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留年しそう

電気系の学部に所属する僕にとって、大学の講義はいつも退屈なものだった。「今をときめく半導体のしくみを学んでいる」などと聞いた他人は、いかにも最先端の理論を学び、毎日の講義が興奮に満ちているかのようにイメージするかもしれない。しかし残念ながら、平凡な学生である僕からは、大学での学びと輝かしいビジネスがつながっている実感が、全くと言っていいほど得られない。

楽しみにしている講義が1つだけある。半導体の講義ではない。小野寺先生の講義だ。小野寺先生は、30代のかわいらしい女性の准教授だ。なんせ工学部ではクラスの9割が男である。楽しみにしているのが僕だけでないことは、疑いようがない。みんな一切口に出さず、ポーカーフェイスを装っているが。

小野寺先生は、その明るく親しみやすい性格と、スマートな気配りで、学生からの信頼が厚い。しかし今日の彼女は、いつもと違った意味でクラスの注目を集めた。講義室のドアを開けた瞬間、甘く香ばしい香りが僕の鼻をくすぐった。視線を辿ると、先生がいつもの教卓の上に、丁寧にラッピングされたお菓子をずらりと並べているのが見えた。

「お菓子を作りすぎたので、よかったら授業の後でどうぞ」小野寺先生は少し照れを隠すような笑みを浮かべながら言った。

その瞬間、教室中がざわめいた。講義を受けに来ただけのはずが、まさかのお菓子タイムが待っているなんて、誰が予想しただろう。僕は心から感謝した。そのお菓子は、ただのお菓子ではない。小野寺先生の温かさ、学生一人一人への愛情が込められているに違いない。そんなわけあるかいッ!

僕の心はワクワクでいっぱいだった。お菓子がうれしくて、授業の内容をメモする手が、いつもより少し軽やかに動いているように感じたが、小野寺先生の語る電気回路の話は、もはや何も頭に入ってこなかった。この予期せぬ幸せなサプライズが、元々ダメな僕を、より一層ダメにしてくれているからだろう。

授業が終わり、小野寺先生が「お菓子をどうぞ」と言った瞬間、僕は挙動不審ながらも、一番乗りでお菓子を手に取った。ラッピングをそっと解くと、中から現れたのは見た目にも美しい手作りクッキーだった。一口食べると、サクッとした食感の後に広がるバターの豊かな風味。それは、ただ美味しいというだけでなく、まるで小野寺先生と通じ合えたかのようだった。

冴えないキャンパスライフを送る大学生にさえ、時にはこんな風に小さな幸せが芽生える。大学とは、知識を得る場所でありながら、人との出会いや思いやりに触れる場所でもあるのだ。

小野寺先生の講義がいつもより早く終わった瞬間、僕の頭の中に、突如として閃光が走った。それは、今日が通常の日ではないことを思い出させるものだった。そう、今日は同じ時間に、佐野元春がゲストとして来る特別な講義があったのだ。小野寺先生の温かみにひたっている間に、すっかりそのことを忘れていた。

佐野元春、彼の音楽は僕の高校時代からの友だった。彼の詩的で情熱的な歌詞、心に響くメロディーは、僕にとって多くの感情を呼び起こす。彼の音楽は僕の青春そのものであり、彼の言葉は僕の短い人生の多くの瞬間で背中を押してくれた。そして今、その伝説のシンガーソングライターが、僕たちの大学にいる。この機会を逃す手はない。

僕は、まだ口の中に残るクッキーの甘さをかみしめながら、荷物をまとめて急いだ。心の中は、小野寺先生への名残惜しさと、佐野元春の講義を少しでも聞きたいという焦りが入り混じっていた。廊下を駆ける足音は、僕の心の高鳴りをそのまま表していた。ただ急いでいるのではなく、音楽への愛、アーティストへの尊敬、そして何より、人生でめったにないこの機会を逃したくないという焦りが込められていた。

特別講義が開かれている教室に近づくにつれ、僕の心はさらに高鳴った。静かにドアを開けるその手には、わずかな震えさえ感じられた。僕は一歩、教室に足を踏み入れた。そこには、多くの学生が佐野元春の言葉に耳を傾け、彼の存在に魅了されている光景が広がっていた。

僕は静かに席に着き、佐野元春の話に耳を傾けた。彼の声は、レコードで聴くのとはまた違った、生の温もりと力強さを持っていた。残念ながらすでに講義は終盤だったが、音楽に対する彼の情熱、創作活動への姿勢、人生と向き合う哲学が、言葉を超えて僕の心に響いてきた。この瞬間、僕は音楽が僕の人生に与えてくれるものの大きさを、改めて感じることができた。そして、小野寺先生の講義室を急いで抜け出したことの悔しさも、この特別な体験の前には小さなものとなった。この時、僕は真の意味で、音楽とは何か、アーティストの言葉が持つ力とは何かを感じていたのだった。

佐野元春の特別講義の終わりを告げる拍手が鳴り響き、僕は講義を最初から聞けなかった悔しさとともに教室を後にした。自分の気の緩みによって失ったものの大きさに、惨めな気持ちが心を覆った。周りの熱心な学生たちは、終わったばかりの講義に興奮し、佐野元春の元へと質問を投げかけるために駆け寄っていた。しかし僕は、そんな彼らとは違い、満たされない空虚感を抱えて一人教室を出た。

教室を出ると、キャンパスはすでに暮れかけていた。空には僅かに残る光がちらつき、その光が僕の不安をより一層際立たせているようだった。僕の心の中では、ただでさえ満たされない気持ちが、今度は進学のために必要な単位の不足への不安へと移っていった。ちゃんと単位を取れるのか?進学のためにあといくつ単位が必要で、そもそも受講している講義数自体十分なのか?調べるだけのことなのに、それすらもしっかりと把握できていない。自分の不甲斐なさを痛感すると同時に、もし単位が足りずに留年でもしたら、という恐怖が僕を襲った。

キャンパスを彷徨いながら、僕は自分自身との戦いを続けていた。この大学での日々、僕は何をしてきたのだろうか。音楽を聞くことには情熱を持っているつもりだが、学業においてはその情熱をうまく活かせていない。というか、音楽って聞いてるだけでもいいのだろうか?僕は気持ちを、演奏や歌に乗せることはできない。どうして僕は、みんなのように物事をきちんとこなすことができないのだろう。その答えを求めても、僕の中からは何も返ってこない。みんなと同じようにできないこと。それが僕の性質であるにすぎない。ただ単にそれだけのことなのだ。僕は意味もなくキャンパスの暗がりをさまよっていた。いつものようにまっすぐ家に帰らないことで、何か楽しいことが起きる可能性に期待しながら。そんなわけないのに。

周囲にはもう誰もおらず、ずいぶん静かになった。足音が、まるで自分の孤独を象徴しているようで、心がさらに重く沈んでいく。佐野元春の言葉を思い出そうとするが、それも霧の中のように遠く、掴みどころがない。このままでは、自分の未来に何が待っているのか、何も見えなくなってしまいそうだ。

僕は深く息を吸い込み、夜空を見上げた。曇って星一つ見えない空に、自分の心情を重ねた。もしもこの不安と戦い、それを乗り越えることができたら、きっと強くなれるはずだ。根拠もなく強がってみる。しかし今の僕には、その一歩を踏み出す勇気さえ見つからない。そんな自分に、僕はただただ失望していた。


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