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雨が止んだら、皆で虹を見よう。

BUMP OF CHIECKEN「虹を待つ人」の歌詞を解釈してみたいと思う。

小さい頃からBUMP OF CHICKENが好きだった。
もちろん歌声も曲も好きなのだけれど、とりわけバンプの詞が好きだった。

バンプの詞には、世の中にある悲しみや痛みを受け止めながら、それを乗り越えようとする強さと優しさがあると思う。

例えば、


「消えない悲しみがあるなら 生きつづける意味だってあるだろう」(HAPPY)
「気づくのが遅くてうなだれた僕の目が捕えたのは 水たまりの中の小さな芽、新しい芽」(ハルジオン)


こんな風に、辛い時や苦しい時に、バンプの歌詞に救われたことが何度もあった。僕の感じた救いを、他の人も感じてもらえたらとても嬉しい。

それでは本題、「虹を待つ人」の詞について書きたいと思う。
もちろん解釈は人それぞれで、僕の一意見だということは悪しからず。

まず、「虹を待つ人」のPVを見てほしい。
01:50あたりで、女性二人がキスをしているシーンがある。
この二人がそうなのかは分からないけれど、LGBTのシンボルマークは「」だ。

虹には、たくさんの色が含まれている。男女という2分法にこだわらず、全ての人々に多様性を認めてほしいという想いをこめて、虹がシンボルになったそうだ。

つまり、虹には、「多様性=自由」という意味がある。

すると、虹を待つ人というのは、「自由を待っている人、自由を求めている人」というふうに解釈できる。

そういう視点で、歌詞を見ていきたい。ただ、全部引用すると多分問題があるので、ところどころ抜き出していく。全部見たい方はこちらからお願いします。

一番では
「眠れなかった体」や「言えないままの痛み」、「壊れた」「使い古した感情」といった言葉が並ぶ。
なにかに抑圧され、ありのままの自分を表に出せない苦しみや葛藤が示されている。

そしてサビ
「そのドアに鍵は無い」とアンセムのように繰り返す。
あるように見えた鍵はない。「開けようとしないから、知らなかっただけ」なのだ。
鍵があると思って、初めからドアを開けることを諦めてしまう。
僕らの人生を振り返れば、いくつも心当たりがある。
一歩踏み出してみれば、好きだったあの人に想いを伝えられたかもしれない。
思い切って飛び込めば、自分の夢を叶えられたかもしれない。
私にはこのドアは開けられないよ、と諦めてしまった記憶を、きっと誰でも持っている。
その意味で、この曲はLGBTや抑圧された人々に限らず、「何かを諦めてしまった人々」に対しての応援歌とも言えるかもしれない。

二番では
「冷たい痛み」が「冷たい体」を温める、という描写がある。
普通、冷たい痛み、「を」、温めるもののように思えるが、ここでは、「が」、だ。
多分こういうことだ。人は自分が感じてきた痛みというのを、本能的に忘れようとする。
でも、感じた痛みも自分が生きてきた証であり、その痛みが巡り巡ってその人を成長させたりする。
痛みや悲しみをなかったことにするのではなく、それが自分を支えてくれることもある。

そして二番のサビ
「虹を呼ぶ雨の下」とは、自由を求めつつも未だ抑圧の雨に打たれているということ。
でも、「皆」その雨の下にいる。皆同じ場所に立っている。
ただ実際、僕たちには偏見や差別があって、いきなり「手を繋ぐ」ほどまで分かり合えはしない。
それでも、それでも互いに微笑み合うくらいのことはできるかもしれない。とりあえずはそれで十分だ。
いや、それくらいはきっとできる。だって僕たちは「同じ虹」を、同じ自由を待っているのだから。

鍵をかけているのは自分自身だ。
雨はいつか必ず止み、そのドアを開けば、みんなで虹を見ることができる。
抑圧はいつか必ず終わり、勇気を出して踏み出せば、みんなで自由を分かち合える。

「虹を待つ人」の歌詞を読んで、そんな風に考えた。

最後まで読んでいただいて、ありがとうございました。

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