万力と蝉


頭からギリギリと不愉快な音が鳴っているのを、俺は確かに聞いた。もしかするとそれは、外でセックスの相手を募っている蝉の張り切った鳴き声だったのかも知れないし、俺の渾身の歯軋りの音だったのかもしれない。だけど俺には、その音が、耳の穴の斜め上、こめかみあたりから発されたように思えてならなかった。
小学生の頃、理科室の机についていた、アレ。あの長いネジみたいなやつをクルクル回すと、万力の要領で小さい鉄板みたいな部位が狭くなっていく、用途不明なアレ(用途はあったんだろうし、説明もされたのだろうが、俺には一切関係がない物体だったので全く覚えていない)を思い出していた。
俺の頭は、まるでアレで頭をギリギリと締め付けられているかのように痛んでいた。何故アレでギリギリと締め付けられる痛みを知っているのかというと、小学生だった頃、誰にも負けたくないという強い信念を持った子供だった俺が、アレにキンタマを挟んでネジを回したことがあるからだ。ギリギリを攻めた結果、ギリギリを超えてしまい、危うく片方の玉を失うところにまで行って大騒ぎとなった。俺は先生に頭のてっぺんを拳でがつんと打たれたが、同級生男子たちからはヒーロー称され、栄冠を手に入れたのだ。もっとも、俺が同級生男子から信頼を得ていたのは、あの頃だけだったのだが。
「頭がなくなる」
枕元に放ってあったスマホを手繰り寄せて、ブルーライトに目眩を覚えつつもLINEのトーク画面の上から十番目ぐらいに見つけたミカちゃんに、そうメッセージを送った。
五秒ほどで「は?」と返事が来る。
「頭痛い 死にそう」
送ってから、食べ残したカップ麺やテレビのリモコン、ゲーム機、溜まったレシート、ポテチ、業務用コンドーム、酒の空き缶、液体が少しだけ残っているグラスなどがしっちゃかめっちゃかに積み上がっているローテーブルに手を伸ばし、なんとか体温計を発掘した。
「風邪じゃん?」
とミカちゃん。その六文字を見つめながらミカちゃんの声を思い出そうとするが、他の女の子の声と混ざってしまい、いまいちハッキリと再生することができない。
体温計が鳴る。38,5度と表示されている。俺はすかさずスマホで体温計の写真を撮ってミカちゃんに送信する。
「熱出た 助けて」
情けなく泣いている絵文字も添えて送信するが、ミカちゃんからの返信は「いや、だる(笑)」といった優しさのカケラもない文面だった。
「別に彼女とかじゃないし、行く意味」
あれ? と思った。俺はミカちゃんとそこそこに仲の良い間柄だと思っていたのだ。その証拠に、彼女は何度もこの家に泊まりにきたし、セックスだってもう何度もした。
「俺頼れるのミカちゃんしかいない」
「嘘じゃん、死ぬほどいるっしょ。てかこういう時だけ彼氏ヅラとかほんとだるい」
「ミカちゃん俺のこと好きって言ってなかった?」
「今は好きじゃねえよクズ。つかもう私彼氏いるから連絡してこないで」
ミカちゃんは激怒しているようだった。続けて「死ね」と送られてきて、俺は一層頭が痛くなった。ミカちゃんとは半年以上の付き合いだったはずだ。何故急に冷たくなったのか、皆目見当もつかない。ミカちゃんと最後に会った日のことを思い返そうと試みるが、いつだったのか、何を話したのか、ちっとも思い出せず終わった。
息が詰まって咳が出て、喉が酷くひりついていることに気づいた。テーブルに散乱するいくつかのマグカップから一つを選び、ぬるくなっていた水を飲み干すと、喉を通って耳の奥まで鋭い痛みが走った。
俺は再びベッドに沈み込んだ。死ぬ。このままだと、死んでしまう!
ミカちゃんは、酷い奴だ。彼氏ができたからって、今までの俺とミカちゃんの絆が失われることはないはずなのに。俺だったら、ミカちゃんが熱を出して動けないでいたら、駆けつけてあげるのに! いや、それは嘘だ。俺は多分行かないだろう。SOSのメッセージさえ見なかったことにして、他の子と遊びに行くんだろう。
とりあえず手当たり次第、女の子にヘルプメッセージを送ったが、のらりくらりとかわされたり、無視されたり、「そのまま死ね」と送られてくるのみだった。インスタのストーリーにも体温計の写真を載せて「誰か助けてー」と目を潤ませた絵文字を添えて危機を訴えたが、閲覧数が増えるばかりで誰からもメッセージは送られてこない。
え、なんで? 俺はスマホを握りしめたまま、すり潰されていくかのようにずくずくと痛む頭で必死に考えた。誰か一人くらい、来てくれたってよくない? みんなしょっちゅうウチに来るじゃん。酒を飲んで、どうでも良い話で隣の部屋の住人に壁をぶん殴られるぐらい大笑いして、セックスをして、超楽しい夜を何度も過ごしたじゃん。なのに、何で誰も助けには来てくれないの。
孤独感が、熱のこもった足元からじわじわと胸の辺りまで這い上がってきて、俺は普段は考えないようなことまで考え始めた。彼女たちに取って、俺と過ごす時間の、どこに価値があったのだろう。酒を飲んでいる時? 思えばシラフの状態で彼女たちと何かを共有したことがあっただろうか。酔っ払って近所迷惑な笑い声をあげている時? 何があんなに面白かったのか、どんな話で腹を抱えて笑っていたのか、もはや思い出せない。身のある話なんて、今まで一つでもしたことがあったか? それで酔った勢いでセックスをして、少しだけ言葉を交わして、眠る。それで俺は満たされたし、みんなだってそうだと思っていた。いや、実際、ほとんどの子は不満なんてなかったはずだ。ただ、だからこそ、その満たされる時間を提供できない今の俺に、価値が無いのだとしたら……。
ワーン、と、声をあげて泣いた。酷く寂しかった。誰にも見向きもされない。幼少期、誰もいない家で一人、おもちゃ遊びをして寂しさを紛らわせていた頃の気持ちが鮮明に蘇った。
世界にたったひとりぼっちで放り出された気分だった。人の声が聞きたい。優しくされたい。もはや、隣人からの壁ドンの音ですらも、恋しい。
たまらずに実家の母親に「熱が出て死にそう」とメッセージを送ると、すぐに「お母さんは、今、グアムにいます」という文面と共に、父親と母親が青い海をバックにピースしている写真が送られてきた。
ワーン! 俺はもう一度声をあげて泣いた。続けて、腹から野犬の唸り声のような音がした。
俺は、今日ここで、死ぬのかもしれない。だって、こんなに頭が痛くて熱があって、喉も焼けるように痛くて、身体も暑くてお腹が減っていて、起き上がることすらできない。なのに誰も助けてくれなくて、ひとりぼっちで。このまま衰弱して死んでいくんだ。俺は小屋に放置された子犬の如くひんひんと泣き声を漏らす。俺が死んだって誰も困らないんだ。父さんと母さんはグアムで青い海と青い空を眺めてバカンスを満喫しているし、ミカちゃんは彼氏とよろしくやっているし、みんな恋人や友達と楽しく過ごしていて、俺がいなくなったって何の支障もないんだ!
溢れ出てくる涙を垂れ流しつつ、孤独からの陵辱になす術なく耐えていると、枕元のスマホが振動した。そういえば、今日はまだモンスター育成アプリで育てている赤ちゃんモンスターに餌をあげていない。腹を空かせて俺を呼んでいるのかもしれない。俺自身が飯も食えずに飢え苦しんでいるのだが、赤ちゃんモンスターに同じ苦しみを味合わせたくはない。俺が餌をやらねば、アイツは飢え死にしてしまうのだ。
使命感に燃えた俺は、涙を拭ってスマホ画面を注視した。きっとモンスターが俺を待っている、と思ったがしかし、通知欄にモンスターの姿はない。代わりに、「風邪? 大丈夫?」という簡素なメッセージが表示されていた。
インスタのメッセージ通知だった。送り主の名前に見覚えはない。タップしてメッセージを開き、相手のアカウントに飛ぶ。
同じ大学の同期の男だった。確か、陰気な雰囲気で、ボソボソと小さい声で喋る変な奴。
そういえば以前、学内で何故か何度もしつこく話しかけられて、気味が悪いので避けるようになったんじゃなかったか。女子に「アイツ、あんたのこと狙ってんじゃないの」と揶揄われたことを思い出す。
インスタで繋がった覚えはなかった。俺は不信感を抱いて暫くそのメッセージを凝視する。大丈夫では、ない。でも、コイツにそれを伝える義理はない。コイツには関係のないことだ。膝を折って地面に伏していた虚栄心が、この男の出現によって、頭をもたげ始めていた。だが、
「もし迷惑じゃなければ、何か買って行こうか? 俺、多分家近いから」
それは俺が今一番かけられたい言葉であった。俺は鼻水を啜りながら「来てー」と即答し、「ポカリ飲みたい」と続けた。気味の悪い男に縋り付く形になろうが、とにかく俺はポカリが飲みたくて仕方がなかったのだから、仕方がない。言い訳がましく頭の中でリフレインさせた。


住所を送って、「鍵は空いてるから勝手に入ってきて」と伝えると、ものの十五分程度でその男は本当に俺の家にやってきた。
「うわぁ、汚いね」
黒いシャツに黒いパンツに黒い髪という全身黒づくめで現れた男は、俺の部屋に入るや否や感嘆した。俺は無言で彼を見上げる。
「ほんとに来た」
「君が来てって言ったんじゃん」
男は笑った。俺は無性に気まずくなっていて、「悪いな」と小さい声で一応の感謝の意を伝える。
「いいよ、友達なんだから」
ビニール袋からアクエリアスやゼリーやネギや卵を次々に出して、床に置く。テーブルの上は物が多すぎて載せるのを断念したらしい。
友達ではないだろ。あと、俺が頼んだのはアクエリアスじゃなくてポカリなんだけど。などといった野暮な文句は、唾液と共に飲み込んだ。喉がずきんと痛む。今の俺の生命線はこいつに握られているのだ。余計なことを言って機嫌を損ねたら、振り出しに戻るだけだ。
「薬は?」
「どっかにあるけどわかんない」
「一応買ってきたから、飯食ったら飲もう」
「飯……なんもねえや。袋麺とかしか」
「材料は買ってきたから大丈夫。すぐできるから。……米って炊けてる?」
「冷凍したやつが、確か冷凍庫に」
正直名前も覚えちゃいないその友達とやらは、恐らく埃をかぶっていたであろう鍋を一度洗い、水を入れ、火にかけた。それから冷凍庫を開けて、凍った米の塊を電子レンジに入れる。
「ネギとか卵とか、嫌いじゃない?」
「大丈夫。なにつくんの」
「たまご粥」
なんとも優しい響きだった。俺はインスタのアプリを開いて彼の名前を確認した。萩原というらしい。
「萩原はいつも料理とかすんの」
「料理ってほどじゃないけど、たまにね」
念のためレトルトのおかゆもいくつか買ってきたから、あとで食べて。キッチンに立つ萩原が俺を振り返って、笑顔を見せる。
俺はなんだか、情けなくなってきた。こんなに、俺に何の恩義もないのに良くしてくれる善人のことを、ただ陰気そうというだけで見下し、気味の悪い奴だと決めつけていたのだ。きっと、俺に何度も話しかけてきたのだって、俺が同期の男の中で浮いているのを気にかけてくれていたのだろう。
「萩原がこんなにいい奴だなんて知らなかった」
「別にいい奴じゃないよ」
「いい奴じゃん。なのに俺は、お前とろくに話もしないで……」
見下したとまでは言わなかったが、萩原は続く言葉を察したようで、ハハと笑った。
「気にしてないよ」
ほら、食べなよ。
俺が自責の念に駆られている間に、萩原はたまご粥を作り終えていたらしい。湯気の立つ丼を受け取り口に入れると、熱でイカれた味覚神経に優しい味が届いた。美味い美味いと言い、冷ましながらちまちまと粥を食べ進める。萩原はニコニコして、それを見ている。
「ありがとね、萩原」
食べ終わると、萩原は「お粗末さま」と聞き慣れないことを言って、丼を回収した。それから薬を飲ませてくれ、水で冷やしたタオルまで用意してくれる。
「ほら、じゃあ寝な」
額に濡れタオルを乗せられた俺は、彼の言う通りに目をつむる。流しで洗い物をする音がすぐそこから聞こえ、なんだか無性に安心した。俺が小さい頃、両親は仕事が忙しくてあまり家にいなかったが、俺が熱を出した時だけは母が休みをとって看病してくれた。その時も、この音を聞きながら眠りについたことを思い出す。
やがて意識がぼんやりしてきて、支離滅裂な夢の世界に思考が侵食され始めた。その途中わふと、モンスターに餌をやっていないことを思い出す。きっと腹をすかしているだろうと思ったが、しかし、安心感を盾にした甘い眠気には抗えなかった。


目を覚ますと、萩原の顔がすぐ目の前にあった。一瞬何事かと混乱したが、すぐにいきさつを思い出す。
「熱、下がってきたみたいだね」
俺の額に手のひらを押し当てて、彼は母性すら感じさせる優しい声色で言い、頬を緩ませる。まだ身体中が暑いが、頭痛はすっかり引いていた。
「あー、万力、なくなったかも」
「万力?」
「や、なんでもない」
俺は例のキンタマの話を彼に聞かせようかと思ったが、この優しい笑顔が軽蔑の眼差しに変わるのが恐ろしかったのでやめた。女の子達の前では鉄板トークとして何度も擦ってきたこの話も、萩原には通用しない気がした。
「何か食べられそう? 入れられる時に入れておいた方がいいよ」
俺が万力にキンタマを挟んだ過去など知らない男は、まるで母親のように俺の身体を労わる。
「あー、じゃあ、ゼリー食べたい」
「レモンと桃、どっちがいい?」
「レモン」
彼は冷蔵庫から薄黄色い寒天が透けているカップを取り出して、透明の小さいスプーンと共に乱雑としたテーブルの上に置く。それから身体を起こすことに手間取っていた俺に肩を貸してくれ、やっと半身を起こした俺の手元にゼリーを持ってくる。
「ありがと……なんか手慣れてんね、お前」
「歳の離れた弟がいるからかな」
「あー。っぽいわ」
「君は一人っ子でしょ」
「そう、なんでわかんの」
「わかりやすいもん」
「バカにしてる?」
「してないよ」
萩原はクスクス笑いながら、ゼリーの蓋を剥がした。俺はそれを受け取り、つるんとした寒天の表面にプラスチックのスプーンを突き刺す。


「じゃあ、そろそろ帰るね」
「え、あ、うん」
甘ったるいゼリーを食べ終えてしばらくすると、萩原は帰り支度を始めた。薬のおかげもあってかすっかり調子の良くなった俺は、遠慮する彼を押し退けてベッドから這い出し、玄関まで彼を見送りに出る。
金は後日返すと言うと、萩原はスニーカーを履きながら「いいよそんなの」と突っぱねた。
「それよりも、鍵、ちゃんと閉めなね。不用心だよ」
「いや、大丈夫っしょ。取られるもんもないし、女の子でもあるまいし」
「わかってないなあ」
萩原が心底呆れたような声で言ったので、俺は少し驚いた。ニコニコしていて人畜無害そうなこの男も、こんな風に冷たい響きを持つ言葉を発することがあるのか。
「君の想像を超えるおかしな人間なんて、この世界にいくらでもいるんだからね」
「何言ってんの、お前」
俺は萩原のことをやっぱちょっと変な奴だなと思い、笑い飛ばそうとした。が、それは叶わなかった。
突然目の前が真っ白になって、少しの間、俺の意識は現実世界から浮遊し、宙を漂った。そして気がつくと、目の前には床があった。しばらく掃除していなくて、髪の毛やら煙草の灰やらが散らばっている、床。
何だ? 俺は大変に混乱した。熱がぶり返したのだろうか。急に立ち上がったから、目眩に襲われたのだろうか。
「ごめん、なんか、立ちくらみ」
目の前にいるであろう萩原にそう伝えてから、俺は違和感に気がついた。こいつは、どうして何も言わないんだろう。目の前で「友達」が倒れたのなら、普通、駆け寄ったり声をかけたりするものじゃないか? もしかして、驚いて固まってしまっているのだろうか。
俺はなんとか頭を持ち上げて、玄関に立っている彼を見上げた。しかし、彼は驚くでも心配するでもなく、無表情で真っ直ぐにこちらを見下ろしている。
カチャンと音がした。萩原がドアの鍵を閉めた音だった。
「何……」
「可哀想に。誰か一人でも見舞いに来てくれれば、こんなことにはならなかったのに」
萩原がしゃがみ込んで俺の顔を覗き込む。彼は薄く笑っていた。笑っていたが、それはなんだか先程までの萩原の笑顔とは違うものみたいだった。
「何言ってんの、お前……」
「来るわけないか。君の周りの女が君に求めてるのは、その場限りの楽しさだけだもんね。楽しくない君は、必要ない。楽しくない君を必要とする人なんて、この世に一人もいない」
萩原は俺の質問には答えずに喋り続ける。そのボリュームがどんどん上がっていき、俺の熱に浮かされた身体の節々に、ビリビリと響く。
怖い、と思った。先程まで心を許していた人間が、突然全く知らない化け物と入れ替わったような心地だった。
「もう、お前、帰れよ」
必死にそう絞り出すと、萩原は人差し指で俺の肩をトンと押した。たったそれだけの衝撃で、俺の身体はおもちゃみたいに床にバタリと倒れた。起きあがろうとするが、身体に全く力が入らない。
狼狽える俺を見下ろし、萩原が満足げに口角を上げる。そして床に手をつき、獣のような様相でにじり寄ってくる。
誰か、助けて。と思ったものの、その「誰か」に当てはまる人物は一人として思いつかなかった。
「ああ、こんなに上手くいくなんて」
萩原は、独り言のように呟く。それから満面の笑みを浮かべた。
「君が誰にも愛されてなくて、よかった!」
俺は彼の無邪気な笑顔を見上げながら、レモンゼリーのバカみたいに甘ったるい味を思い出していた。ミカちゃんのメッセージ、増えていくストーリーの閲覧数。両親の写真、アクエリアス。たまご粥。万力。腹を空かせたモンスター。キッチンの流水音。萩原。
俺はパッタリと全身の力を抜いた。萩原の黒い髪の先が鼻に触れてくすぐったかった。ドアの外からは、かすかに蝉の鳴き声が聞こえていて、俺は全部がどうでもよくなった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?