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特許網構築に関する事例研究~日立化成工業・リチウムイオン電池負極材料~

本記事のオリジナルは2009年6月14日開催「日本知財学会第7回年次学術研究発表会」で発表した内容になります。

1 緒言

特許網という言葉が一躍脚光を浴びることになったきっかけは「プロジェクトX 挑戦者たち 突破せよ 最強特許網 新コピー機誕生」(1)であろう。その後、特許庁より発表された知財戦略事例集(2)においても特許群の戦略的管理(第6章・148~164ページ)について言及しており、特許を群・ポートフォリオとして戦略的に出願・管理することの重要性が認識されるようになってきている。しかし、鶴見(3)が指摘しているように特許網構築の具体的な方法や管理の実態については、ほとんど開示されていないのが現状である。

本研究では既に形成された特許網事例の分析を通じて、普遍的な特許網構築論の確立を目標としている。そのためには特許網構築に必要となる諸条件の抽出・整理を行わなければならない。図1に示すように特許網構築プロセスは大きく3つのステップに分けて考えることができる。事前検討では企業の内部環境要因だけではなく、競合他社・市場といった外部環境要因も含めて総合的に分析して、自社の事業戦略と照らし合わせた上で研究開発戦略を策定する。そして策定した戦略に従って研究開発を行い、その成果を特許出願・権利化することで特許網を構築する。

図1 特許網構築プロセス

本研究では特許網構築の裏には必ず戦略が存在するというスタンスに立つ。よって、事前検討フェーズが強固な特許網を構築する上で最も重要である。本報では日立化成工業のリチウムイオン電池負極材料関連特許網を対象に、事前検討フェーズの特に研究テーマの選定プロセスおよび研究開発体制の確立について特許情報分析より明らかにする。

2 分析対象特許網について

2-1 分析対象となる企業・技術の選定

2004年に経済産業省が発表した知的財産情報開示指針概要(4)に掲載されている試行企業13社を対象に、知財報告書への取組状況や開示情報である「技術の市場性、市場優位性の分析」および「特許群の事業への貢献」の記載の具体性について検討した。その結果、日立化成工業は2004年より知財報告書(5)を発行しており、図2に示すような特許網の構築例について具体的な開示があったため、同社を特許網分析対象企業として選定した。

図2 特許網構築例(知財報告書(5)より)

日立化成工業には世界トップシェアの製品が多い(例えば世界トップシェア約60%の液晶ディスプレイ用回路接続フィルムや同約50%のPDP用電磁波遮蔽シートなど)が、今回分析対象として「リチウムイオン二次電池負極材料(人造黒鉛負極)」を選定した。

図3 リチウムイオン二次電池・負極活物質の サプライヤシェア(2002 年)(6)および日立化成の シェア推移(5)-(6)

図3に2002年におけるリチウムイオン二次電池・負極活物質のサプライヤシェアを示す。日立化成工業は24%のトップシェアを占めている。また日立化成工業の知財報告書によれば2004年3月期で40%、2008年3月期で45%となっており世界シェアトップを維持している。クープマン目標値によれば41.7%以上の市場シェアを持つ企業は「ガリバー」と呼ばれ、不測の事態に見舞われない限り逆転されることはない。日立化成工業のシェアは2004年3月期でほぼ「ガリバー」企業となっており、1995年の特許出願から1998年の販売開始を経て約10年間で本技術分野におけるトップ企業に上り詰めたことが分かる。よって事前検討・研究開発の成果を、効果的に特許出願・権利化した結果として世界シェアトップを獲得していることから特許網構築の成功事例として取り上げた。

2-2 負極材料(活物質)特許網の特定

データベース:Ultra Patent
分析対象特許:公開特許公報
検索式:PA=日立化成工業AND FTERM=5H 050BA17 AND (FI=("H01M-004/02 D") OR (FI=(H01M-004*) AND (負極))) AND (FTERM=5H050CB08 OR TI=(黒鉛 OR グラファイト) OR AB=(黒鉛 OR グラファイト) OR CL=(黒鉛 OR グラファイト))
ヒット件数:100件

日立化成工業のリチウムイオン二次電池負極材料の特許網を特定するために、上記検索式にてヒットした集合をベースにINPADOCパテントファミリーを基に整理した結果を図4に示す(海外対応特許があるものを掲載した)。

図4 日立化成工業のリチウムイオン二次電池負極材料特許網

日立化成工業のプレスリリース(7)で述べられているように、カーボン負極材関連特許は1995年より出願されている。ゆえに日立製作所との共願である特許網①が日立化成工業のカーボン負極材特許網の基礎を成していると言える。続いて1997年から2008年に至るまでの特許網②が存在する。この特許網②は日立化成工業の単願になっている。その他に特許網が3つあるが、海外対応特許出願があるものの国内未登録であるため、特許網①・②がコア特許網であると考えられる。

3 事前検討(戦略策定)フェーズ

既に述べた通り、本報では特許網構築の裏には必ず組織としての戦略が存在するというスタンスに立つ。以下で研究開発テーマ選定と研究開発体制の確立についてどのような戦略的意図があったのかについて検討していくが、その前に市場について概観する。

当然のことながら特許網構築の目的は、自社製品の保護および他社製品の参入阻止を図ることによって市場優位性を築き、利益を上げることにある。特許網構築の対象となる製品領域の市場規模が企業の売上規模と比べてあまりにも小さい場合や、製品領域の成長性が見込めない場合は特許網構築のインセンティブが働かない。

図5 二次電池販売数量・金額推移(8)

今回の事例であるリチウムイオン二次電池を取り巻く環境について概観すると、1991年にソニーによって量産化され、三洋電機・松下電器産業も1994年に参入している。リチウムイオン二次電池は当時主流であったニッカド電池やニッケル水素電池に比べてエネルギー密度が高く、メモリー効果が小さいことから携帯電話やノートPCなどの電子機器用バッテリとして市場が拡大傾向にあり、2008年の販売数量は約12億個、販売金額は4,000億円に達する(8)。

3-1 研究開発テーマ(負極材料)の選定

日立化成工業は負極材料として人造黒鉛を選択したが、負極材料は人造黒鉛を含めて以下のような種類がある。

・黒鉛(天然黒鉛・人造黒鉛)
・炭素系(非晶質炭素など)
・無機化合物(酸化物系)
・金属・合金系
・有機化合物系

図6 負極材料別出願件数推移(1980~1995年)

図6に負極材料別出願件数推移を示す。ソニーが量産化する1991年前までは金属・合金や有機化合物の特許出願が主流であったが、その後黒鉛に関する特許出願が急増している。日立化成工業が負極材関連特許出願を開始する1995年までに、他社は黒鉛負極材の研究開発・特許出願を先行していたことが分かる。

上記のような出願状況を踏まえて日立化成工業が黒鉛を選択したのは、日立化成工業の源流製品の1つであるカーボンブラシ技術が生かせるためであった(5)。しかし、自社の創業以来のコア技術を電池負極材料という新たな製品領域へ展開する上で、電池負極材料に求められる的確なニーズ情報の把握が研究開発の成功を左右する大きな要因になる(9)。

3-2 研究開発体制の確立

図7 特許網①・②の研究開発体制

図7に特許網①・②の発明者分析から得られた研究開発体制について示す。前述のとおり特許網①は日立製作所と日立化成工業の共願であり、日立製作所の発明者はいずれも二次電池研究者である。日立化成工業からは発明者YI氏が参加しており、その後日立化成工業単願の特許網②に関与していく。

YI氏以外の日立化成工業の発明者(TN氏、AF氏、KY氏)はいずれも黒鉛質ガスケット材料や黒鉛層間化合物製造に関与しており、当初(1990年代前半)は電池負極材料の研究開発に必要な情報を十分に持ち合わせていなかったものと考えられる。親会社である日立製作所の二次電池研究者との共同研究開発・共同特許出願(特許網①)を通じ、YI氏がハブとなってニーズ情報を汲み取り、自社保有のコア技術とすり合わせるための研究開発体制を構築したことが、市場の要求水準を満たす負極材料開発の成功に寄与したものと思われる。

4 結論

本報では日立化成工業のリチウムイオン二次電池負極材料を例に取り、特許網構築の事前検討フェーズにおける研究テーマ選定および研究開発体制の確立について分析した。その結果、自社が強みを持つコア技術(シーズ)に立脚した研究開発テーマ選定と、コア技術とニーズ情報を融合させるような関係会社との研究開発体制の構築(アライアンス)が、特許網構築および世界トップシェア製品開発の成功に寄与していることを明らかにした。

なお、本分析結果は日立化成工業が負極材市場において特許網を構築し、高シェアを獲得したことに対する必要条件の一部を説明したに過ぎない。今後は別の諸条件についても抽出・整理を行っていく予定である。

謝辞

本論文作成に当たり、リチウムイオン二次電池全般に関するご指導をいただいた日本技術貿易株式会社・IP総研の前川幸雄顧問に深く御礼申し上げます。

参考文献

  1. NHK「プロジェクトX」制作班, プロジェクトX 挑戦者たち 壁を崩せ 不屈の闘志 突破せよ 最強特許網 新コピー機誕生, 2005

  2. 特許庁, 戦略的な知的財産管理に向けて-技術経営力を高めるために-<知財戦略事例集>, 2007

  3. 鶴見隆, パテントポートフォリオの構築方法, 知財管理, Vol.59, No.2, 2009, p123-133

  4. 経済産業省, 知的財産情報開示指針, 2004

  5. 日立化成工業, 知財報告書

  6. 吉野彰監修, 二次電池材料の開発, CMCテクニカルライブラリー, 2008

  7. 日立化成工業, ニュースリリース「リチウムイオン電池用カーボン負極材に関する基本特許網確立」, 2006年2月28日

  8. 電池工業会, 統計データ

  9. 科学技術庁, 民間企業における研究開発成功事例に関する調査, 1998年

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