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野田秀樹が見せた「ノンフィクション」と「フェイク」 〜舞台「フェイクスピア」の感想〜

最後の10分間は、流石に目から汗が止まらない時間だった。

それは、この10分に演じられた場面が墜落事故のときに起こった飛行機内の出来事の再現であること、その墜落まで最大限の努力と絶望に近づく時間と悲しさが自分の中にさらに情景として押し寄せてくること。更にいうと、この「日航機墜落事故」は自分の身近な知り合いに起こった出来事ということもあって、どうしようもなく気持ちの入り方が強くなってしまい、感傷的になっていることもあったと思う。

野田秀樹さんはここ最近の作品では、戦争・原爆・人間魚雷・人体実験・シベリア抑留・ベトナム戦争といった、歴史上の出来事を重ねつつ、その悲劇的な事象を、人の業として描いている。個人的には「逆鱗」における絶望は、やや冗長的ではありつつも、最後の人間魚雷に搭乗した瑛太さんの演技が、そして松たか子さんの演じる人魚の悲しさが素晴らしかった作品だと思っている。前回の「Q」もクイーンの曲を使ったことが先行して話題になったが、実際には「ロミオとジュリエット」のモチーフと「引き裂かれた愛」と「書かれなかったが届いた手紙」という構造と、やはり松たか子さんと初めての舞台出演だった広瀬すずさんの素晴らしい演技に魅了された記憶が強く残っている。

ただこういった作品群の基本は、事象は事実であっても、その事実を紡ぐ言葉は「セリフ」であり、野田秀樹という戯曲家が作る創作でありフェイクであるともいえる。その言葉とリズムの巧みさが悲しみや絶望、愛、希望などなど様々な感情を呼び起こす演劇となっている。今回、野田秀樹さんは「事実」を選んだ。これは演劇というフィールドでは、特段珍しいことではないと思うが、言葉を自由自在に使う野田秀樹という戯曲家が「墜落時のボイスレコーダーに残された言葉」を使った意味がどれほどのものか、、、、もちろんこの「フェイクスピア」という舞台は、素晴らしい作品でした。それと同時に野田秀樹という舞台人がなぜ「事実の言葉」を使ったのか?は非常に大きな意味を持っていると、自分は思っています。

作品は、白石加代子が恐山のイタコ見習いという設定で話が始まる。ちなみに白石加代子がイタコの修行をしたという台詞があるが、フェイクのはず(高校卒業後に区役所づとめをしていた)。このイタコ見習いアタイのもとにmono(高橋一生)と、楽(橋爪功)の二人がやってきて、口寄せを依頼する。実際に口寄せをすると何故か、monoと楽には降霊するが肝心の見習いのアタイのところには降霊しない。monoは大事そうに箱を抱えている。その箱の中身は「言葉の葉っぱ・ことは」という。アタイには実際はいろいろな降霊が起こり、その中には母である「伝説のイタコ」(前田敦子)だったりシェイクスピアとシェイクスピアの息子(野田秀樹)だったり。monoと楽の会話は、シェイクスピアの四大悲劇をモチーフとしたセリフの応酬が起こったり、その言葉のなかに少しずつ箱の正体を明かす言葉が盛り込まれていく。

後半、アタイのイタコ見習い卒業試験、アタイは楽のちからを借りて(mono箱を探しに行き、不在)、試験に臨む。このシーン、イタコはかつて目が見えない女性が行ったという風習をなぞってか、目隠しをして行うという描写になり、その時の照明をいうか陰影のコントラストが素晴らしく良い。先日のパンドラの鐘のときもそうだったが、その暗闇の中に響く言葉の鋭さは、舞台を生観劇するからこそのものだと思う。

しかし卒業試験でアタイは降霊が起こらず不合格。そのあとmonoと楽にもう一度起こる降霊によって、箱の中身が日航機墜落事故のときのボイスレコーダーであり、「どーんといこうや」「あたまをあげろ」という断片的な言葉が意味するものが描かれていく。そして、monoが大事にしていた箱が無事に見つかり、その箱の中身がフライト時のボイスレコーダーで有ることが明かされる。そこからmonoは飛行機のパイロットとなり、イタコの先輩(村岡希美)はスチュワーデス、川平慈英・伊原剛志は副パイロットとなり、最後の瞬間をそのパイロットの息子である楽に見せていく。

冒頭からmonoと楽が繰り広げる寸劇で引用されるシェイクスピアの戯曲、この引用の必然性は、どうだったのか?と言われるとなかなか難しい。シェイクスピアが描いた悲劇を紡ぐ言葉という意味合いと、リアルな悲劇の場での言葉という対比であり、そこに残る言葉が「リアル」なのか「フィクション」なのか、大事なのは事実であれフィクションであれ、その言葉が人に与える重さが必ずあって、その重さはリアルに残るものであるということ。今回の「日航機墜落事故」の言葉は、あまりにも重く、そして人に降りかかる悲劇としてはあまりにも辛いし、しかし最後の瞬間までパイロット、スチュワーデスは助かるための努力を続ける。事故の様子を描くラストの辛さは、言葉にし難い重さを感じます。

そして、野田秀樹はなぜ「本当の言葉」を選んだのか?

このコロナ禍における私達、演劇を取り巻く日常と無縁ではなく、フィクション以上のリアルもあれば、やはりリアル以上のフィクションの体験もある。野田さんは今回「リアルを見せるフィクション」という形を「観客にリアルに届ける」ということを行いました。そしてこの作品は「客席」で見るからこそ、ライブで見る作品だからこそのものだった。以前あった「演劇の死」という話で、「観客に届ける」ことの意味を投げかけましたが、まさにその「投げかけ」が舞台という場で行われていると思います。

個人的に、、、、、野田さんがこの「事実の言葉」をえらんだことは、この作品での描かれ方を見ると、圧倒的に「事実の言葉」の重さを見せつけているようにも受け止められます。もちろん言葉の重さ自体は実は嘘もホントも相手にとっての重さなので、嘘でも重い人、事実でも軽い人、どっちもいる。この作品を見たときに、事実の言葉が語る「事実の重さ」が伝わってくるということ。それは亡くなった人の数や事故の原因だったりセンセーショナルな画像だったり、残された人の悲しみの言葉とか、そういう事実に肉付けされて補完された「悲劇の集成」なんだとは思います。野田さんが「当事者」として見てほしいと公演初日後に語っていますが、観客はその悲劇を見ている当事者でした。その重さに圧倒されて、その悲劇に目をそらすことができず、役者が演じる絶望の瞬間まで見続けることをやめられない。やめることなんてできるわけがない。事実の言葉が使われて演じられる墜落の瞬間から目をそらすことができない、そんなことはしてはいけないと思わせるくらいの時間だったと客席にいた自分は、今思い出します。

ただ、野田さんがこの武器を使ったことは、これからの演劇創作で大きな転換でもあるのかなと思ったりもします。

さらにサンデグジュベリの「星の王子さま」を前田敦子さんに演じさせつつ「夜間飛行」という言葉が数回出てきます。この「夜間飛行」の場合は、郵便飛行におけるパイロットの苦悩や仲間の事故、飛び立つ勇気などを描いた小説ですが、やはりこのあたりはラストへの違った意味でのメタファーだったのかも。

高橋一生さんの演技は素晴らしかったです。身体表現もそうですが、役者さんとしての繊細さが随所に感じられる。ドラマ「天国と地獄」の演技での素晴らしさもそうですが、今回も箱を抱えるmonoが墜落時のパイロットであるという圧倒的な悲しみをしっかりと見せています。身体の柔軟さも見事で、冒頭の「誰も聞くことがない音は音なのか?」という問いかけから入る柔らかい動きから始まり、最後の墜落シーンでの演技といい、もっとずっといろいろな作品で見ていたい役者さんだと再認識。昔、第三舞台で見ていたときには繊細ですが、強さをあえて抑えたような演技だったと思いますが、この作品での高橋一生さんのうまさはまた格別という感じです。

橋爪功さんと白石加代子さんのお二人の存在感、見事というばかりで、特に橋爪功さんが冒頭、シェイクスピアの悲劇をなぞった演技をしたり、途中からはパイロットの子供という設定で演じることになりますが、このあたりの強弱ももう見入るしかない演技。白石加代子さんはある公演日で、演技が危なかったという話をSNSで見ていて、心配ではありましたが、今日の公演ではそんなことを微塵も感じさせず、安心してイタコ見習いを楽しめました。二人の見せる年齢という枠を越えて、ステージ上で観客に届けるものの多さ、深さはキャリアというだけでなく、表現者の技量ですね。橋爪功さんが、子供言葉を使っても、そこがステージの上であれば、その世界が成立することに上手さを再認識します。

前田敦子さん、三役を切り分けて演じますが、良かったと思います。躍動感もあり、もう少し大雑把な演技だったら嫌だなと思ったのですが、杞憂でしたね。動きに関してはなんの心配もいらない方なので、発声と舞台上での動きの切り替えなどはどうかなと思っていました。イタコのとき、星の王子さまのとき、白い鳥とうまく声色含めて、使い分けとキャラクターの印象付けをしっかりとしていて、イタコのときの雰囲気はとても良いものだったと思います。
村岡希美さん、いつもいろいろな劇団で見ている気がしてしょうがない(笑)。今は阿佐ヶ谷スパイダースにもいますしね。最近、野田さんの作品に使われることが多いなと思うのですが、村岡さんは声が独特で、高い感じもあるけどすごく響く。あとは喋りのイントネーションが、なんとなく遊眠社のときの台詞回しの感じがあって、野田さんは結構気に入っている部分もおおいのかな?と思ったり。村岡さんはキレがあるので良いですね。

川平慈英さん、伊原剛志さんはそんなに出番は多いわけではないのですが、中盤でのシーンの随所でいいコメディ、ラストの墜落シーンでの緊迫感の演技、どちらも素晴らしいアクセントになっていたと思います。
あと東京芸術道場のメンバーのアンサンブル、良かったです。みなさん動きのキレが良くて文句なし。赤鬼もすごく楽しかったですし、また彼らの演じる公演がみたいです。

もう一回、東京公演の千穐楽に行きます。今回は少し情緒的な部分に自分が気持を持っていかれて、キチンした内容が残せていない感じもします(笑)。それくらい気持ちをざわつかせる作品だったと。また冷静にみることで変わることもあるかもしれませんが、もう一回この作品を楽しめる喜びに感謝でもあります。

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