先天性気違い

 人間の中には、人間の皮を被った化け物が存在する。例えば、ピエロに扮して子供達に近づき三十三人もの少年らを殺害したジョン・ウェイン・ゲーシー。十七人もの青年を殺害し、死姦に死体解体、それらを食っちまったジェフリー・ライオネル・ダーマー。全くの他人であった一家を洗脳し、殺し合せた松永太。複数の家庭を乗っ取り、疑似家族を築いて彼らを支配下に置き十名以上の死者・行方不明者を出した角田美代子。他にも、そういう、人の命や痛みを何とも思わない、頭のネジが飛んだ奴らがこの世界にはウジャウジャいて、捕まる奴もいれば、上手く逃げ隠れしている奴らなんかが、そこらじゅうにいる。
 俺は、テレビ画面の中で、少年たちによる強姦殺人事件の詳細を険しい顔で語るアナウンサーの鼻のあたりをぼんやり眺めながら、有名な殺人鬼らの名前を頭の中で挙げていく。チカチーロに、エド・ゲイン。アルバート・フィッシュ……。
 コメンテーターらしき頭の禿げ上がったおっさんが「少年法」の話をつらつらとし始めた。加害者の少年らは十代であるため、名前を公開されるでもなく、重い刑が下されるわけでもない。一方、被害者の女性……レイプされて殺された大学生の女は、名前も学校名も顔写真も全て公開される。自宅には大量の記者が押しかけて、運悪く記者に囲まれた女の両親は、涙を流しながらスーツ姿のバカたちをかき分けて玄関へと逃げていく。
 コメンテーターのハゲが言った。
「痛ましい事件ですが、彼らにはしっかりと罪を反省し、償って、更生して欲しいですね」
「バーーカかテメェ、ハゲ、死ね!!!」
 俺は辛抱たまらずに、澄まし顔で被害者へのお悔やみの言葉を述べるタコハゲに罵声を浴びせて、テレビの電源を切った。それから乱暴に食パンに苺ジャムを塗りたくって口に詰め込み、不愉快な朝食を済ませる。
 己の欲のために他人を侮辱し、暴力を振るい、まして殺めるような人間は、後悔はすれど反省なんてしない。するとしても、それは自分のための反省だ。更生なんて絶対にしない。人を苦しめて陥れることを悪いとも思わず、むしろその行為に優越感や快感を覚えるようなキチガイは、一生治らない。あれは、先天性の病気なのだ。
「なぁ、そうだよなぁ、異常者」
 リビングの天井に目を向けて呟く。今日は機嫌がよろしいのか、二階のその部屋からは物音ひとつしない。いや、まだ眠っているのだろう。我が家の化け物は、夕方に起きて朝に眠る。
 模範的な引きこもりだな。俺は誰にでもなく毒づいて、通学鞄を掴んで家を出る。


 殺人鬼や強姦魔、とまでは行かずとも、俺には到底理解の及ばない悪魔のような人間が身の回りに溢れかえっている。例えば、大した理由もないのに己の機嫌次第で女子生徒を泣くまで詰めるクソジジイ、梅澤先生。長年付き合った彼女がいるのに、複数の女と浮気をし続けているクラスメイトの西崎。気に入らない女を見つけると徹底的にいじめ抜いて不登校に追い込んでいた、中学の同級生だった春山さん。ギャンブルで大量の借金を作って闇金に手を出し、ヤクザの取り立てに恐れをなして店の売上を横領して飛んだバイト先の社員。それから、愛想が悪くて不愉快だと俺にキレ散らかしている目の前の客。
「何その態度! あたしのことバカにしてんの!? こんな店二度と来てやらないからね!!」
 おう、二度と来んなよ。と、俺はレジのバーコードリーダーを握りしめながら心の中で呟く。ヒステリックな三十前後の女は、俺の態度に尚更腹を立てたらしく、暫くギャーギャー言ったのち、慌てて現れた店長に宥められ謝られ、やがて満足したのか店を出て行った。
「大丈夫だった? あの人、クレーマー気質の要注意人物でね」
 店長が声を顰めて様子を伺ってくる。俺は「大丈夫です。むしろ、すみません。対処できなくて」と頭を下げる。
「ブチギレないだけでじゅうぶんだよ。うちの高校生バイトくんは短気な子が多いから、助かるよ」
 流石コンビニの店長とでも言うべきか、彼は何でもないように笑い飛ばし、それから「あ、そうだ」と何かを思い出したらしく続ける。
「クリスマスと年末なんだけど、人手が足りてなくて。入れる日あるかな」
「全部入りますよ、高校も休み入ってるんで、フルで」
「マジで? ほんとに助かるよー、ありがとう」
 思わず言葉が砕けるほど嬉しかったようで、店長はマジでありがとう! と笑顔を浮かべてバックヤードに消えていった。俺は「シフト管理も大変だろうなあ」などとぼんやり考えながら人もまばらな店内に目線を戻す。と、その会話を聞いていたらしいアルバイト仲間の染谷が「働くねぇ」と茶々を入れてくる。
「金が欲しいんだよ」
「えー、なに? ついに彼女でもできた〜?」
「親父が倒れて、入院した」
 簡潔に説明すると、染谷は「それは、ご愁傷様です」と不謹慎極まりない間違った返答を寄越してきた。が、悪意がないのは長い付き合いで理解しているため、受け流す。ただ、物凄くバカなだけなのだ。
「んでも、お前兄貴もいんじゃん。今大学生? 頼りになるんじゃん?」
 確かに、普通だったら、普通の大学生の兄だったら、兄弟でバイトを増やし、そのバイト代を両親に渡して家計の足しに……なんてことができただろう。でも、そんな普通の兄は、うちの家にはいない。
「アイツは、ダメだよ。頼りにならない」
 それどころか……。俺はこみあげる言葉を飲み込んだ。染谷は「え、何? なんか問題ありな感じ?」と物珍しそうに言う。
「昔は結構、仲良かったじゃん」
 昔とは、いつのことだろうか。俺が中学生くらいの頃を指しているのだろうか。
 人並みに仲が良かった時も、確かにあった。でもそれは、まだ兄がヒトの皮を被っていた頃の話だ。化け物の本性を隠していた時の話なのだ。
 あの頃はまだ兄は引きこもりでもなくて、俺とも家族とも、普通に話していた。少し内向的で学校を休むことも多かったが、ゲームが強くて色んな裏技を知っていて、負けず嫌いだった俺は兄に勝とうと何度も勝負を挑んだものだ。弱っちかった俺は全然兄に敵わなくて、いつも最後は喧嘩になって終わった。でもたまに、本当に稀に、兄が手を抜いて負けてくれることもあった。
 もう、ずいぶん遠い昔のことのように思える。


「ただいま」
「あ、おかえりなさい」
 アルバイトが終わり家に帰ると、もう母は家に居た。俺が帰るよりも少し早く、パートを終えて夕飯を作ってくれているのだ。
「お疲れ様。寒かったでしょう。ご飯、冷蔵庫にあるけど、もう食べる? 温めようか」
「いや、まだいいや」
 母は、盆に夕食を載せて、二階の兄の部屋へと運ぶ最中だった。玄関を上がってすぐのところに、ダンボールがいくつか積まれていた。宛名は兄になっている。また、ネットで何か買ったのだろう。母のパート代は、父の入院費と兄のくだらない通販代でみるみると消えていく。俺は今更それに文句をつける気力もなく、リビングのソファに腰をかけ、ぼんやりとテレビを眺めた。立ちっぱなしだった足が、鈍く痛む。
 テレビ画面の右上には、「ニート・引きこもり特集」とあって、俺はもの凄く不愉快になった。チャンネルを変えようとするも、リモコンは少し離れたテーブルの上にあり、立ち上がるのも億劫な俺は諦めてソファに沈み込む。
「ニートや引きこもりは、誰でもなり得るんです。環境次第でね。だから恐ろしい」
 したり顔でそう言うのは、いつか見たあのタコハゲコメンテーターだった。こいつ、朝だけでなく夜もしゃしゃり出てくるのか! 俺はイライラし始めた。いつの間にか戻ってきた母が、テーブルに肘をついて茶を啜っていた。
「彼らの社会復帰に必要なのは、家族の協力と理解な訳ですね。彼らは一見ぐうたらしているようで、彼らなりの苦しみを抱えていますからね」
 ハゲは、台本であろうそれをベラベラ喋り始める。犯罪者予備軍だなんて言われたりもしますが、彼らがそうなってしまうのは親の過干渉か、もしくは反対に愛情不足の場合が多いんです。引きこもりやニートだからと見離さず、根気良く寄り添っていくことが大切ですね。誰しもが心に弱い部分を抱えていますから。家族ならば助け合いましょう、何せ、血の繋がった家族なのだから! 元からダメな人間なんていません! 例えばね、朝のニュースでもあったでしょ、少年たちが凶悪な犯罪を犯してしまう例が。アレもね、環境が悪いんですよ。愛情が不足していたり、真っ当な教育を受けていなかったりね。彼らだって、初めから悪人なわけじゃあないですからね。環境によって、家族の接し方によっては彼らも真っ当な人間になれるわけです。家族が。環境が。愛情が。性善説が。支え合いましょう。愛し合いましょう。手を取り合いましょう。人類は皆家族!!素晴らしき国ニッポン!!!
 俺は立ち上がってテレビの電源を落とした。
「このオヤジにうちの兄貴預けてやるか。愛情を持って世話してくれるだろうよ」
 笑いながら母にそう言ってみたが、母はやつれた顔で黙って湯呑みを傾けるだけだった。


 やけに冷え込む日だった。家に帰ると、怒声が耳を突き刺し、脳みそをぐわんぐわんと揺らした。
 母の弱々しい声が聞こえる。通販で高いものばかりを買うのはやめてくれといった内容が聞き取れた。その訴えに、兄は激昂しているらしかった。
 俺は慌てて靴を脱ぎ、鞄を放り投げて階段を駆け上がる。兄の部屋の前に、ソレは居た。しばらく見ないうちにぶくぶくと肥え太り、髪は伸びて脂で固まり、薄汚れたスウェットを着た醜い化け物が、二足歩行で立っていた。
 ソレがくぐもった声で何かを叫んだ。右手が振り上げられて、そして母のやつれた顔に振り下ろされる。
 きゃあ、と甲高い声をあげて、母は倒れた。ソレは尚も何かを叫び、母は頬を抑えて啜り泣きながら、弱々しい声で謝罪の言葉を口にする。辺りには、母が作ったのであろう夕食が、無残に散らかっていた。
 何なんだろう、これは。
 俺は、目の前で起こっていることに、何一つ納得がいかなかった。
 何故、この男は、こんなにも疲れていてこんなにも弱い母親を、躊躇なく殴れるのだろうか。何故、この母親は、怒りもせずに理不尽に耐え続け、あまつさえ謝罪までするのだろうか。何も理解ができなかった。その不可解さはすぐに怒りに変換され、俺の脳味噌を恐ろしいほどの温度で燃やし、爆発した。
 何してんだよ、と叫んだつもりだったが、声に出ていたかはわからなかった。利き腕の右を振りかぶって、長い髪に隠れた顔に思い切りぶち当てる。低く鈍い音がして、兄はそのデカい図体の割には簡単に吹っ飛んだ。弾みで彼の部屋のドアが開き、長年閉ざされていた部屋の中から何かが腐ったような臭気が漂ってくる。カーテンを締め切り、一切の光が入らないように周到に防御された部屋。この化け物が、王様になれる城。俺は数年ぶりにその城に侵入し、変わり果てた化け物に馬乗りになる。
「てめえ、何なんだよ。ふざけんなよ。なに母親に手ぇあげてんだよ」
 喚き散らしたり、壁に穴を開けたり物を壊したりは何度もあった。でも、母親に暴力をふるうのは、初めてだった。少なくとも、俺の知る限りでは、今までになかったことだった。それだけは、そのラインだけは超えないと、心のどこかで期待していたのかもしれない。
「うるせえ、うるせえ、どけ」
 俺の下でもがく異様に肌の白い男が、俺の髪を掴んで喚く。その、興奮のためかぶるぶると震える手を無視し、俺は男の右頬をもう一度殴りつけた。
「何なんだよ、てめえ、何考えてんだよ」
 俺には言いたいことが沢山あったが、口をついて出る言葉はそんなものばかりだった。それでも血がぐるぐるとめぐる頭でなんとか感情を整理して、兄に伝わるように、祈りを捧げるような気持ちで続ける。
「母さんが、母さんが何のためにパート頑張ってると思ってんだよ。何のために、疲れて帰ってきて、飯まで作ってくれてると思ってんだよ。家族のためだろ。父さんが動けねえ中で、一人で頑張ってんだろ」
 俺はこんなに大きい自分の声を、初めて聞いた。こんなに必死な声を、初めて聞いた。言いながら、胸のところに何かが詰まったみたいに苦しくなって、涙まで出てきた。母がすすり泣く声が、背後からかすかに聞こえる。
「うるせえ、馬鹿が、知るかよ死ね」
 だが、兄はそんな感情的な弟を目の前にしても、声を殺して泣く母親を見ても、何も思わないようだった。こいつにとっては、父の具合が悪いことも母が必死に家を守ろうとしていることも、何の意味もない、自分には無関係な出来事なのだ。いや、むしろ、自分よりも権力も力もある男が家からいなくなり、喜ばしいことですらあるのだ。
 俺の中の、微かな希望の灯火みたいなものが、どんどん薄くなっていった。その灯火の上に、どす黒い雨みたいなものが降って、火は完全に消え、辺りは黒く塗り潰された。
「当たり前みてえに飯食って、働きもしねえで勝手に無駄金使って、何なんだよ、てめえは。何なんだ」
「うるせえ、うるせえ。死ねよ、勝手に産んだのはコイツらだろ。黙れよ」
 兄が俺の肩を殴打しながら言った。俺は、殺そう、と思った。殺すしかないのだと、思った。こんな人間のクズは、今殺さないと、母さんが一生苦しむことになる。こいつは、やはり化け物なのだ。心を閉ざしているとか、話し合いが足りないとか、愛とか環境とかそんなレベルを逸脱した、気違いなのだ。
 まるで子供が駄々をこねるように俺の身体をドンドンと叩く兄の鼻柱に、硬く握った拳を思い切り落とす。何度も何度も、俺の拳の皮膚が裂けて、骨が割れて、兄の鼻がぐにゃぐにゃになるまで殴り続ける。俺の思い出の中での兄は、強くて敵わない存在だった。今までも心のどこかで、そう思っていた。その認識を壊すように、何度も何度も拳を叩きつける。
「やめて、お兄ちゃんが、死んじゃう!」
 そう叫んだのは母親で、母は細い腕で俺のを必死に掴んでいた。
 母は、まだ泣いていた。さっきよりも酷い顔で泣いていて、俺の動きが止まったのを確認すると、鼻血塗れの兄に縋り付いた。大丈夫? としきりに聞いている。
 兄は赤ん坊みたいに顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。赤ん坊にしては汚らしいけど、感情の制御ができないという点では本当にそれらしかった。
「痛い、痛い……」
 兄は譫言のように、そう口にする。痛い。痛いよ。そう言って泣きじゃくる兄は、この牙城で癇癪を起こして怒り狂う普段の兄とは、違う生き物に見える。
 ふと、幼い頃の記憶が蘇る。お腹が弱かった兄は、よく腹を下しては「痛い、痛い」とソファで丸くなってベソをかいていた。そういう時に俺が部屋からタオルケットを持ってきてかけてやると、「ありがとう」と言うので、俺はそれがやけに嬉しかったのを覚えている。
 いつからだろう、兄が、鬼のような形相で当たり散らすようになったのは。いつからだろう、兄が仮病を使って学校を休むようになったのは。
 俺の脳は、急速に過去の映像を再生し始める。やめようとしても、それは止まらない。ゲームの対戦で勝とうとムキになる俺をバカにして笑う顔や、わざと負けた時のあの、呆れたような笑顔。あの時のこいつは、既に化け物だったのか。
 部屋の隅っこに、懐かしいゲームのパッケージが転がっている。いくつも、あの頃のままで。
 こいつは、いつからこうなった? それは、必然か? 万が一そうでないのなら、こんな醜悪な化け物にならざるを得ないほどにこの男を追い込んだものがあったのだろうか。そうだとしたら、それは一体何なのだろうか、誰なのだろうか。
 この男は本当に、生まれた時からどうしようもない化け物だったのか?
「死ねよぉ」と、文字通りぐちゃぐちゃな面の兄が言う。
「殺してやるからな、てめえも、どいつもこいつも」
 俺は鼻の曲がった兄をぼんやりと見下ろしていた。どうしてなんだろう。俺は兄のスウェットの襟首を掴んで、引っ張り上げる。
「ごめんって、言えよ」
 兄は「てめえが謝れ、死ね」と吐き捨てる。
「俺が間違ってたって、言えよ。今まで悪かったって、これからはちゃんとするからって、言えや」
 厚ぼったい目蓋の下から必死に俺を睨みつける兄の瞳に、俺はどう映っているのだろうか。この世界は、どう映っているのだろうか。
 俺はただ、普通に、二人で母さんを支えたいだけだ。支えるとはいかなくたって、例えば兄が部屋から出てきて、リビングで飯を食って、母さんにご馳走様と言って食器を洗って。そういう、普通のことをしてくれれば、それでじゅうぶんなのだ。
 そんな普通の、普通以下のことすら、この兄の前では夢物語になる。
「何でだよ」
 どうしてお前は、普通じゃないんだ。俺は、普通の家族の形を望むことすら、許されないんだ。
 漏れ出しそうになる嗚咽を喉奥で堰き止めていると、眉間に衝撃が走って、視界が大きく揺れた。遅れて痛みがやってくる。目の前には兄の、脂肪にまみれた拳があった。
 俺は背中から倒れそうになるところを、両の手をついてそれを免れ、顔を上げて天井を見た。そこには何もなく、ただ闇だけが広がっている。こんな時に、あのハゲ頭のコメンテーターの顔が脳裏に浮かんできて、俺は舌打ちをした。
 母親の鼻をすする音、兄の野生動物のような息遣い、窓の外から聞こえる車のエンジン音、人の話し声。それらを聞きながら俺は、俺が人間である以上、この歪な城を崩すことは不可能だと理解し、ただただ自分がヒトであることを、幼い頃の俺たちを、呪う他なかった。俺はそれを悲しいと思う俺自身がもの凄く馬鹿らしくて、惨めで、早く死んでしまいたいと思った。

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