与奪

※嫌な終わり方をする


「俺が何のために生きてるか、わかるか」
日付が変わるか変わらないかぐらいの、曖昧な時間帯の居酒屋で、達巳が突然言ったので、俺は口の中にあったキュウリを咀嚼し、飲み込み、日本酒を一口飲んだあとに、「は?」と言った。
「達巳が生きてる理由?」
「ウン」
赤い顔をした達巳は珍しく真剣な顔をして頷いた。俺は三秒くらい考えてから答える。
「俺のことが好きだから」
キャハハと達巳が笑った。スーツ姿の成人男性が子供のような笑い声をあげるのは一種異様でもあったが、この空間にはそういう矛盾した大人がそこかしこに存在していたから、大した問題ではなかったし、俺は達巳の無邪気さを可愛いと思った。
「違う。違うぜ、全然違う」
「全然ってのは酷いんじゃないか」
俺は茶目っ気を出して少し拗ねた演技をしてやったが、酔っ払った達巳は俺のサービス精神になんてちっとも興味がなさそうに続ける。
「俺は悪を殺すんだ」
「悪って何だ、誰のことだ」
「悪は、悪だよ。この世に蔓延る悪を殺すんだよ」
「水戸黄門でも見たのか」
「黄門様は、悪を殺しはしねえだろ」
「そうだっけか」
「わからんが、多分そう。だってそんなことしたら、人間は全部、あのジジイに、殺される」
「全部っておかしくないか。全員、だろ。物じゃねえんだから」
「うるせえ」
「それに、黄門様は直接手を下してはいないわけだから、ジジイに殺されるわけじゃないだろ。殺されるとしたら、スケサンとやらと、カクサンとやらで」
「うるせえ、バカ。ごちゃごちゃと」
達巳は少ない語彙と倒置法を用いて俺を罵倒し、ばたりと机にうつ伏せになった。最初にごちゃごちゃ言い出したのはお前である。
俺は日本酒を飲み干し、会計を済ませて、達巳に肩を貸して店を出る。あとで代金の半分を請求するために、レシートを財布に挟んでおく。
居酒屋の熱気と喧騒から放り出され、冷たい空気に包まれると、途端に酔いが冷めていく。達巳も同じように正気を取り戻すのではないかと期待したが、彼は俺にもたれかかり、到底自分の力だけでは歩行はおろか立つことさえままならない様子であった。
「おい、ちゃんと歩け」
「むにゃむにゃ、もう食べられないよ」
「それ本当に言う奴いるんだ」
肩に手を回して、引きずるように歩き出す。金曜日の夜の街は酔っ払いで溢れかえっていて、男二人が仲良く歩いていたって、誰も気にも留めない。誰もが五日間総動員させた理性を放棄し、べろべろに酔っ払って、精一杯泣いたり笑ったり怒ったりして、遅れを取り返しているのだ。達巳もそうだ。こいつは酔っ払うと、ゴキゲンになってよく喋る。そしてよく喋ったあと、眠たくなって寝る。まるで幼児と変わらない。人間はいくら歳を重ねて相応の振る舞いや常識を身につけても、根っ子は幼児の頃となんら変わりないのかもしれない。
俺は幼い頃、よく泣く子供だったと母親が言っていた。今でも泥酔して理性を手放せば、泣き上戸になるのかもしれない。しかし、俺はそれをしないようにしていた。その資格が、もう俺にはないのだった。
「疲れたぁ」と、達巳が舐めたことを言った。
「歩けよ、捨ててくぞ。あ、そしたらオマワリサンに保護されて、お前が大好きな警察24時に出演できるな」
「あれってギャラ貰えんのかな」
「どうだろうな、出る機会があったら聞いてみろよ」
「てかお前はいいわけ、俺が全国デビューしちゃってもさ」
「あれを全国デビューと考えるのはこの世で達巳だけだよ」
何がそんなに面白いのか、達巳はギャハギャハと大笑いした。白い息が浮かんで一瞬で消え、酒の匂いだけが残る。
「そんなこと言ってさ、お前は俺のこと、絶対置いてったりしないじゃんね」
ゴキゲンにそう言う達巳が可愛かったので、俺は彼の脇腹の肉を、服の上からむぎゅっとつまんだ。彼は「ぎゃ」と言ってから、また何かが面白かったらしく、笑った。俺も楽しかったので、同じように笑う。

自宅のドアを開けると、チャカチャカという聞き慣れた音がゆっくり近づいてくる。爪が床を叩く音だ。音の主であるその茶色い小さな犬は、玄関までやってくると、俺を見上げて尻尾を大きく左右に揺らす。
「雪子〜」
達巳が嬉しそうにその犬の名前を呼んだ。ポメラニアンのようでそうでない雑種犬の雪子は、達巳の呼びかけに答えるように舌を覗かせて、小さな鳴き声をあげた。
「ただいま」
俺も雪子に帰宅の挨拶をして、ぐでんぐでんになった達巳を抱え寝室に直行する。それからリビングを覗き、給餌機の皿が空になっていることと、給水機の水がまだ残っていることを確認し、グラスに水を注ぐ。
寝室に戻ると雪子がベッドの側で丸くなっていた。頭を撫でると、犬の体温は温かくて、凍えた指先が温度を取り戻し始めた。
「雪子は可愛いなあ、ほんとに」
ベッドに放り投げた達巳が、猫撫で声で言う。
「そう、可愛いんだよ。雪子は」
「お前よりも可愛いもん」
「俺だって結構可愛いだろ」
「えー、キモー」
達巳がキャハキャハ笑うと、起き上がった雪子マットレスに顔をのっけて、達巳の指をペロペロ舐めた。
「雪子も俺に同意してるぜ」
「違うね、雪子はお前に異議を唱えてるんだ」
スーツを脱いで部屋着に着替え雪子の名前を呼ぶと、彼女は俺の方に飛んできた。耳の下を両手でわしゃわしゃと撫でると、気持ちよさそうに首を伸ばす。
「雪子、いま何歳?」
「家に来てからは一年半ぐらい経ったけど、買った時点でいくつだったのかはわからんから、わからん」
この毛玉のような小さな雑種犬とは、何気なく通りかかった古くさいペットショップで出会った。値段はたったの五万円だった。財布を覗くと五万二千円入っていたので、俺は気になった漫画を買うくらいの気持ちで、この犬を買った。当時、俺は一人で生きて一人で死んでいくことを決めていたのだが、やはり寂しかったのだろうか、その道連れに犬を選んだ。物言わぬ生物なら、なんでも良かったのかもしれない。
結局その後に、達巳に出会うことになるのだが。
「あん時はまだこんな小っさい子犬だったのに、大きくなったねー、雪子」
達巳は自分の手で小さな丸を作って、感慨深げに言う。俺は雪子の首の周りをふわふわと撫でながら、この家に初めてこの犬を連れてきた時のことを思う。俺はこの先の薄暗い自分の一生を、ぼんやりと受け入れていた。そして自分の罪に対する罰がそんなに軽いものでいいのかと、自分の中の他の自分に責め立てられていて、息苦しかった。雪子は雪子で不安気に俺の部屋をうろうろしていた。
あの頃の俺の部屋には、色も温度も、匂いもなかった。少なくとも俺には感じられなかった。
だが、雪子が家に来て、それから少し経って達巳も入り浸るようになると、暖かな色彩と匂いとが戻ってきた。
もう二度と手に入れることはないと思っていた愛する人と、愛しい小さな命をほぼ同時に手に与えられた俺は、自責の念に駆られていた。俺には、幸せになる資格などない。なってはいけない人間なのだ。しかし、そうは思いつつも、何一つ手放すことなど出来ずに時間が過ぎた。
雪子が俺の両手に揉まれながら大きな欠伸をし、それを見ていた達巳も大口を開けて欠伸をする。壁に掛けた時計の短身は、もう十二時を回っていた。
「雪子、もう寝ようか。達巳、お前風呂どうすんの」
雪子は俺の言葉を理解しているかのように、チャカチャカと床を鳴らしながらリビングへ向かう。達巳は「めんどくせえからいい」と言ってベッドの上でモゾモゾと動く。
「スーツ脱いでから寝ろよ、シワになるぞ」
「眠くて無理……。脱がせて〜」
無視しようとしたが、隣でスーツ姿で寝ている男がいたのでは落ち着いて寝ることもできないだろう。舌打ちをしてジャケットを剥ぎ、ワイシャツを脱がせる。
「いやぁー、犯されるー」と爆笑こいている辰巳をシャツ姿にして、脱がせてやった衣類をハンガーにかけつつ「下は自分で脱げ」と言うと、大人しく脱いでベッドの下に放り投げたので、拾ってそれもハンガーにかける。
「たまには逆やる?」
俺の動作を黙って見つめていた達巳が突然に言ったので何のことか一瞬わからなかったが、性行為のことらしかった。
「お前絶対途中で寝るだろ」
「寝ない、寝ない」
「前科があるから。もう、はやく寝ろ」
達巳は「えー」と不満げな声をあげたあと、十秒ほどで寝息を立て始めた。俺もすぐに電気を消してその隣にもぐり込み、目をつむる。達巳の寝息と自分の呼吸が暗い部屋で混ざり合い、それは俺を安心させるが、同時に、過去の記憶が俺を深く責め立てる。

あなたのことを、本当に愛していました。
あなたのいない人生など、考えられない。考えたくもない。この先あなたと生きていけないのならば、私の人生に残されるのは苦痛のみです。
私のどこがいけなかったか聞いたら、きっとあなたを困らせてしまうことでしょう。ですが、自分で考えても、わからないのです。私たちは三年間、何の問題もなく、愛し合っているものだと思って、疑いもしませんでした。いつか結婚しようと、あなたが言ったこともありましたね。
全て嘘だったのでしょうか。あなたは最初から私のことなど愛してはいなかったのではないでしょうか。そうだとしたら、何故、私の告白を受けたのですか。私と愛し合い、生涯を共にするなどと嘘をついたのですか。
あなたに別れを告げられてから、毎日考えていると、私の中にあった小さな疑念が、大きくなっていきました。間違っていたらごめんなさい。だけど、もしそうだとしたら、辻褄が合うのです。
私の考えが合っているのなら、私が私である以上、あなたは私のことを愛してはくれないのでしょう。ならば、私は私であることを悔やみます。女であることを、悔やみます。

「おい、起きろ、おーい」
激しく揺すられて目を覚ますと、目の前には髭の伸びた達巳の顔があった。部屋の中はすっかり明るくなっている。俺は夢を見ていたことを自覚し、胸を撫で下ろした。何度も何度も見た夢だ。夢なのに映像はなく、彼女から最後に届いた手紙を、彼女の声が悲痛げに読み上げる夢。
「大丈夫か、なんだか、うなされてるみたいだったから」
「怪獣に追いかけられる夢を見た」
「ガキか」
適当を言ったら達巳がケラケラと笑ったから、俺は安堵した。冬だと言うのに、背や太ももにじっとりと汗をかいていた。
「雪子が腹をすかせてから、餌をやっといた」
「ああ、ありがとう」
俺は達巳に礼を言って、ベッドの隣に置かれたデスクの方を見る。デスクの引き出しの奥に、あの手紙が入っている。二年前に別れた女が、俺が殺した女が寄越した手紙が。

彼女、雪乃とは仕事で知り合った。取引先の担当者で、知的で綺麗な女だった。仕事で何度か会ううちに、彼女が自分に好意を抱いている気配を感じるようになった。その予想はやはり当たっていたらしく、ある時食事に誘われ、告白を受けた。
俺は彼女からの交際の申し込みを快諾した。彼女のことは仕事を通じて尊敬していたし、人としての好意もあった。彼女とであれば、一般的な男女の恋愛関係に近いそれを形成し、ありふれた夫婦として社会に溶け込めるだろうと思った。この時の俺は、
俺は人間として彼女を愛していたし、たとえそれが彼女の望む形の愛ではなくとも、彼女が俺に向ける愛とは異なっていたとしても、その差異を誰にも悟られなければ彼女を幸せにできるのだと思って、疑いもしなかった。
一年経って二年経っても、俺と雪乃は喧嘩もなく、平穏に交際を続けていた。
夜の行為においても、不可能ではなかった。時々苦しいと感じることはあっても、肉体的な刺激で精神的な負荷はいくらでも丸め込めた。どうしても上手くいかない時も、元々欲の薄い男を演じていたため、雪乃はさほど気にしていない風だった。マンネリなんてものはどのカップルにも起こりうる事らしく、雪乃が深刻になることもなかったように思う。
しかし、三年が経った頃。彼女とならば結婚しても、きっと互いに幸せな生活えお維持できるだろうと思っていた頃。いつになく酒を飲み、泥酔した彼女が言った。
「あなたの人生に、本当に私は必要なの」
雪乃が感情的な言葉を口にすることは滅多になかったから、俺は驚いた。急にどうしたんだ、と言うと、彼女は充血した目で俺を睨むように見つめ、
「あなたの愛と私の愛は、種類が違うでしょう」
と真っ黒な瞳で俺をとらえて言ったのだ。
雪乃が俺に対しての不安や不満をこれほどはっきりと言葉にしたのは初めてのことだった。
その時初めて、心が折れる感覚を味わった。隠しきれないのだと理解した。こんなに真っ直ぐに俺を見上げてくる彼女の前で、死ぬまで仮面を被り続けることなんて、不可能だと俺は悟ったのだ。
俺は、自分がいかに馬鹿で愚かであるか、一瞬で自覚させられた。恐ろしくて、逃げ出したくなった。彼女のそばにいたら、暖かく優しい仮面だと思っていたものが、醜い形相を浮かべた鬼の面だと思い知らされてしまう。俺が詭弁で自身を正当化させ、彼女を利用していたことを、俺自身が真実として認めてしまう。
翌日、雪乃は泥酔した自身が発した言葉を何も覚えてはいなかった。彼女はこめかみに指先を添え、決まりの悪そうな顔で尋ねてきた。
「私、何か変なことでも言った?」
それが、より恐ろしかった。あれは、雪乃が普段は心の奥底に押し留めている俺への批判なのだ。きっと勘付いているのに絶対に俺に直接聞きはしない。聞いてはいけないと、雪乃はわかっているのだ。
これほど鋭く、しかし思慮深い女を、俺が幸せになどしてやれるわけがなかった。俺は酷く傲慢だったのだ。彼女と一緒になるということを、そして彼女自身を侮っていた。
数日後、俺は彼女に別れを切り出した。雪乃が感情を露わにするところを、俺はその時初めて見た。最初は冷静に、どうして別れたいのかと聞いてきて、話し合いに持ち込もうとしていた。だけど俺の決意が固まっていることを察して、堰を切ったように泣き出し、嫌だ嫌だと繰り返した。子供のように泣きじゃくる雪乃の姿を見て、俺ははっきりと恐怖した。普段の聡明な彼女からは想像もつかない取り乱しようで、俺はその姿を見てやっと互いの愛情の果てしない開きを感じ、自分がいかに浅はかな覚悟で彼女と一緒にいたのか思い知らされた。
雪乃は最後まで納得しなかったが、俺は逃げるように一方的に別れを告げた。いや、実際逃げたのだ。彼女は俺を追いかけてこなかったし、その後も家に押しかけてきたり、仕事の場に私情を持ち込むことは一切しなかった。ただ、時々俺に手紙を寄越した。俺に縋るような内容が達筆で書かれた手紙が、数ヶ月に一度だけ届くのだ。彼女は俺を忘れられないようだった。
俺は、雪乃の務める会社との取引担当を別の者に変えてもらうように頼み、やがて担当は後輩社員に変更になった。雪乃との接触はその手紙だけになっていたが、俺は一度返事を書いたきりだった。彼女に俺ができることはもう何もない。他の人と幸せになることを願っていると伝え、以降はろくに読むこともしなかった。幸せを願っていたのは本当だが、彼女からの手紙を読むたびに責められているようで息が詰まり、早く解放されたいと思うようになっていた。彼女は客観的に見ても魅力的な女だったから、そのうちまともな男が現れて、俺がつけた傷を癒してくれるだろうとどこか楽観的に考えていた節もある。
その数ヶ月後、別れて半年が経った頃に、彼女が亡くなったことを後輩から聞かされた。自死で、遺書はなく、理由はまだわかっていないらし。後輩が言うのを聞いて、俺は呆然とした。全身の血液が一瞬にして凍ったような心地だった。遅れて心臓がバクバクと激しく拍動し、胃液が逆流してきて、俺はトイレに駆け込んで嘔吐した。
俺が殺したのだと、すぐにわかった。彼女は俺に見捨てられたことに絶望し、死を選んだのだ。遺書も書かずに、一人きりで。
どの面下げて、と思いつつも、後輩と共に葬儀に参列した。彼女の親族や同僚・友人らがどこまで把握しているのかはわからなかったが、刺すような視線を感じた。いっそ、俺を殺してくれればと思わずにはいられなかった。死ぬくらいならば、やはり気持ちを誤魔化してでも一緒にいればよかった。いや、でも、それも長くは続かなかっただろうか。ならばいっそ、想いを告げられた時に、断っていれば。そうすれば彼女は俺ごときのせいで死ぬことはなかったのに。俺に殺されることはなかったのに。俺が死ねばよかったのに。普通ではなくて、それを隠そうと彼女の好意につけ込んだ挙句逃げ出した、俺こそが死ぬべきだったのに。
一週間仕事を休み、退職届を出した。死のうとしたのか、罪の意識から逃げたかったのか、薬を大量に飲んだらしいが死ねなかった。全く覚えていないが自分で救急車を呼び、病院のベッドの上で目を覚ましたのだから全く救えない。
そんなタイミングで故郷の父親に病気が見つかって金が必要になり、死ぬわけにはいかなくなった。再び仕事を探して、落ち着いた頃に、雪子を飼った。
それから約二ヶ月後に達巳に出会って、俺は今ものうのうと生きている。

「お前、あの時どうして俺に声かけたの」
朝食を貪りながら、向かいで牛乳パックをラッパ飲みしている達巳に問いかける。あの時とは、初めて会った日のことだった。近所のコンビニで酒やら何やらを買った帰りに、突然見ず知らずのこの男が話しかけてきたのだ。「お兄さん今暇? お金出すから俺とご飯行かない?」とヘラヘラ笑っている達巳の顔を、俺は今でも鮮明に思い出せる。気の狂った奴が話しかけてきたと思って、俺は内心かなり焦ったのだ。
「今更そんなん、聞く?」達巳は口の周りについた牛乳を手の甲で拭う。
「いや、ふと気になって」
「そりゃー、好みの男がいたら、勇気出して声かけるでしょ」
「ぶはは」
思わず吹き出すと、達巳は眉を寄せて不服そうな顔をした。
「お前、いっつもそんなんしてたの? あぶねー奴」
「いつもじゃねえよ。だって絶対逃したくなかったし」
「へー」
「あ、照れてる?」
「うるせー」
小っ恥ずかしくなって食パンを口にねじ込むと、達巳は気を良くしたようで口角を持ち上げた。
「まぁ話しかけたはいいけど、最初は全然心開いてくれないから苦労したぜ。すげえやつれてて、今にも死にそうだったし」
「あの時は、色々参ってたんだよ」
「それが、今はすっかり元気んなって」
「何、親戚のババアみたいな」
「だってそうじゃん。まったく、俺のおかげだな」
口に周りを白くしてニヤニヤしてるアホみたいな達巳に、「うん、まぁ、お前のおかげ」と返すと、予想に反する答えだったようで、なんともいえない変な顔をした。
今度はこちらが気分を良くして「照れてる」と言うと、「うざー」と不満気な声が返ってくる。

それからしばらくして、達巳と連絡が取れなくなった。家の電話に何度かけても繋がる気配がない。ここ最近で俺と彼が揉めたこともなかったし、故意的に距離を置かれているとは考え難い。ふと、雪乃の死顔を思い出していても立っても居られなくなり、達巳の家に行った。
急く気持ちを抑えて合鍵を差し込み、ドアを開ける。部屋は暗いが、達巳がいつも履いている革靴はあるから、中に居るはずだ。
「入るぞ」
と言って、キッチンを抜けてリビング兼寝室の彼の部屋のドアを開けると、ベッドの上に彼の姿があった。駆け寄って顔を覗き込むと、寝息を立てていて、俺は安堵のため息を吐いた。
部屋を見渡すと、いつも通りにきちんと整頓されている。(この男は案外、綺麗好きなのだ)
時間を確認しようと思い電話機のディスプレイを見ると、ディスプレイは消灯していた。電話線が引っこ抜かれているのだ。
「だから繋がらなかったのか」
接続部が床に垂れている電話線をぼんやり眺めて言うと、「あれ」と声がした。達巳が目を覚ましたようだった。
「おはよう」
俺が手を挙げて挨拶すると、彼も布団の中から指先を出して「おは」と言い、目を擦る。
「来てたのか」
「連絡が取れなかったから」
「ああ、そうか。悪い」
達巳が布団の中から這い出してベッドに腰掛け、サイドテーブルに置いてあったグラスの中身をグビグビと飲む。電気をつけようか迷ったが、なんとなくやめておいた。
「何かあったのか?」
「いや、ちょっと仕事が忙しくて。ごめん」
「連絡くらいしてくれよ。心配しただろ」
「優しいね、お前」
「普通心配するだろ」
「死ぬほど後悔してることってあるか」
達巳が突然そう言った。何だ急に。と思ったが、暗闇の中で達巳の神妙な顔が見えたので理由は聞かなかった。
達巳には、雪乃のことを話していなかった。
「……あるよ、ある」
電源の入っていない電話機の前に突っ立って、罪を白状するように言う。達巳に追及されたら、俺は雪乃のことを彼に正直に話すだろうか。それとも、誤魔化すべきか。覚悟が決まらないまま冷たい床の上で立ち尽くしていると、達巳は「そっか」と呟いて立ち上がった。
「センチメントになってたが、お前の顔を見たらやる気がでてきたよ」
「そりゃあ、良かった。根詰めすぎるなよ、あんまり」
普段はちゃらんぽらんな奴だが、実は真面目なところがあるのを知っている。人にあまり弱味を見せたがらない気質なのも。
「大丈夫だよ。それより、せっかく来てくれたんだ、ラーメンでも食いに行こうぜ」
そう言って達巳がカーテンを開けた。陽の光に照らされた彼の顔は、血色も良く、俺は心底ほっとする。苦しい時に頼ってほしいとは思いつつも、俺にも彼にも、言いたくないことや言えないことはある。無理に聞き出すことで彼のプライドを傷つけるかもしれないと思い、俺もそれ以上は踏み込まず、飯を食いに行くことにした。

それから、2週間後のことだった。
その日は、いつも通りに達巳と飲み屋で酒をカッ喰らい、へべれけで俺の家に帰った。達巳はいつもより上機嫌で、それを見るに仕事の山場は乗り越えたようだった。だから俺も気が緩んで、しこたま酒を飲んで千鳥足で帰宅する羽目になった。
雪子に出迎えられて抱擁し、彼女が小屋の中で眠るのを見守った。それから二人でベッドに雪崩込み、俺は達巳の体温に包まれて眠りに落ちた。安からで、心地の良い眠りだった。

翌朝、物音で目が覚めると、隣に達巳の姿がなかった。
トイレにでも行ったのかと思ってもう一度目を瞑ろうとするが、外がやけに騒がしい。ふと、ベッド脇のデスクを見ると、折り畳まれたメモ用紙が置いてある。昨日の夜はこんなもの、置いてなかったはずだ。
眠たい目を擦ってそれを手に取り開くと、一枚の写真が挟まれていた。写真には制服姿の男女が写っていて、中学生くらいに見える。じっとその二人を見つめていると、既視感に襲われた。幼い顔つきの中に、確かに雪乃と達巳の面影を感じた。二人の後ろには、「祝 卒業式」と書かれた看板が立てかけられていて、二人はこちらを見て笑っている。
どういうことだ? 頭が冴えてきて、嫌な予感を覚える。喉の渇きを感じつつメモ用紙を見ると、殴り書きが残されていた。
『ずっと迷っていたが、やっと決めた。俺の一番大切な人を奪ったお前から、一番大切なものを奪うことにする』
間違いなく達巳の字だったが、ここまで乱れているのを見るのは初めてだった。
俺は飛び起きて、リビングに走った。震える手でリビングのドアを開け、真っ先に小屋を見ると、その真ん中で雪子が丸くなった体制のまま、びっくりした顔でこちらを見上げていた。俺は一瞬安堵する。しかし、ベランダから入り込んだ風がレースのカーテンを揺らしていることにも、その向こうから騒ぎ声が聞こえてくることにも、すぐに気づいてしまった。俺は昨日、ベランダの窓など開けていない。
竦む足で窓枠を跨ぎ、ざわめきと悲鳴とを聞きながら冷たいコンクリートの上に立った。心臓の音と自分の息遣いがうるさい。ゆっくりと柵から顔を出し、下を覗き込んだ。真下の地面に広がる赤い液体と、その真ん中に沈む白いものが目に入り、俺は目を瞑ってその場に膝をついた。子供の喚き声のようなものが自分の口から勝手に漏れ出していく。すぐ近くでわんわんと激しい鳴き声がしていて、やがてサイレンの音が聞こえてきた。それからインターホンが鳴って、ドアを叩く音がした。目を開けると、空がやけに青くて、綺麗だった。
正解だ。達巳、正解だよ、お前が。嗚咽の中で呟いたが、その声は雪子の鳴き声に掻き消されて、誰にも届かなかった。

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