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「コミュ力」の正体

幼稚園の先生と親御さんがパン屋でばったり出くわした。僕がコーヒーを飲んでるすぐ隣で。その瞬間、ぱっと場が華やいだ。お互いに会話が盛り上がる。そして小話と挨拶を挟んで、さっと離れて行く。何もイレギュラーな事態が無かったかのように。

このとき幼稚園の先生が洗練された対応を見せるのは不思議なことではない。それがサービスだからだ。僕が驚いたのは親の対応の方だ。

気まずさや不意をつかれた様子を一糸も見せず、滑らかに対応していた。僕にはそれが、似たような状況をたくさん経験してきたからこそ成せる熟練技に見えた。

「コミュ力」の定義を今一度するのなら、それはただ話し上手や聞き上手であることではなく、「特定の状況における応対の洗練具合い」、つまり「社交」の能力なのだろうと感じた。いや感じさせられた。そしてその発見は「コミュ力」が欠落している僕をひどく不安にさせる。同じように滑らかな対応を自分が出来るようになるのだろうかと。

とはいえ、絶望する必要もないのかなと思う。正直に言うと、僕がパン屋で見た親御さんのように振る舞うのは困難に思える。しかしながら、幼稚園の先生のように振る舞うのはなんとか実行しうる気がしたからだ。つまり「社交」は難しくても「サービスとしてのコミュケーション」は模倣できる気がしたのだ。

教員の一部が「社交」は下手でも「教職者としてのコミュニケーション」で仕事を成り立たせているように、「営業職のコミュニケーション」や「技術職のコミュニケーション」をマスターして生きている人は存外たくさんいるのかもしれない。

「サービスとしてのコミュニケーション」が「社交」とどう違うかというと、
①サービスとしてのコミュケーションは仕事に関連する状況に限定されている。
②サービスとしてのコミュケーションは、コミュケーションを行う相手や場面、会話の内容がある程度限定されている。
③サービスとしてのコミュケーションは、限定されたパターンのコミュケーションを何度も繰り返す場合が多いため、再現可能性が高く、比較的学習しやすい。
こういった違いがある。端的に言えば「サービスとしてのコミュケーション」は「社交」よりもずっと限られているのだ。

そして限定されているが故に学習しやすい「サービスとしてのコミュケーション」は、自らの努力で少しずつ洗練させていくことが出来る。「あ、これまずかったかな」と感じたやり取りを訂正し、次に繋げていくことができる。特定の集団や組織、共同体の中に属している場合は特に、コミュニケーションを訂正し続けることが出来るのだ。そして「サービスとしてのコミュニケーション」は仕事の場を離れると「内輪のノリ」に変わり、これも同じく訂正し続けることが可能なのだ。

自分が生きていく中で接点を持つ「内輪のノリ」を少しずつ洗練させていけば、「コミュ力」がなくてもなんとかなるのかもしれない。もちろん内輪ノリにも弊害はあるし、外のコミュニティと接点を持つことが大事なのも確かだ。けれど結局のところ、内輪の外にもまた別の内輪があるだけなのだ。全てのノリは内輪ノリであって、真に開放されたコミュニティなど幻想にすぎない。今の私はそう感じている。だからこそ「内輪のノリ」を洗練させていくことは大切にしたい。それは自分が大切に思う人を大切にし続けることに繋がるからだ。

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