見出し画像

大きな流れに身を任せる

ー創作とは便意のようなもので、催してくると出さずにはいてもたってもいられない。一度出してスッキリして、しばらくしてまた催して、を繰り返すー

新卒入社時に行われた新人研修のこと。

最先端の営業スタイルを学ぶという名目で全世界30ヵ国の同期入社組が集められ、アメリカで合計3ヶ月間の研修が行われた。

今も、そして当時も全然英語が出来なかったからとにかく毎日が大変だった。久しぶりに強烈な劣等感を感じる日々で、英語が喋れるというだけで自分より能力が低そう(だと勝手に思ってる)な奴らを見ると、「これは本当の人生ではない、日本に帰ってから本当の人生はまた始まる」と自分に言い聞かせていた。

ここで疑問に思う。本当の人生?それではアメリカで四苦八苦しているこの瞬間は偽りの人生なのだろうか。それは違う。人生には練習なんて無いし、いつも本番しかない。

それはただ英語ができない自分を素直に認めるかどうかに掛かっている。

認めた瞬間からアメリカでの生活、そして帰国後が地続きになる。

認めた瞬間からものの見方、感じ方が変わる。

胸を借りる気持ちで拙い英語でコミュニケーションする。刹那的な関係だと思わずに相手を知ろうとする。30カ国の人間と一同に介すなんて中々無い経験だと思い全力で吸収しようとする。すると時の流れが濃く、早くなる。

しっかり腹を据えて誠実に接すれば、皆んな良い奴らだし、驚くほど能力も高く、リスペクトできる部分もたくさんあることに気づく。

外的な環境を自分の力では変えられない瞬間は必ず訪れる。(まあ元々新卒入社した会社を選んだのも僕だし、海外研修に臨んだのも僕なのだけれど、じゃあのこのこと途中で引き上げて帰りますかと問われても中々そうはいかない。)

そんな時、まずは現実を甘んじて受け入れることが何よりの打開策となる。

子育てなんかでもそうだ。

仕事だけではなく、1人で趣味の時間を気ままに過ごしたい。もっと創作に打ち込みたい気持ちでいっぱいな時に子供の世話に時間を取られると、どうしてもやるせない気持ちになってしまう。

「世話が終われば自由に使える時間が待っている」

こんな幻想に気を取られながら中途半端に過ごした挙句、子供が寝静まった後には何もする気力も残っていない。

道は二つある。一つは限りなく子育てを効率化して何とか自由な時間を捻り出す道。

少しは効果があるかもしれないけれど、すぐに限界は来る。なぜか時間を作れば作るほど、そこに新たな煩わしい雑事が詰め込まれる。

二つ目はサッサと現実を受け入れて全力で子供の一挙手一投足に向き合う道。

結局子育てに向き合わないままどんなにやり過ごそうとしても時間は一向に経過しないし、自分の時間を捻り出すことに意識が向いているから、わがままなお願いや、ご飯を食べこぼすこと、自分の時間に到達するまでの全ての阻害要因を疎ましく思ってしまう。そしてそう感じるたびに気力を消費してしまう。

手間が掛からなくなるまでの辛抱だと思えばいいのか?でもそのためにあと何年過ごせばいいのか?

いや、そもそも何のための子育てだろうか?考えてみれば妻と結婚したことも、子供を二人授かったことも、全部自分で決めたことだ。

では今更一人の時間が欲しいからと言って、妻と子供との生活を諦めて逃亡でもするかと言えば、そんなことは望んでいない。

外的な環境を変えられない(変えたくない)のならば、目の前の現実を受け入れる他はない。

ではどうすれば現実を受け入れられるだろう。3歳の息子のかけがえない無邪気さや、その成長は今しか味わえない。生まれたばかりの娘のはじけるような笑顔は今しか見ることができない。いずれ10年後に1人の時間が増えたとしても、今と同じように一緒に遊びたくなっても、子供は僕と遊んでくれないかもしれない。

そう考えると、急に子供と接する時間が貴重に思えてくる。その成長を、可愛い姿を一つも残さず味わおうと真剣に向き合うようになる。

すると、投げやりな気持ちで接していたときには決して分からなかった様々なことに気づくようになる。そして時間はあっという間に濃く、早く過ぎる。

今日もたくさん子供と遊んで笑ったなと充実した気持ちのまま細やかな自由に使える時間を迎える。

無駄に削られず気力も残っているからこそ、こうしてブログも書くことできている。

海外生活でも、子育てでも、はたまたコロナ禍などもっと大きな要素でも、人生には変えられない流れというものがある気がする。

ゲームならどんなにカーソルを合わせてもここから先は進めませんというような、無視すると落ちて、ダメージを受けた状態で落ちた地点からやり直しという設定がある。それはゲームの制作者がプレーヤーに進んで欲しい道、大きな流れがあるからだ。

もちろんゲームならプレーヤーはそんな状況に絶望することもなく、与えられた、操作できる範囲の中で最大限そのストーリーを楽しもうとするのではないか。

でもそれは人間によって作られたゲームを俯瞰的にプレイできているからであって、自分自身の人生に置き換えると中々簡単にはいかない。

なぜならば、現代は例えばキリスト教でいう神(ゲームの制作者)のような、自分より大きな存在を感じにくいからではないだろうか。自分の人生は自分で切り拓く、何でもコントロールできる、できて当たり前と思いこんでいるからこそ、うまくいかないことが苦しくてしょうがなくなる。

そんな際に、全部それは自分のせいなんだと考えるのではなく、大きな流れに身を任せる。ああこれは自分の今生での仕様なんだな、設定なんだなと捉えて現状を受け入れ、その中でどう楽しむかというスキルは特にこれからのVUCAな時代には役立つのかもしれない。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?