簒奪


※暴力、血

縁の低い、ステンレス製の銀色の灰皿にぎゅうぎゅうに押し込まれていた煙草の吸い殻を、高屋は白い手が灰で汚れるのも気にせずに、素手でひっ掴んだ。ほとんどの吸い口に薄赤い口紅の跡を残した煙草の集合体は、彼の手によって、鍋の中へと真っ逆さまに落とされた。コソン、コソンと、軽薄な音を立てて、吸い殻のひとつひとつが、鍋の底へと素直に落下した。
浅野は、その光景を呆然と見つめていた。苦く煙たい煙草の死臭が鼻をついたが、それを不愉快だと思うほどの余裕や自由が、彼には与えられていなかった。
ただ、高屋が、浅野の家に当然のように佇み、浅野家の大黒柱である母愛用の灰皿をひっくり返し、浅野の家の水道の蛇口を手慣れたように捻り、浅野の家の鍋の中に水を注ぎ入れ、浅野の家のコンロの摘みを回して火をつける様子を、服の裾を握りしめながら見ている他なかった。
「何やってんだよ」
精一杯の虚勢で凄んだが、しかし、その声は高屋が勝手知ったるようにつけた換気扇の音に掻き消されて、ひどく頼りなく響いた。
「見てわからないか? 煮しめているんだよ、煙草を」
「なんで」
「君に食わせる他に、理由があるか?」
浅野が反論を発する間もなく、高屋は「食わせる、いや、飲ませる? まぁ、どっちでもいいか」と血色の悪い唇の片方を僅かに持ち上げて、コンロの火を強めた。浅野には、ここから逃げるという当然の選択肢は端からから残されてはいなかった。何度も挑戦し、何度もその大人しそうな綺麗な顔立ちからは想像もつかないような腕力で、首根っこを掴まれて引き戻された経験がある。そしていつの間にか発達しやがった筋肉質な腕や、浅野よりも大きくなった手のひらをこれでもかと握りしめ、浅野の虚弱極まりない身体に容赦なく振り下ろす。彼の拳は、浅野にとっては鈍器だ。浅野はここで無意味な苦痛をあえて受ける選択肢を選ぶほど、馬鹿ではなかった。
浅野が今よりもずっと、もっと馬鹿だったのは、まだ高屋の身体が細く、小さく、また精神的にも脆く、オンナだオカマだと揶揄われていた頃。浅野がまだ、クラスメイトの中では身体つきも良く、周りの男子生徒が自身に何の疑いもなく従い、己こそが強者なのだと思い上がっていた頃。あの頃の自分は、間違いなく今の自分より馬鹿で、考えなしの、愚かな人間だった。浅野はこの頃やっとその事実を、認めた。認めざるを得なかった。
ぐつぐつと煮え始めた鍋の湯を凝視している高屋は、小学二年生の頃、背の小さい、内向的な少年だった。口を聞く相手といえば、若くて優しい女の担任と、彼と同じように大人しい女子生徒ぐらいなものだった。身体も弱く、補助なしでは鉄棒の逆上がりすら満足に出来ない。それを揶揄われると、耳を真っ赤にして目に涙をいっぱいに溜めて俯き、服の裾を握りうじうじし、その度に女子生徒に守られている、浅野から見れば「限りなく情けない男」だった。
その頃、同学年の中では発達が良く気も強く、自分という個体に対する自信もあった浅野は、そのとろくさい高屋を、積極的に揶揄うようにした。理由はたった一つで、ただ、高屋という男の言動、挙動が気に入らなかったためだった。見ていると無性に腹が立つから、揶揄いの言葉を大声でかける。廊下をとろとろ歩いていれば、走っていって薄っぺらい背中を思い切り叩く。歩いていれば足をかけるし、体育のドッジボールの時間には、顔を目掛けてボールを投げる。本を読んでいれば、それを取り上げて、女子トイレに投げ捨てる。高屋はその度、逆上がりができずに揶揄われた時と同じような反応をした。
当時、クラスの空気を作っていたのは、紛れもなく浅野だった。行動的で声が大きく、短気で、暴力的。つまりただ自己中心的で乱暴な子供だったのだが、偶然持ち合わせていたユーモア性のおかげと、周りよりも背が高かったおかげで、絶妙なバランスの上でクラス一の権力者という立場を保てていたのだ。それ故に、浅野の高屋への行いを非難する者は、誰もいなかった。(一部、高屋と仲のいい大人しい部類の女子生徒達はよく思っていなかったらしいが、浅野の世界に彼女達の声はおろか存在は認識されていなかった)
その絶妙なバランスが崩れたのは、小学五年生に上がってすぐの頃だった。いや、正確には、もう少し前から着実に、その気配は浅野に迫ってきていた。
浅野の発育は、中学年の頃にぴたりと止まった。今まで自分より下にあった友人らの目が、自分を見下ろすようになった。特に、高屋は急激に背が伸びて、クラスの男子生徒の中でも頭ひとつ飛び抜けていた。特別運動をしているようには思えなかったが、腕も足も、背も、それ相応の厚みがあった。
一方で浅野はあまり肉がつかず、低学年の頃に比べ、体重もさほど増えなかった。鏡を見ると骨っぽい貧相な身体が映るのが、たまらなく嫌だった。
一度、友人に「浅野の家は貧乏だから、ろくなもんを食わせてもらえていなくて、背が小さいんだ」と陰口を叩かれたことがあった。それを受け、低学年からの付き合いの友人が嬉々として口を開く。「あいつの母ちゃんは、あいつのことが嫌いだから、飯なんて作らないんだよ」
俺の母ちゃんが言ってたから、ホントだよ。浅野は、そう言って笑いを誘う友人の元へ走り、胸ぐらを掴んで、思い切り頬を殴りつけた。浅野にとって家庭のことは誰にも触れられたくない、禁忌の話題であった。少しでも家の事情を揶揄われると、瞬間的に頭が、目の周りが熱くなって、気づけば手が出ている。故に、浅野に聞こえそうな場所でわざわざ禁忌を犯す者など、以前はいなかったのだ。
今までは、浅野が暴力を振るえば、みな恐れ慄き、謝り、浅野の機嫌を取ろうとした。しかしこの時は、ただ胸倉を掴んだ腕を掴み返されて、「痛えな」と押し返された。浅野はたったそれだけでバランスを崩して、尻餅をついた。
「ほんとのことだろ」
「違う、俺んちは貧乏じゃないし、母さんは俺のことが嫌いなんかじゃない」
浅野は座り込んだまま怒鳴ったが、友人はそれをバカにするように鼻で笑って「嘘つき」と言った。周りの友人たちは、憐れんだような視線を浅野に向けていた。
その頃から、当然のように両足を置いていたクラス一の権力者という足場が、崩れ始めた。浅野は、余計にムキになった。ムキになって、高屋にもっと酷い仕打ちをすることで、その足場を確固たるものにしようと考えた。
だが、浅野が暴言を吐こうが、暴力を振るおうが、高屋はもう低学年の頃のように泣きそうな顔をすることもなかった。しかし嫌そうな、悔しそうな顔をするので、それを見るだけでもいくらか鬱憤は晴れた。一方で、周囲の目は、次第に冷たくなっていった。
そして、小学五年生の夏、決定的な出来事が起こる。その日、高屋は隣の席の女子生徒と、昨日の夕飯は何を食べたかという話をしていた。女子生徒は母親とハンバーグを作ったのだと言い、高屋は、昨日は両親の結婚記念日だったから、家族でフレンチレストランに言ったと話した。
その会話を耳にしてから、浅野の頭の中で「フレンチレストラン」という言葉がぐるぐると渦を巻き、追い出そうとしても出て行ってはくれなかった。フレンチとは何だろうか。浅野は考えたが、高屋とその両親が笑顔でテーブルを囲っている絵面は浮かぶのに、フレンチの正体はわからなくて、激しく苛立ってきた。何のきっかけもなくその怒りが頭のてっぺんを突き破って噴出する感覚がし、気がつけば、高屋の肩を掴んでいた。
いつものように、いや、いつも以上に支離滅裂な因縁をふっかけ、高屋の二の腕を叩く。彼は突拍子もない浅野の行動に驚いたようで目を大きくして、浅野を見下ろした。
「やめてよ」
珍しく、本当に珍しく、高屋が反抗的な態度を取り、浅野の腕を振り払った。その時、高屋が上げた腕の、その先の拳が、ちょうど浅野の顔面のど真ん中に当たった。
当人含むクラス全員が、一瞬、何が起こったのかわからなかった。高屋が慌てて手を下ろした。浅野は鼻から滲み出す鈍痛と、温かい液体とを、なすがままに受け入れる他なかった。
その液体が鼻血なのだと分かった時には既に、浅野の脆くなっていた地盤は崩れ去り、無表情の高屋がこちらを見下ろしていた。

「ほら、飲みなよ」
流し台に置きっぱなしにしてあったプラスチック製のカップに鍋の中身を注いで、高屋は言う。悪臭と熱とを凝縮したようなそれを目の前に突き出されて、浅野は後退りをした。汗とも冷や汗とも取れぬ体液が背中の、足の、腕の皮膚を伝って劣化した床に滑り落ちていく。
「飲めるわけないだろ」
凄みを効かせようとしたが、その声には明らかに恐れの色が滲んでいて、それを高屋に悟られてはいまいか彼の表情を伺う。しかし彼は涼しい顔でカップを突き出しているだけで、何を考えているのかは、浅野にはてんで理解できない。
最近の高屋は異常だ。
中学に上がってから、彼は浅野の家にまで押しかけてくるようになった。あの日以来──浅野の方が圧倒的に劣っているのだとバレてしまって以来、簡単に立場も周囲からの扱いも逆転してしまったが、それでも小学校を卒業するまでは、全ては学校内で完結していた。それがいつしか、高屋の仕返しは、放課後にまで、休日にまで、ついには家の中にまで及んでいる。
「もう、いい加減にしてくれよ」
「なにが」
「じゅうぶんだろ、もう」
浅野の言葉を受けた高屋は、目を丸くした。彼のそんな表情を久しく見ていなかった浅野は、場違いに懐かしい気持ちになる。ややあって浅野の訴えを理解した高屋は、小さく鼻で笑ったかと思えばすぐに能面のように表情を失い、浅野の汗ばんだ額を掴んだ。抵抗する間もなく、キッチンの壁に押し付けられる。後頭部を激しく打って、ゴン、という重たい音が耳の奥で鳴り、頭がぐらぐら揺れる。足の力が抜けて床に崩れ落ちると、すかさず高屋は浅野の鼻をつまんだ。そして口元に、いくらか溢れてかさの減った熱湯が注がれているカップを、強引にあてがう。
「君に拒否権なんてないでしょう、浅野くん」
高屋はやけに優しい声音で言い、カップを傾けた。彼の手を掴み、それを阻止しようとしたが、全く敵わない。酸素を求めて口を開けると、ゆっくりと、その熱湯が口内に侵入してきた。
振り解こうとしてもびくともせず、浅野はその激痛を伴うほどの熱の塊を胎内に流し込まれた。喉が焼けるように痛み、身体の真ん中を通る管が燃え、無意識のうちに、低い、獣の唸り声のような悲鳴をあげていた。うっすらと苦味を感じた気もしたが、舌が痛みと痺れに侵され、それを確かめる余裕は少しも残っていなかった。
無我夢中で彼の手から逃れようともがくと、その恐ろしい液体の入ったカップが高屋の手を滑り抜け、床に落下する。熱湯と、底に沈んでいたふやけた吸い殻が、床の上にぶちまけられる。浅野は必死で呼吸をした。息を吸うのも、吐くのも、喉の奥がこのまま裂けるのではないかと思われるほどに痛んだ。
しかしその痛みを反芻する間もなく、高屋の拳が飛んできて、真っ直ぐに鼻を打つ。
濡れた床に倒れ込む浅野を見下ろして、高屋は不機嫌そうに言った。
「もったいねえだろ、片付けろよ」
腹の中に流し込まれた熱が、一気に頭の頂点にまで逆流し、弾けた。瞬間、起き上がって爪が手のひらの皮膚を突き破るほどに拳を強く握り、こちらを見下す悪魔の顔面を目掛けて振りかぶる。が、浅野の手が彼の元に届くよりもずっと早く、彼の膝が浅野の顔のど真ん中を蹴り上げた。嫌な音がした。頭の奥にまで鋭い痛みが走り、それを紛らわすために、床をごろごろと左右に転げ回る。
「痛い、痛い」と自身が無意味に痛みを訴える声が、バカに滑稽に聞こえるのを、どこかで冷静に聞いていた。
温かい液体が、だらだらと口元へ垂れてくる。味覚なんてもう麻痺したかと思ったが、しっかりと鉄臭い味が口内に広がる。
「折れた、痛い、折れた」
「あはは、折れたらなんだよ」
別にいいでしょ、かわいい女の子でもないんだから。高屋は浅野の呻き声にそう答えて、両手で鼻を抑える浅野の上に、馬乗りになる。ただでさえ痛く苦しい呼吸器がより痛みを増した気がしたのは、高屋の体温と重みのせいだろうか。
殺されるのではないかと、浅野は思った。高屋は自分のことを殺すまで許さない気なのだ。きっと、自分が死ぬまで、彼の行為は止まらないのだ。だったら、殺されてしまっても、いいかもしれない。浅野の脳裏にそんな考えが浮かんだが、しかし、これ以上の痛みを感じることを、脳が、身体が、浅野の諦めとは関係ないしに拒否している。
「やめろ、もう、やめてくれ」
焼け爛れた喉を絞って発した言葉を、高屋は口角を持ち上げて聞いていた。許しを乞えば乞うほど、高屋の感情を逆撫でしていることに、浅野はこれまでもこの瞬間も、一度だって気がついたことはなかった。高屋が、浅野の胸ぐらを掴んで、持ち上げる。
するとその時、部屋の外から、カンカンと小さな音が近づいてきた。それは、何者かがこのアパートの外階段を登ってくる音で、音の高さから足音の主は、細いヒールのついた靴を履いた女であろうと察しがついた。
途端に、浅野は激しく動揺する。
「高屋、離せ、どいてくれ」
「嫌だよ」
「母さんかもしれない!」
痛ましい、掠れた声で叫び、浅野は高屋の下から逃れようともがいた。足音はもうすぐそこまで迫っていた。しかし高屋は、心底愉快そうに、浅野の耳に唇を寄せて言う。
「見られたからって、別に大丈夫でしょう。君の母親は、君に興味なんてないんだから」
浅野の動きが、ぴたっと止まった。暫くの静寂のあと、鼻を啜る音が聞こえて、高屋は笑いを噛み殺して彼の耳元から唇を離す。足音は、二つか三つ隣の部屋に吸い込まれていった。
浅野の、殺し損ねた鳴き声だけが、蒸し暑い部屋に響き渡る。彼が涙を拭おうとすると、高屋はその手首を掴んで乱暴に床に押し付けた。血と汗と涙がぐちゃぐちゃに混ざった顔を眼下に、高屋は歪な笑顔を浮かべた。
「泣いてるの?」
浅野はもはや抵抗する気もなく、腕を拘束されたまま、黙ってしゃくりあげている。
「ねえ、誰が悪いと思う?」
鼻先が触れ合うほどに顔を近づけ、高屋は優しく尋ねた。
幼少期からの記憶が、早回しで浅野の脳内を駆け巡る。
「おれ」
そう答えると、高屋は満足したようににっこりと笑った。手首の拘束を緩め、浅野の鼻から垂れ流れている血を、舌で舐め取る。
「そうだよ、一生許さないからね」
高屋は、赤く濡れた舌を見せて、もう一度笑った。
頭がおかしいのだと思った。こいつは、イカれているのだ。浅野は、輪郭のぼやけた高屋の、歪んだ笑みを見上げながら思った。しかし、目の前の男を壊してしまったのは、紛れもなく自分だ。この男をイカれた悪魔に仕立て上げたのは、自分自身なのだ。
浅野は、己が死ぬまで続く生き地獄のような日々を想像し、このまま死んでしまいたいと願ったが、この男はそれすらも許してくれないような気がして、無気力に目を瞑った。

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