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[archive]ヴォディチコ、(アルセーニー・)タルコフスキー、アガンベン(2017-10-28)

※以前書いた文章をアーカイブとして転載します。本文章は2017年10月28日に以下のブログにアップしたものです。(ヘッダー画像:Krzysztof Wodiczko, Speaking Flames, 2006. Installation view. Galerie Gabrielle Maubrie, Paris. Reproduced with permission from Krzysztof Wodiczko.)
https://ansaishihoko.wordpress.com/2017/10/28/seoul/

黄色い舌をゆらめかせ
蝋燭がゆっくりとけて流れゆく。
そうやって僕たち二人も生きているね、
魂は燃え、肉体は融けゆく。

アルセーニー・タルコフスキー「蝋燭」(1926年)

19歳のアルセーニー・タルコフスキーは、蝋燭に灯る炎を舌という身体部位に喩えて表現した。炎が蝋燭を喰らいじきに果て行く姿に自らの身体を重ね合わせ、生命がある限り舌を揺り動かしながら燃えつくさんことを決意し表明したかのようなこの初期アルセーニーの「蝋燭」を、クシシュトフ・ヴォディチコの2006年の作品、《Speaking Flames》に対峙しながら私は想起していた。《Speaking Flames》は話者の発する音・吐息による空間の微妙な空気圧変化を蝋燭の炎の揺れ動きに反映させた作品である。それはまるで、蝋燭の炎が意思を持って動き出しているかのように見え、我々はこの運動の中に画面には登場しない話者の姿を想像することが出来る。

英語の「mother tangue(母国語)」という表現にも見られるように、「舌(tangue)」は話す能力を象徴する身体部位である。話すという行為は、通常誰もが持ち得る人間的で普遍的な能力であるが、それはそんなに簡単なものではない。言うタイミングを逃すと一生言えない、なんてことはざらにある。しかし、そんな生ぬるい「言えなさ」よりも、もっとずっと苦しいものもある。それは、抑圧によるものある。もっと言えば、それは公的な空間でその行為を禁止され、社会的な生を剥奪されたような「言えなさ」である。

言われなかった言葉は、潜在性の中では存在しているが、現前されなかったというところにおいては非存在である。例えばそれを一人の部屋で話したとしても、日記に綴ったとしても、誰にも知られなかったとしたらそれは本当に起こったことになるのだろうか?本当はあの蝋燭のように、生命を賭け、身体を蝕んででも、燃え尽きたいのではないだろうか。さるぐつわを無理やりはめさせられたような身体に、そんなことを行うのは無理なのだ。声が死ぬと、身体も死ぬだろう。

ジョルジュ・アガンベンが言及する「むきだしの生(bare life)」(もしくは古代ギリシアにおける生物的な生、zoeē)の概念は、政治的・法的な権利を奪われた生物学的身体についての言語的表象である。アガンベンが「限界状況(limit concept)」とする近代国民国家における難民は、全体主義によって成り立った現在の自由民主主義を押し付ける悲劇を体現している。ドナルド・トランプが大統領に就任したことによって、いままさに私たちが直面している全体主義に向かう傾向は、自由民主主義の根本にある性質によってもたらされた差し迫った危機なのだ。これは国籍を持たない難民で有る無しに関係なく、個々人の政治的生(古代ギリシア、bios)を脅かし、我々を「ホモ・サケル(homo sacer / homines sacri)」へと展開させる潜在性を持っている危機である。

Richard Mosse《Incoming》(2014-16)

写真家リチャード・モスのヴィデオ・インスタレーション作品《Incoming》は、このような「むきだしの生」の視覚的な表象である。作家はインタビューや著作内でもアガンベンについて言及しているが、この作品の大きな特徴のひとつは、軍事用に開発された超望遠赤外線カメラを使用し難民を撮影している点であり、このカメラは昼夜を問わず30.3km先に離れたところにいる人体をも感知することができる。人の生命の生物学的な痕跡を読み取るこのカメラにより、温度の違いによる熱放射の痕跡として表された世界は、強い光に照らされて浮かび上がるモノクロの眩いイメージとなって、低体温症、気候変化、標的に狙いを定めた銃口、国境警備、排外主義、国を失った人々の「むきだしの生」を文字通り、そして同時に比喩的に表現している。ここに表象される身体は、ただの周囲との温度差異によってうかびあがる人型をした熱の痕跡しかないのであるが、軍事兵器がとらえるこの身体は難民生活を強いられた人々の生活のある瞬間をアイロニックに映し出す。

このように「社会」における様々な問題を扱う芸術作品は、現在「ソーシャリー・エンゲージド・アート(SEA)」と分類される社会関与型の作品が大半を占める傾向にある。作品例は割愛するが、星野太はSEAを「拡張された場におけるパフォーマンス」と称し、2010年代の理論書の潮流にSEAや現代美術の動向をパフォーマンスの観点から統一しようと試みる動向が見受けられることを指摘した。例えば1970年代、1980年代のパブリックアートは物理的な場=サイトに根ざしたものだったが、過去30年の間で「サイト」の概念は物理的な場所(場に根ざし、不動で、現実の)から言説的なベクトル(場に根ざさない、流動的な、ヴァーチャルの)へと移行している。SEAは特定の社会集団にコミットし「拡張された場」をアクティベートするものであると言える。

社会的芸術作品、あるいはSEAの作品を目にしたとき、我々は「社会」という枠の中でのみこの人々を憂うことができるが、彼ら自身の声は聞こえてこないことに気づきはしないだろうか。これらは、言われなかった言葉を棄却して、問題を浮き彫りにするという点においては有効なものとなるだろう。しかし、果たして誰が言われなかった言葉を拾い上げてくれるのだろうか?か細い声に耳を傾けてくれるのだろうか?これらの作品における身体は、まるで火が消えてしまったあとの蝋燭のように冷たい。

Krzysztof Wodiczko《The Veterans' Flame 》(2009)

ヴォディチコは《Speaking Flames》から約4年後、2009年にもまた《Veteran’s Flame》で蝋燭の炎をモチーフとして反復させ使用している。「非-戦争文化」を提唱する作家のテーマとして、退役軍人はその後の作品でも繰り返し登場していくこととなるが、蝋燭のモチーフにこそ、作家の一貫した意思を感じざるを得ない。作家クシシュトフ・ヴォディチコの作品制作とは、蝋燭に火を灯すように対象の生を活性化する行為なのである。

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