劇団ド・パールシム『邪教』を観て

演劇というものに触れるのは修学旅行で観た『レミゼラブル』以来であった。なぜ最初にこのようなことを書くのかと言えば、私は演劇についてはその他の大抵のことと同じように門外漢であって、あくまでも純主観的に演劇を鑑賞する他なかったことをはっきりと申し上げておくためであり、実際私はそのようにして『邪教』と向き合ったのである。

早稲田駅近くの イズモギャラリーで『邪教』は演じられた。客席は20席くらい、ちょっとびっくりするくらいこじんまりとした空間であった。客席と地続きのステージには私が演劇と聞いてイメージするような書き割りの類はなく、机とソファーと冷蔵庫とが備え付けられていた。ちょっとおしゃれなセットのなかで、これから芸能人の対談が行われますよ、というような雰囲気であった。

『邪教』はどうやら会話劇と呼ばれる類の演劇らしかった。ステージの拵えは同棲しているカップルのリビングで、そこを舞台に4人が会話を繰り広げる。最初は場面転換の仕方に戸惑った。舞台が暗転するでもなく、登場人物の会話内容から時間が経過していたことがわかる。しかしこれにはすぐに慣れた。

また、この会話がちょっと変わっていた、いや変わっていないのかもしれない。歩き方とか食べ方とか、何か日常のありふれた行為の仕方を忘れてしまうような体験をしたことがある人は少なくないと思う。変に自分の動きを意識してしまって、何となく足の出し方が、咀嚼の仕方がぎこちなくなってしまうような瞬間。それに近いものをこの会話劇に感じた。日常会話の文法がばらばらにされてしまって、あれ、自分は普段どのように話していただろうか、話すとはこういうことであっているのだろうか、というような感覚になるのである。私は『邪教』が終わり友人と話しながら帰路についた時、自分の話し方が芝居がかっているような感覚を覚えた。

これは観劇の経験がほとんど皆無ゆえに推測でしかないのだが、映画やドラマを観てきた経験から察するに、演劇には演劇の文法というものが存在しているのではなかろうか。普段の日常生活でやっているような会話は、9割が無意味である。ほとんど10割と言ってもいいかもしれない。対して演劇における会話には「意味」がある。伏線がある。日常やっているような無意味で話したそばから忘れられていくような会話を舞台でやるわけにはいかないから当然ではある。それをするには上演時間を人一人の人生の時間に近づける他ないであろう。

畢竟、舞台上では意味のある会話をやらざるを得ない。これを『邪教』では逆手に取ったというか、過剰にやったというのが私の見解である。『邪教』では会話は過剰である。違和感を感じさせる程度には会話の中の単語が登場人物によって繰り返される。日常会話でも相槌のような、聞き返すような意味で相手の発言に出てきた単語を復唱することはあると思うが、『邪教』ではちょっとその域を超えている。それが単にコミカルな要素を演劇に加えるだけでなく、演劇における会話の異質性というものを浮かび上がらせているように感じた。

劇団ド・パールシムは、「緻密な会話劇で、美しい空気を求める。『愛』『性』『忘』といった不条理を美しく、リアリスティックに描く。」劇団だそうだ。したがって、ここから先は「愛」「性」「忘」についても触れてみたいと思う。

『邪教』は、カルト宗教の教祖の子、神の子であり、脱退して行方不明となったすぐるを取り巻く男女の愛の、あるいは愛の不在の物語であると、簡単に要約すれば言うことができると思う。皆何かの、誰かの代償として人を愛そうとする、歪で、空虚で、それでいて切実な営み。代償として人を愛することは確かに虚しい。しかしここではその虚しさにとどまらず、切実さがフォーカスされていたように思う。愛と詩は切実でなければならない。

最終場面がとても印象に残っている。婚約者と別れたいつきと、もう一人の元神の子であるいとが、「好き」「大好き」「愛してる」と激しく伝え合う。愛の言葉は陳腐化する。J-Popの歌詞にもよくあるが、世界で一番君が好きとか、愛してるとか、会いたくて会いたくて震えるとかいう言葉には、陳腐でありながらも恋愛の本質が含まれているようにも思う。それは言ってしまえば「本気になること」である。自分の恋愛に対して一歩引いてみてしまっているのはダサい。何事も本気でやるのが結局一番美しく、かっこいいのである。

その意味で、最終場面はとても美しかった。傍目から見ていると「好き」「大好き」「愛してる」と言いながらキスしあう姿は滑稽なのだが、やはりそこには恋愛の美学というものを感ぜずにはいられない。いくら滑稽で空虚で歪だろうと、当人たちが本気でいる限り恋は文字通り永遠なのである。睦み合ういつきといとを残して暗転し、とどめに「愛にできることはまだあるかい」が流れるのはあまりに滑稽だったが、それゆえに恋の美しさというものも同時に「匂い」立つように感じた。

最後に『邪教』を見て、私はガルシア=マルケスの『百年の孤独』を思い出した。これはコロンビアのどこかにあるマコンドを築いたブエンディア家の隆盛、そして滅亡までの壮大な物語なのだが、愛、ことに愛の不在というところに、そして劇団のテーマである「愛」「性」「忘」というところに共通点を感じた。大きな違いは、そこに積極的に美しさを見出すか否かという点だろうと思う。「愛」「性」「忘」はともすると醜く、滑稽でもある。それを美しく描こうとする劇団ド・パールシムの試みには大きく感じるところがあった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?