに入って長すぎて途中で読むのやめたけど再開してしまえばあっという間の速度で終わりを迎えた。 久しぶりにこんな面白い小説に出逢えた!と思った。 私は議論や討論が好きだ。 映画のなかでもなんでも映像媒体の中で人が永遠と話し続けているシーンが大好きでこれはもはや癖なのかもしれな

          フラニーとズーイ

          思考実験 続・パラノイア

          私は人と関わるのが苦手なので、かなり狭い限られた人々としか話したことがありません。他者と話し込むことがありません。そう言った前提の上でずっと考えてた話をします。 職場の人と雑談をする時に専門的な話になると、男性は細部に至るまで詳しく説明してくれる時がある。それはそれのオタクだからだ。 私はカメラのことを「自己表現を出力してくれるツール」だと思っている。男性的思考との決定的な違いはそこだと思っている。ツールなだけであって詳しくは知らない、みたいな?洋服が好きなのもそう言った

          思考実験 続・パラノイア

          パラノイア・ヘッド

          「パラノイア・ヘッド」これは、私が高校生の時に作った作品の名前だ。 アンチパラノイア、だ 過去の私に対してのアンチテーゼである。 2度、私は3度ほどハムスターの死を経験している。 1度目か2度目のハムスターの死を体験した時にパラノイアヘッドを作った。 限定公開の友達にはストーリーは見られていない 私から離れていくことを私は否定ができない 人に迷惑をかけていると生きているとそんでそうやって被害を広げている私如きの人間が 1匹目は記憶にありません小さかったです 2匹目は

          パラノイア・ヘッド

          天獄

          解像度の悪い白んだ空気 コマ送りの電光掲示板 浮遊する足の感覚と そわそわと乾燥した手 耳は閉塞感でこもって居る こんな場所だったっけ 電車に乗ってゆらゆらと 労働へ向かう

          君との隣接点

          ジャニヲタのときから与える愛だけやってきたから、そろそろそれがもう摩耗して疲れるってことに気づき始めている、わかってたけど本当はだけど認めたくなかったのであった。 自分と同じ魂を持っていると感じてしまっても、生まれと家庭環境は相容れないものだ。相容れてしまえてもおそらくは崩壊し失敗する。自分の魂と似ていると思うことは罪である。自分への裏切りなのだ。人に期待してしまうということをやめられない私にとって、のちに絶望するであろう未来をなぞるためのスタート地点に過ぎない。自分が傷つ

          君との隣接点

          喫茶室ルノアール 渋谷宮下公園店

          穴あきの服 一度しか着てない iPhoneの光を伏せてひたすら話した 3時間きっかり 色気あるお姉さんみたいな服が着たくて それにはなれないけれど めちゃくちゃ狭い4人しか入れない喫煙室 空想巡らす揺れる電車山手線 わたしの知らない街都会 薄くて汚れたパンフレットと古本屋 すすけた町のレコード屋 パッケージ全部同じ 中身だけ違う12インチ あほみたいな分厚い哲学書 殴ればきっとみんな同じ 海が見える町 わたしが考える空想の歌の風景 ワンルームけど大きすぎる だだっぴろさ 孤独

          喫茶室ルノアール 渋谷宮下公園店

          好きが一定の気持ちの中で天井にくっついてしまうと、そこからどんどん分からなくなる 足は重くなる だらしなくなる 虚しくなる 自分の重みが痛い

          好きが一定の気持ちの中で天井にくっついてしまうと、そこからどんどん分からなくなる 足は重くなる だらしなくなる 虚しくなる 自分の重みが痛い

          とても、それは罪の重さ

          ベッドに押し付けられている全体重がすべてで 肘とか足とか そういう部分に全てが乗っかっていて 実存していることがありありと分かってしまい とてもそれは罪の重さである ドビュッシーかく語りき 夜だ うたうたいが独りだと語る夜なんて それはまったく ひとりの夜では無い それはとっくにしっていた ピアノはとっくにやめていた いちど、というか何度か2回くらいか定かでは無いが 好きな人に全体重をかけてとお願いしたことがある 重たくて息苦しくて、それは生命の重さでその人が生きて

          とても、それは罪の重さ