はらわた

※犬猫が殺される描写があります

「内臓触りてえなって」
「は? なんて?」
「内臓」
「が?」
「触りたい」
 部屋のど真ん中でデカい図体を横たえてグラビア誌を眺めていたフミヤがそう言い放ったのは、あまりにも唐突だった。週刊誌の熱いバトルシーンから現実に引き戻された俺は、彼の視線の先に目をやる。フミヤが広げていたのは、紐パン紐ビキニを身につけた巨乳の女が猫を抱いているページだった。
「お前、巨乳と猫を見ながら何考えてんだよ。謝れ、巨乳と猫に」
「いや、この前な。学校からの帰り道に公園あるだろ、あそこの道路でさ、猫が轢かれてたんだよ」
 駄菓子屋の隣の? と聞くと、フミヤは重たげな一重の目で俺を見、「そう」と言って続ける。
「その猫がさ、腹から内臓ぶち撒けてるわけな。血とかすげー出てて。もう死んでから結構経ってたみたいで、冷たくなってたんだけど」
 俺はその光景を想像して気分が悪くなり顔を顰めた。だがフミヤは俺の反応など気にも留めずに、淡々と話し続ける。
「それでさ、俺は思ったわけ。生きたまんまの動物の腹に手ぇ突っ込んだら、あったかい臓器に包まれて、血でぬるぬるして、すげぇきもちいんじゃねえかなって」
「きっっっしょくわりぃこと言うな!」
 俺が自分のベッドから上体を起こして手近にあったクッションを投げつけると、見事にフミヤの顔面にヒットする。彼は「何すんじゃ!」と投げ返してくるが、愚鈍な彼の投球を避けるのは容易く、クッションは壁に当たって元の位置に戻ってきた。
「お前そういう発言すんのは中学までで済ましとけよ、いくつだ今」
「中学五年生」
「高二な」
 俺が間髪入れずに返すと、フミヤはハハハと笑った。
 こいつとは小学生の頃からの付き合いで、中高と偶然にも同じ学校に進学したため、自然と交流が続いていた。腐れ縁というやつだ。
 昔から少し鈍臭くて内向的な奴ではあったが、小学生の頃はそれでもまだ明るさや素直さが残っていた。中学に入ったあたりから辛うじて残っていた無邪気さや陽気さも消えていき、今では俺と数人の幼馴染の前でしか笑顔を見せない。時々フミヤのクラスに遊びに行くと、いつも一人で机に突っ伏しているのだ。
「お前そんなんだからクラスに友達一人もいねえんだよ」
「別に作ろうとしてないだけです〜」
「いや嫌われてんだろ。この前席替えでお前の隣の席になった子、泣いたらしいじゃん」
「それ掘り返すなよ。結構傷ついたんだからな」
 フミヤが、ただでさえぶすくれた顔でさらに不貞腐れるので、俺は思わず噴き出す。喋ると面白い奴なのだ。もう少しそれを表に出せばいいのに、と思う。
「っていうかお前だって高校デビューの元いじめられっ子だろ」
「いじめられてねえし、ちょっと揉めただけだし」
 今度は俺が不貞腐れる番だった。小学生の頃、俺は同級生だったガキ大将に目をつけられて、少しいきすぎた揶揄いや技かけの標的にされたことがあった。彼の命令で誰も口を聞いてくれなくなったこともあったのだが、その時に唯一、集団からあぶれていたフミヤだけが俺と話をしてくれた。そんな経緯もあって、俺はこいつを邪険にはできないのだ。
 フミヤが鼻で笑って言う。
「まぁなんでもいいけど、お前のクラスにヤンキー集団いんだろ。気をつけろよ。お前すぐああいうのに目ぇつけられんだから」
「だいじょぶだいじょぶ。あの辺と関わりねえし、俺がどんだけ世渡り上手になったと思ってんの? もうヤンキー集団以外の全員と超フランクに他愛無い世間話を交わすぐらいにはクラスに溶け込んでっから」
 そう、まだ人間関係のにの字も知らなかった幼少の俺とは違うのだ。得意げに言うと、フミヤは光を吸収したような黒い瞳でこちらをじっと見て、「そういうとこが鼻につくんだろ」と嫌味っぽく笑う。俺はまたクッションを奴めがけてぶん投げたが、今度はかわされて、床にぼすんと落下した。

 それから一ヶ月ほど経ったある日の放課後。フミヤと駐輪場で遭遇し、一緒に学校を出た。特に約束をするでもなく、週に三、四回はこうして帰りを共にするのが常だった。
 フミヤは相変わらず、クラスで孤立しているようだった。俺はと言うと、クラスメイトと少しだけ発展があったりした。そのことを話そうかと思っていると、先にフミヤが切り出す。
「お前さ、あのヤンキーと仲良くなったの?」
 無愛想に言ったフミヤは両手でチャリンコのハンドルを握り、前を見つめていた。俺は片手運転をしつつ、学校の自販機で買ったアイスを食べながら、「そうそう」と肯定し、続ける。
「この前さ、猫下校……俺の好きなバンドね。それのライブに行ったらさ、リョウスケが……そのヤンキーって言ってた奴ね。そいつがいてさ、狭いハコだったからあっちも俺に気づいて、まぁ無視するのも変だし、初めて喋ったんだよ」
 十日前ぐらいだっただろうか。小さなライブハウスでクラスメイトのリョウスケに出会った時のことを振り返りつつ、時折アイスを舐める。
「そしたらさぁ、すげー猫下校のこと聴き込んでて、それ以外にもバンドの趣味がそりゃあもう合うわけ。ライブ一緒に見て、終わってからもずっと話してたんだけど、あいつあんな見た目してんのに結構話しやすくていい奴でさ」
 髪は明るいわ学ランは改造するわ煙草は吸うわでどえらい不良だと思っていたリョウスケだが、実際のところは気さくで面白い男だった。思えば、別に彼がいじめやらカツアゲやら万引きをしている所を目撃したわけでも無い。見た目と、周りの友達の声と態度のデカさだけでヤンキー集団だと決めつけていたが、ただ声と態度のデカい集団というだけだったのだ。カツアゲどころか、彼は意気投合した記念にと、酒を一杯奢ってくれさえした。
 それをフミヤに話すと、しかし彼は皮肉っぽい笑いを浮かべて「それで、簡単に懐柔されたわけだ」と鼻をならす。
「パシリくんだと思われてんじゃねえの」
「いや、リョウスケはそんな奴じゃねえし。お前喋ったこともねえのに悪く言うなよな。それは偏見っつーんだよ、ヘンケン」
 食べかけのアイスをフミヤの方に向けつつ言うと、彼はちらりとこちらを一瞥し、「あっそ」とどうでもよさそうに言って前に向き直った。
「あ、今度リョウスケと猫下校のライブ一緒に行くんだけど、お前も来る? お前も確か好きって言ってたじゃん」
「行かね」
 フミヤはひどくあっさり俺の誘いを断った。リョウスケとフミヤが仲良くなったら面白いんじゃないかと思ったが、この陰気な幼馴染はそもそも人が多く集まる場所もうるさい所も嫌いだから、誘いに乗るわけがなかった。

 それから数日後。
 例のごとくフミヤと鉢合わせて一緒に帰路を辿り、以前フミヤの家で読んだ漫画の最新刊が彼の家にあると言うので、もう数えられないほどに遊びに来ている彼の家の敷居を跨いだ。フミヤは部屋の主であるというのに床に寝転がって文庫本を読み始めたため、俺はベッドに陣取って例の漫画の最新刊のページを捲る。
 まだ春だというのに、陽当たりの良いフミヤの部屋は蒸し暑く、文句を言うと扇風機と麦茶を運んできてくれた。
 ぬるい風に当たり、ぬるい麦茶を飲み、漫画を読み進める。ふと、以前フミヤが内臓がどうだのと言っていたことを思い出したが、それ以降は特にそういう気色の悪い話題を口にしなかったし、今も大人しく文庫本を読み耽っているしで、大方あの時は変な漫画でも読んで影響されたのだろうと片付け、手元の漫画に意識を戻した。

 寝苦しさと微かな尿意を覚えて目を覚ます。心地の良い眠気とだるさと、不快な熱気に包まれながら首を捻ると、そこは自分の部屋でなくフミヤの部屋だった。
 そうだ、漫画を読みにきて眠ってしまったのだ。
 寝起きの頭で状況を理解して起きあがろうとすると、腹に重みを感じることに気がついた。視線をやると、誰かが俺の腹に手を置いている。
 当然それは、フミヤの手だった。彼はベッドに腰掛けて俺を見下ろしつつ、俺の腹部に手を置いていた。
「何してんだよ」
 不思議に思って聞くと、フミヤは俺の腹を凝視しつつ、「ここが、膵臓」と言った。
「は?」
「その少し下の両脇にあるこれが、腎臓。それでここの外側にぐるっとあるのが大腸で、その中、ここにあるのが小腸」
 フミヤは説明しながら手を滑らせて、ヘソの下あたりをぐっと押した。俺はその手の温度を、呆然としながら感じている。
「それで、ここが膀胱。女だったらこの奥に子宮かな。お前は男だから、精嚢か」
 彼の指が膀胱を押し揉み、その時初めてフミヤが俺の方を見た。視線が合う。俺はその瞬間になってやっとこの光景が現実のものだと理解し、フミヤの手を押し除けようとしたが、奴はびくともせずに俺の腹を押さえつけ続ける。
「離せよ」
「ほんとに無警戒だよな」
 俺の精一杯の凄みを無視したフミヤは、馬鹿にしたような笑みを湛えて俺を見下した。
 ミステリものだったら真っ先に死んでるよお前。フミヤが笑った。
 俺は、ひどく混乱した。よく知った幼馴染が、全く知らない人間のように見えた。
 友達の家でうたた寝することの何が悪いんだよ。頭の中で、どうにもならない反論をしたが、やはり無意味だった。
「お前昔、俺ん家に泊まった時、小便漏らしたことあったよな」
 フミヤが、指の腹で腹の下を何度も押す。押されるたびに尿意が迫り上がってきて、膀胱がヒリヒリと燃えるように痛く、熱くなる。
 反射的に膝を擦り合わせ、「やめろ」と許しを乞うような気持ちで言い彼の腕を両手で掴むが、フミヤはそれでも腕の力を緩めない。
「また漏らすか? あの時みたいに」
 フミヤが珍しく、楽しそうに笑って言った。俺は嫌な汗をたくさんかいていた。頭の中が真っ白くなり、すんでのところで踏み止まっている力が抜けそうになって目の前がチカチカと明滅した。
 しかしその時、ふっと腹が軽くなる。
「冗談だよ」
 フミヤがあっさりと手を離し、ケラケラ笑った。
 俺はまたも呆然としたが、彼が心底可笑しそうに笑いつつ「早く便所行けよ」と言うのを見て、ものすごい速度で頭に血が上り、笑っているその顔面を蹴り飛ばした。フミヤはぎゃ!と悲鳴をあげて床に転げ落ちる。
「いてーな、何すんだよ!」
「タチ悪いんだよ、死ねボケ!」
 捨て台詞を吐いて部屋を飛び出し、トイレに逃げ込む。慌ててスラックスを下ろすと下着が少し湿っていて、死にたくなった。

 それから、何となく顔を合わせづらくなり、学校を出る時間をずらすようになった。
 フミヤは五限が終わるとすぐに帰るため、それにかち合わないよう、教室でしばらく時間を潰す。大抵リョウスケも特に用事もなく残っていたため、時間潰しに付き合ってもらっていた。
 フミヤとは、校内ですれ違った時には挨拶ぐらいは交わすが、それ以外での接点はほとんど無くなった。
 奴の顔を見かけるたびに、腹を押さえつけられるあの感覚と、奴の下卑た笑いと、屈辱的な羞恥心とが鮮明に蘇るのだ。
 その最悪な記憶を誰に打ち明けることも出来ずに一人で抱えていたある日の放課後、リョウスケが「あのさ」と何かを言いかけ、それから言いづらそうに口籠った。
 どうしたのかと先を促すと、彼は声を潜めて言う。
「お前隣のクラスのあいつと仲良いの?」
「隣……フミヤのこと? まぁ、幼馴染だから」
「ミナが言ってたから、多分ほんとだと思うんだけどさ」
ミナとは、リョウスケと仲の良い金髪の女子生徒の名前だったはずだ。
「なに?」
「この前な、道路で猫が死んでたんだって」
 猫という言単語が出て、俺の心臓がどくんと跳ねる。
「ミナが埋めてやろうと思って、近所の家からシャベルとか新聞紙とか借りて戻ってきたら、お前の幼馴染が猫の前でしゃがんでたんだって。そんで、埋めるの手伝ってくれって声かけようとしたら、そいつ、猫の腹に手突っ込んだんだと」
 背中を汗が流れ落ちるのがわかった。
 猫は冷たくなっていたと、あいつは言った。内臓に触りたいと言ったあの時、既に、内臓に触ったあとだったのだ。じゃあ、あいつがあの時本当に触りたいと思っていたのは──。
「気をつけた方がいいぜ」
 リョウスケの声で我に返る。彼は眉を寄せながら、俺の顔をじっと見つめながら言う。
「最近、うちの学校の近くで犬猫の惨殺死体がよく見つかってんだって。いや、思い違いだったら悪いし、偶然だったらいいんだけどさ」
「……うん」
 眩暈がして肌が粟立った。思い違いでも偶然でも無いのは、誰の目から見ても明らかだった。

 校内で、校外で、フミヤを見かけても声をかけなくなった。フミヤから俺に接触してくることもなく、時間は過ぎて行く。
 俺はほとんど毎晩、あいつの夢を見た。あいつが俺の腹の皮膚を突き破り俺の胎内に手を突っ込んで、臓器をまさぐる夢だ。俺がいくらやめろと叫んで暴れても、あいつは俺の抵抗なんてもろともせずに、はらわたを掻き回し、そのひとつひとつに触れて感触を楽しむのだ。俺は夢の中なのに痛くて恐ろしくて、泣き叫んでいる。
 毎晩毎晩そんな夢を見続け、次第に夢の中でなくとも、あいつに腹の中を暴かれる想像に取り憑かれるようになった。
 しかし、俺の頭の中のフミヤとは違い、現実のフミヤは学校の廊下ですれ違っても家の近所で鉢合わせても、俺に関心を示さない。俺が目を逸らす前に、あいつも見ていなかったふりをする。
 犬猫の死体が頻繁に見つかったのもあの一時だけで、最近はそんな話を聞かなくなった。
 それでも俺は、フミヤに腹を暴かれる夢ばかり見た。

「犬猫殺してたのってさ、お前?」
 ある日の帰り道。真っ先に学校を出てフミヤの家の近くで彼を待ち伏せた。チャリンコに乗って現れたフミヤは、俺を見るとのっそりとチャリから降りる。
「久しぶりだと思ったら、何だよ急に」
「殺して触ったんだろ、中身」
 俺は心臓をバクバクさせながら声が震えるのを必死に堪えて言った。なのに、フミヤはそんな俺の努力を踏み躙るようにやらしい笑顔を浮かべて不愉快な笑い声を漏らす。
「お前ってさあ、死ぬほどチョロいな」
「はぁ?」
 フミヤの反応が想定外のものだったので、俺は素っ頓狂な声をあげた。彼は細い目を一層細めて俺に湿っぽい視線を向け、口角の上がりきった顔で言う。
「動物ごときに、妬くなよ」
「何言ってんの、お前」
「自覚ない? お前と俺に力の差なんて、ほとんどねえだろ」
 心臓が、ばくんと一度大きく跳ねた。目の前の幼馴染が、恐ろしい悪魔に見える。俺の人生を人格をめちゃくちゃに破壊し尽し、俺を俺でなくしようと企てる、最低最悪の悪魔に。
 リョウスケの心配そうな顔と、冷たい目でこちらを見下ろすフミヤの顔が同時に思い出される。早く逃げなくては、と思った。そして今後一切、こいつと関わることをやめなくては、と。
 誰も信じてくれなくとも、リョウスケならば信じてくれる。フミヤしか味方のいなかったあの頃とは違って、今の俺にはリョウスケがいる。クラスメイトがいる。だから、こいつを失ったところで、俺に痛手はない。
 しかし、
「あがってくだろ?」
 フミヤはそう言って庭にチャリを止めて、自宅の玄関の戸を開けた。行くわけねえだろと、言うつもりだった。
 踵を返してチャリに跨り、家に帰ればいい。そしてもう二度と関わることもなく、高校を卒業すればいい。
 頭の中ではそうわかっているのに、俺はそれしか選択肢がないみたいに、自分の乗ってきたチャリをフミヤのチャリの横に止めた。フミヤが玄関からこちらを見下ろして笑っている。恐ろしいと思った。思ったが、俺は心の中で頭をもたげ始めた期待と歓喜に逆らえず、黙って彼の家へと足を踏み入れた。

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