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11ぴきのねこぜんぶ読む|『11ぴきのねこ』シリーズを読んで

ユーモアに隠れた集団の暴走と手塚治虫と反戦と

11ぴきのねこ』シリーズはかなり変なお話し


『池の水ぜんぶ抜く』というTV番組があります。池に溜まったゴミを掃除したり、外来種の駆除をしていました。しかし、生態系が崩れたり、そもそも外来種=悪では無いという意見など賛否両論あったようです。それぞれの土地で環境も違うので、半分抜くとかゴミだけ拾うとか臨機応変にやる必要もあったかもしれません。でも、町の人が総動員でうわーっと池の中を探していて、一視聴者としては何があるのか好奇心がくすぐられついつい見ていました。ぜんぶ抜くというのがポイントで、ベールに包まれていたものが明るみになるのが、不思議なロマンがあったと思います。
 その番組に影響されたわけでもないですが、シリーズ物を全部読むという事をやってみたいと思いつきました。
 絵本ではシリーズものが多いですが、その中の一冊しか読んだことがない作品がありませんか?また、何十年も時間が経ってから続編が出ることもあるので、シリーズだと気づかずに一冊だけ読んで大人になった人も多いかもしれません。1冊だけ読んでもわからなかったことが、ぜんぶ読むことで何か見えてくるかもしれない。そこで今回は『11ぴきのねこ』全6巻をぜんぶ読んでみたいと思います。(ネタバレを含みます)
 そもそも『11ぴきのねこ』はディズニーの『101匹わんちゃん』のパロディーですよね。『101匹わんちゃん』の映画が公開されたのが1961年で『11ぴきのねこ』が発行されたのが1967年なので、同時代のパロディ作品とも言えます。

集団は暴走して崩壊する

 全部読んでまず思ったのは『11ぴきのねこ』シリーズはかなり変なお話しということ。普通は、敵をやっつけたり、誰かと結婚したり、お母さんの元に帰るとか、平穏や安心でスカッとするのがお話しのエンディングの定番なのです。『101匹わんちゃん』だって毛皮にしようと襲ってくるクルエラをやっつけて、飼い主の元に戻るお話しです。でも11匹のねこはやっちゃいけない事をやって、最後は暴走して、みんなが崩壊して終わる事がほとんどなんです。一作目だけ読んでみると、全員で力を合わせれば大きな魚も捕まえることができる、みたいなメッセージにとることもできます。でも、みんなにもってかえるはずの魚を途中で食べてしまって終わりなのです。やっちゃいけないことをやってますよね。こんなかわいくて楽しい話のどこが?と思うかもしれませんが、まさかと思って他のシリーズも全部読んでみたんですが、エンディングは常に11ぴきのねこの集団は暴走して崩壊することを何度も繰り返しています。エンディングは全部このようになっています。

●1967年「11匹のねこ」釣った魚をみんなにみせるはずが、持って帰る前に食べてしまう。

●1972年「11匹のねこ とあほうどり」 あほうどりには巨大な仲間がいて、逆にコロッケを作らされる。

●1976年「11匹のねこ とぶた」 ぶたの家を乗っ取って住もうとしたら、嵐が来て家ごとねこ達が全員吹き飛ばされる。

●1982年「11匹のねこ ふくろのなか」 花をとるな、はしをわたるな、ダメだと言われている事を全部やって、怪物に捕まってしまう。

●1989年「11匹のねことへんなねこ」 へんなねこが乗ってきた宇宙船を修理するのをねこ達に邪魔されながら、宇宙へ去っていく

●1996年「11匹のねこ どろんこ」 恐竜のジャブに泥沼に放り込まれる。

馬場のぼる氏の戦争体験と手塚治虫との交流

 あまり子ども向けの本らしくないですよね。子どもの本にあるカタルシスがこの絵本には無いんです。それはどうしてでしょうか? それは作者の馬場のぼる氏があえて集団の暴走する姿そのものを『11ぴきのねこ』で描いているからだと思います。
 暴走する集団とは、空気を読む組織です。このシリーズをぜんぶ読んでみるとトラネコ大将以外には個性は与えられていません。こういうグループの動物ものでは、小さいねこ、太っているねこや、ハンサムなねこなど個性を描きたくなるものです。古くはアニメ『がんばの冒険』、舞台の『キャッツ』映画の『ミニオン』でも個性的なのが何人かはいるのが一般的です。しかしこのお話しではそれは一切ない。トラネコ大将以外の他のねこ達は顔や背格好も全部同じです。まるで言われた事を実行するだけの兵隊のようにも見えます。個性も与えられていないから意見も出てこないので、いたずらが度を過ぎるのを止めようとも、やりすぎだとも言わずに、一線を超えてしまうのです。
 これは、おそらく馬場のぼる氏が戦争を体験していることに関係していると私は思います。調べてみると、海軍に入隊し特攻隊に編成され訓練中に終戦となったそうです。また、あの手塚治虫と親しい交流があったことからも、反戦の気持ちが強くあったことは想像できます。第二次世界大戦は軍部が暴走し戦争に導きました。敗戦が色濃くなっても誰も停戦や和平交渉に持ち込む事ができず軍部はさらに暴走し特攻作戦まで行い、結果的に原爆を落とされるまで戦争は終わらなかった。そんな時代を生きていたからこそ、組織は面子を優先し忖度して空気を読み合って誰も反対意見が言えず歯止めができずに暴走する。ということを反戦と皮肉を込めてコミカルに描いていると思うのです。集団は一度始めたら止められないという皮肉に感じます。誰も反対意見が言えずに暴走して一線を超えてしまう、企業や芸能事務所や万博など、似たような例がいまだにありますよね。

集団VS個人 でもやられっぱなしではない

 そして、このお話しは組織対個人の物語でもあります。ぶたやねこや恐竜は隣人として現われます。最初は仲良くなりますが、集団が境界を乗り越えて個人のものを横取りしようとする場面がたくさんあります。さらに、いつも11ぴき対1人になってしまいます。

●「11匹のねこ」巨大な魚を、みんなで捕まえて食べる。

●「11匹のねこ とあほうどり」 やってきたあほうどりの家族を鳥の丸焼きにして食べてやろうとたくらむ。

●「11匹のねこ とぶた」 ぶたと仲良くなったのに、ぶたが作った家があまりにも素敵にできたから、それをねこ達が横取りする。

●「11匹のねこ とへんなねこ」 へんなねこと仲良くなったのに、へんなねこが乗ってきた宇宙船を乗っ取ろうとする。

●「11匹のねこ どろんこ」 子どもの恐竜のジャブに魚をとられたと言って、崖の上から岩を落として痛めつける。

 このように、ゲストキャラを相手を大事な友達として仲良くなるのではなく、やり込めて11ぴきのねこの組織の方に取り込もうとするわけです。これも戦時中の日本政府や高度経済成長期の日本型の企業などの滅私奉公させる組織を皮肉っているようにも思えます。でも、11ぴきのねこのすごいのはこの個人のキャラクターが決してやられっぱなしではないところです。
 一見、11ぴきのねこと対峙するから敵のように見えるゲストのキャラクター。魚、あほうどり、豚、ねこ、ウヒアハ(怪物)、恐竜。これらはとても個性的に描かれています。11ぴきのねこという集団に対してうまいことやって一泡吹かせます。実はこの物語は個人を視点にこちら側を主人公にすれば王道の物語になります。大事な物を横取りしてくる集団をやり返して終わるのでスカッとしてカタルシスがあるわけですから。でもあくまでも11ぴきのねこが主人公というのが確信犯的に集団の暴走を描いている理由にもなります。このゲストキャラがしたたかに描かれることで、逆に11ぴきのねこがむなしく見えるのです。一人がやったら俺も俺もと暴走して、最後には崩壊する11ぴきのねこ達は情けなくもあり、バカバカしくもあって人間らしく(ねこらしく)てしょうもない存在に思えるのです。最初に変なお話しだと言いましたが、このしょうもなさをシニカルに絵本で描いているから、多くの人が記憶のどこかにこの作品が残っているのだと思います。

 あのTV番組『池の水ぜんぶ抜く』も11ぴきのねこだったら、他の動物の事など考えず生態系が壊れるまで池の水を抜き続けていたかもしれません。そして最後は自分たちの食べる魚もなくなりお腹をすかせてしまう。なんてエンディングが想像できますよね。

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