見出し画像

ドーパミン中毒・ストレス脳

アンナ・レンブケ著 「ドーパミン中毒」によれば、人の脳内において快楽を感じる部位と、苦痛を感じる部位は同じらしい。

そして、快楽と苦痛は「シーソーのような関係」になっている。

どういうことかというと、快楽を感じる(=快楽側の板がグンと沈む)と、均衡を保つ力が働き、その後苦痛を感じる(=苦痛側の板がグンと沈む)、その逆もあるし、最終的には地面と水平に戻るといった具合である。

そして、例えば快楽の側を踏みまくると、どんどんシーソーの支点は快楽側にずれていく。すると、ちっとやそっとの快楽ではシーソーは振れなくなり、どんどん強力な快楽を求めるようになる。さらに支点がずれているのでデフォルトが苦痛(側に下がりっぱなし)になってしまうのである。

これが何らかの依存症になるメカニズムだそうで、そう考えると人間は苦痛から逃れられる方法など無いのではないかと絶望してしまいかねないのだけれど、このシーソーにはもう一つ特徴がある。

それは、苦痛から入った方が、後の快楽の持続力が長いというものである。

なんとなく今までの人生体験からもしっくりきそうな気がするけれど、例えばスイーツやお酒などを楽しんだ際の快楽は一瞬で、その後すぐ渇望が始まって苦痛を感じるけれど、緊張感あふれる場でのプレゼン機会がセットされ、本番まではキリキリと胃の痛むような苦痛が続くが成功した後の快楽は反芻とともにしばらく続くような、そのような感覚だろうか。

でもその方が脳の作りとしても自然な気がする。

アンデシュ・ハンセン著 「ストレス脳」によると、脳の第一優先ミッションは「とにかく生物として生き残ること」らしい。

つまり、常に幸せだとか、幸せに生きることが人間らしい生きる目的だとか、脳はそんな作りにはなっていなくて、常に「あそこの茂みの中にライオンがいるのではないか」だとか「向こうしばらく食べるものには困らないだろうか」「あいつにあんなこと言ったから仲間はずれにされないだろうか」など病的な心配性の上で先読みができた人間が生き残ってきたわけで、その末裔が僕らなのだから現実を受け入れてその上でどう生きるかを考えましょうという本なのだけれど、ずっと不安で苦しい状態が続くと気が狂ってしまいますよね。

だから、先読みをして生き残る確率を上げるために自ら苦痛に飛び込んだ先にはちょっとした快楽(ご褒美と捉えてもいいかもしれない)が待っているような仕様になったのだと思う。

すると、ニーチェは今から140年も前に説いた、今は苦しくてもその先には幸せがあって、またその先には苦しみがあって、と永劫回帰するから今苦しくってもまあ心配すんなよという考え方が脳科学的にも立証されたのだなあと感慨深くなるのだけれど、それってよくウロボロス(自らの尻尾を食べて環になっている蛇)に例えられる。

でも環だと延々と同じことを繰り返している気がしてなんともしっくりこない。新たに立ちはだかる強敵を倒して日に日に強くなる悟空のごとく、高尾山から始めて苦痛を味わいながらどんどん高い山を制覇し続ける登山者のごとく、その見える景色や苦痛と快楽のハードルはどんどん上がっていくのがリアルだと思う。

グラフにすれば苦痛と快楽を上下しながらも、緩やかに右肩上がりに上昇していくような、そんなイメージになる。

すると、そういえばそんなグラフをどこかでも見たなあと考えていると、世界経済の成長率を表すようなグラフとピッタリ特徴が一致することに気がついた。

なるほど確かに資本主義経済下では人々の活きた欲望を原動力に浮き沈みを繰り返しながら世界経済は成長を続けているし、個人単位のグラフと全世界のグラフの動きが同じというのは何か合点がいくなあと思った次第です。

投資に関しても世界経済の成長を今後も信じればHoldし続けるにこしたことはないけれど、人生に関しても簡単に投げ出すのではなくじっくり俯瞰しながらHoldし続けると長い目で見て生きてて良かったなと考えるようなスタンスが良いのかなと思った今日この頃。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?