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AKのスピリチュアル講座9:スピリチュアルな人とそうでない人

物質と心を短絡的に結びつけてしまうような願望実現理論・自己啓発理論、あるいは物理的な言葉だけで心の仕組みも語ろうとする還元論・唯物論などは、非常に未熟な考え方であり、決して真のスピリチュアリティではない、というお話しをしてきました。
真にスピリチュアルな理論とは、「物質→生命→心→魂→霊」といった進化の過程には、省くことのできない段階があり、「上位(進化後)は下位(進化前)を含んで超える」という構造を持っている、という科学的根拠に立脚していることもお話ししました。
今回は、そうした考えにのっとるなら、どのような人がスピリチュアルな人で、どのような人がそうでないかをはっきりさせておこうと思います。

■霊能者を特別扱いするなかれ

まず最初に、「霊能者・超能力者が必ずしもスピリチュアルとは限らない」というお話しをしましょう。
たとえば、どれだけ優れた霊的能力があっても、その能力を霊感商法に使ったりマインドコントロールに使ったりするなら、それはスピリチュアルではありません。
一般的には、霊的能力を持つ人間をどうも必要以上に特別扱いする傾向があるようです。
スピリチュアルな力は誰にでも多かれ少なかれあります。もっと言えば、マトリョーシカのどの層の状態でも、高層ビルの何階にいても(シリーズ3参照)、霊的能力はそれなりに発揮できます。しかし、あくまで「それなり」です。

この事情をスポーツにたとえてみましょう。
誰でもスポーツをすることはできます。上手い下手はあるし、向き不向きもあるでしょう。しかしできないわけではありません。訓練を積めば、誰でも少しはうまくなるはずです。ただ、オリンピックで金メダルを取れるか取れないかには、才能や素質の差があるでしょう。金メダリストを称賛したとしても、必要以上に特別扱いする必要はありません。どんなに運動能力が高くても、人間的に未熟だと(薬物やアルコールに溺れる、DVに走る、性生活が乱れるなどして)転落することもあります。
霊能者も同じです。霊的能力は誰にでもありますが、それを開花させるには、それ相応の訓練(修行)が必要になります。ESPカードなどをいくらやっても(霊的能力の開発にはなっても)、それだけでは霊的(あるいは人間的)修行とは言えません。たとえば、どれだけ透視能力に長けていたとしても、道を踏み外す人もいるでしょう。

スポーツの世界ではよく「心・技・体」などと言います。心と技と肉体がバランスよく成長してこそ、選手として強くなるということでしょうが、「心」の部分は、ある競技に打ち込むだけでは成長しません。昨今のスポーツ界での、コーチや監督によるパワハラ事件や選手の不祥事などを見るにつけ、体や技の鍛錬と心の成長はまったく別のプロセスだと感じずにはいられません。

あなたが、霊的能力など大して発揮できていないとします。その代わり充分な精神修養を積んで、柔軟な思考と並外れた包容力を発揮できているとします。あなたの意識は拡大され、進化し、高くて広くて深いものの見方ができるようになっています。そんなあなたは、社会的な成功を収めながらも、道を踏み外したり不祥事を起こしたりする人のことも、よく理解できるはずです。もしあなたがこのような人間なら、霊能力者などよりよほどスピリチュアルな人であると言えます。たとえあなたの肉体が完全に健康な状態ではなかったとしても、です。

この項をまとめておきます。
「スポーツで肉体を鍛え、技を磨いただけでは、必ずしも人間的な成長につながらないのと同じように、霊的能力を開発しただけでは、霊的(人間的)な成長は見込めない」

■精神と肉体の関係性

昔から「健全な魂は、健全な肉体に宿る」と言われますが、実は逆なのでしょう。魂の健全さが、肉体に反映することはあっても、肉体が健全だからといって、その人の魂が必ずしも健全だとは限らないようです。また逆に、魂が健全だからといって、肉体が健全だとも言い切れません。肉体が健全な悪人はいくらでもいます。魂が健全な病人もいくらでもいます。
私の師匠(日本におけるドリームワークの第一人者)は、四十代の脂が乗り切った頃、原因不明の持病に悩まされ、一時はほとんど寝たきり状態になっていたそうです。しかし、そんな人生でいちばん辛い時期に、自分の夢をドリームワークしてみると、肉体はそういう状態であるにもかかわらず、心(魂)の部分は常に、ゆったりと流れる大河に身を任せているような状態であることがわかったそうです。
「精神の働きを肉体の働きにたとえることはできない」と言う向きもあるかもしれませんが、これだけは言っておきましょう。精神の働きなくして、肉体は1ミリも動かないのです。精神の力が肉体を制御しているのであって、その逆ではないのです。鍛錬によってどれだけ頑強な肉体を持つに至ったスポーツ選手でも、スランプに陥ったり、鬱になったりしたら、肉体は思うように動かないはずです。スランプや鬱は、もちろん心の問題です。
「筋肉を動かせば動かすほど、精神も鍛えられる」・・・? このおよそバカバカしい大時代的な「根性論」が、「しごき」や「体罰」や「パワハラ」の言い訳になってはいないでしょうか。

本当の意味で、あるスポーツ競技に熟達したいなら、あるいはスポーツによって人間的にも成長したいなら、肉体の鍛錬と同時に精神的な修行も欠かせません。逆に言えば、精神的な修行も積んでいるコーチや監督は、選手の人間性も育てられるし、スランプなどの克服にも手を貸せるでしょう。また、心の部分が充分に成長している人は、スポーツの上達も早い、という現象もあります。
肉体の鍛錬と精神的な修行を同時に行うなら、双方の相乗効果が期待できます。なぜなら、双方のプロセスの基底に流れる共通の法則(ウィルバーはこれを「意識構造」「隠れた文法」「隠れた地図」などと呼んでいます)に気づくからです。これを知っているのと知らないのでは、上達がまるで違ってきます。肉体的な鍛錬も精神的な修行も、そのプロセスを省いたり飛び級したりすることはできません。ただし、成長のスピードを上げることはできます。スピードアップに欠かせないのは、この共通の法則に自覚的になることです。
たとえば、あなたが人間的にすでに充分成長しているとします。あなたは自分がどのようなプロセスを経て人間的に成長してきたか、それを特別意識したことはありません。ただ「隠れた文法」「隠れた地図」に従って成長してきたのです。そこであなたが何かのスポーツを始めたとします。あなたは日々自分の体がその種目に適したものに変わっていく様を自覚し始めます。同時に、技の面でも少しずつ上達しているのを感じもします。昨日できなかったことが、今日はできるようになっています。そこであなたは気づきます(あるいは思い出します)、この技と体の成長は、自分が今まで辿ってきた心の成長過程と共通していると。それと同時に、スポーツの上達と精神の成長が連動していることにも気づきます。
するとあなたは、この先自分がどのようなプロセスを経て(心・技・体すべての面で)成長するかも、だいたい予想がつくようになってきます。これによって、あなたの中に、そのスポーツに対する内発的な動機づけが芽生えます。この未来予想こそが、真の達成目標なのです。これを獲得した選手は、動機が外側から押しつけられたものではないため、スランプに陥りにくい、と私は考えています。つまり「オリンピックで勝つため」ではなく「ただ、やりたいからやっている」になるのです。こういう選手は、一生その競技を続けるでしょう。

これは、技と体の成長プロセスを、心の成長プロセスで還元論的に説明したのではありません。知らないことを知っていることに置き換えたのではありません。すでに経験していることの法則と、今経験していることの法則の共通性に気づいたのです。
別にオリンピックに出場するわけでもないのにスポーツを続ける意味、あるいはスポーツを続けることで自分の肉体と対話する意味とは、まさに肉体と精神の修養プロセスに共通する法則に自覚的になることによって、人間的に成長することです。

このように、肉体の状態と精神の状態は、相互に関連し合っています。しかし、どちらがコントローラーの役目を果たしているかと言えば、やはり精神の方でしょう。何の目的で肉体を鍛えるか、鍛えた肉体を何のためにどのように使うか(他人に暴力を振るうためか、それとも世界平和のためか、など)は、精神の働きです。精神の働き方次第で、同じことをやっていても、まったく違う結果を招くわけです。
ただし、どれだけ頑張って精神を鍛えても、克服できない肉体的な病というものはあります。これこそ、精神と肉体は、そう簡単には融合できない、という証拠かもしれません。
もっと言えば、肉体が致命的な病に侵されたときに、その病をいかに克服するか、あるいは病といかにうまく折り合うか試行錯誤することが、その人を人間的に成長させる、ということはあるでしょう。この場合、まさに精神の方が肉体の状態に歩み寄った(頑なな肉体を柔軟な精神で包み込んだ)、ということでしょう。

この項をまとめておきます。
「肉体が精神を牽引するのではなく、精神の働きが肉体を動かす」
「たとえ肉体が健康な状態でなくとも、精神は健全であることができる」
「肉体と精神の修養プロセスに共通する法則に気づくことができるなら、肉体と精神の相乗効果が期待でき、双方の成長プロセスをスピードアップすることができる」

■子どもと大人で成長課題に違いはあるか?

これから申し上げることは、親や教師、スポーツのトレーナーや監督、会社の管理職など、いわゆる誰かを指導したり管理したりする立場の人に、特に知っておいていただきたい事柄です。

10歳の子供の成長課題と、50歳の大人の成長課題とでは、どちらがレベルが高く、どちらが低いのか、それは年齢で測れることではありません。問題は、その人がどの成長段階にあるか、ということです。どの成長段階の課題にも、それぞれ重要さと困難さがあります。
たとえばあなたが貧しい生活を強いられていて、そこから何とか抜け出したいと思って努力しているとします。その努力は、たとえば禅の僧侶が悟りを啓くべく修行を積むのと同じぐらい困難で重要で尊いのです。年齢もいっさい関係ありません。どちらも「悟り」への道かもしれないのです。
人間としての「修行」には、「山の修行」と「里の修行」の二通りあります。いわゆる「〇〇山□□寺」といった修行の場に入るのは「山の修行」です。一方、普通に生活すること、必要な生活費を稼ぎ、税金を払い、子どもの面倒を看、人間関係に苦労しながら会社勤めをする、というのは「里の修行」です。お坊さんによっては、「山の修行より、里の修行の方がよほど大変」と言う人もいます。
里の暮らしが大変で、そこから逃避するために山に籠るような人もいます。「修行」を逃避の言い訳に使っているわけです。犯罪者の中には、「シャバ」の生活が苦しいため、「三食昼寝つき」で生活に困らないから、という理由で刑務所に戻りたくて犯罪を重ねるような人もいると聞きます。これでは精神修養にはなりません。

貧しい家庭の子どもが、家計を何とか支えたいと思って新聞配達のアルバイトをするのも、経営状態が厳しい会社の経営者が、何とか立て直すべく奮闘するのも、どちらも重要さや困難さに差があるわけではありません。
それは、あなたがこの二人を支援する立場だと想像してみればわかるはずです。貧しい子どもを支援するのも、傾いた会社の経営者を支援するのも、それぞれに難しさがあるはずです。
これは、国の課題にも言えます。後進国が抱える課題も、先進国が抱える課題も、どちらも重要であり、どちらも決してたやすくはありません。
課題の個別性は、年齢差というよりは、その人が成長プロセスのどの段階にあるか、あるいはどの段階でどのような「停滞」や「失敗」を経験したかによって現れます。人ではなく国や組織の場合も同じです。その国や組織が、成長プロセスのどの段階にあるか、あるいはどの段階でどのような「停滞」や「失敗」を経験し、それを克服できていないかによって、取り組み課題に違いが現れる、ということです。この個別性を考慮せずに、たとえば先進国が後進国に入り込んで開発支援をしたり、国の体制に先進国の価値観で変革を加えようとすると、かえって傷口を広げたり、反発を招いたり、環境破壊につながってしまったりします。

この項をまとめておきます。
「子どもと大人の成長課題では、重要さや困難さに違いがあるわけではない。年齢差よりも、その人が成長プロセスのどの段階にあるか(あるいはどの段階に「停滞」や「失敗」があるか)によって取り組み課題に違いが現れる」

■取り組む課題ではなく取り組み方にこそスピリチュアリティがある

取り組む課題にスピリチュアルなものとそうでないものがあるのではなく、取り組み方がスピリチュアルかそうでないか、ということはあるでしょう。
たとえば、貧しい生活から抜け出したいと思っている子どもが万引きをして飢えを凌ごうとするなら、それはスピリチュアルな取り組み方ではありません。傾いた会社の経営者が詐欺や脱税によって窮地を凌ごうとするなら、それもスピリチュアルではありません。
貧しい子どもも、窮地に陥った会社の経営者も、自分にできる精一杯のやり方で社会に貢献することで自分の問題を解決しようとするなら、その試みは、困難ではあってもスピリチュアルで尊いものとなるでしょう。
万引きをする子どもも脱税をする経営者も、能力的に劣っているとは限りません。ただ、人間的成長において未熟な状態にある、ということです。成長プロセスの下位(つまり低いレベル)にある、ということです。年齢的な違いがあるとしたら、子どもの方は、プロセスの下位から上位へまだ上がっていない、ということであり、大人の方は、下位から上位へ上がるときに、(特に倫理的な成長面で)何らかの停滞(あるいははっきりと失敗)があった可能性がある、ということです。
10歳の子どもの取り組み課題も50歳の大人の取り組み課題も、重要度や困難さの点で違いはありませんが、脱税をする大企業の経営者より、苦しい家計を助けるべく黙々と新聞配達を続ける子どもの方が、より高いスピリチュアリティを示していると、個人的には思います。ただし、新聞配達をする子どもが、心の内部に鬱屈した感情や満たされない劣等感などを抱えて、それらが未消化だったりする(つまり含んで超えていない)と、その子が長じて会社の経営者になった場合、脱税などを犯してしまう可能性はあります。これが、倫理的・道徳的な成長面での停滞(ないし失敗)ということです。

ケン・ウィルバーによれば、人間としての成長・発達には複数(主要なものでも最低8つ)のライン(能力領域)があり、それらのラインが並行して少しずつ下位から上位へ(含んで超えるかたちで)成長・発達していくそうです。これを「多重知能(あるいは多重知性)」と呼びます。その主要な8つのラインとは、「認知的知能」「感情的知能」「内省的知能」「身体的知能」「道徳的知能」「精神的/霊的知能」「意志の力」「自己のライン」です。それぞれのラインは独立したものではなく、相互に関連し合っているため、それぞれが個別に意識されることはまずないでしょう。たとえば、認知的知能が発達すれば、他のすべてのラインも良い影響を受けるようですが、ただしすべてのラインを向上させるには、認知的知能の発達だけでは充分ではありません。やはりそれぞれのラインごとに個別の段階があると考えた方がよさそうです。
たとえば、人間的な未熟さゆえに犯罪を犯す人は、「道徳的知能」に問題があるのかもしれません。スポーツの上達には「身体的知能」(「運動感覚的知能」とも言う)がかかわっていることは明らかです。霊的能力が開発されていても道を踏み外す人は、「精神的/霊的知能」以外のラインに問題があるのかもしれません。
それぞれのラインにおいて、「含んで超える」というかたちで、心(あるいは意識)の進化が起きるわけですが、「含む」に失敗すると「アレルギー(拒否反応)」(たとえば拒食症など)が起き、「超える」に失敗すると「アディクション(依存、中毒、嗜癖)」(アルコールや薬物への依存など)が起きるそうです。
唯物論をあくまで堅持する科学者は、もしかしたら「精神的/霊的知能」のラインで「含む」に失敗し、アレルギーを起こしているのかもしれません。
発達のラインについても、いずれ詳しく取り上げます。

この項をまとめておきます。
「窮地を凌ぐため、あるいは自分の抱える問題の解決のため、犯罪に手を染める人は、子どもであろうと大人であろうと、道徳・倫理の面(道徳的知能のライン)で未発達ないし発達上の問題(含んで超えていない)を起こしている可能性がある」

■誰にどんな価値を認めるか

余談ですが、名もない子どもの振る舞いよりも、ややもすると「億単位の脱税をする大企業の経営者」の派手派手しさに耳目を奪われてしまうのが浮世の常といったところです。ただしこれは社会全体として見るなら極めて危険な兆候です。それがどのくらい危険かと言うと、文明が滅亡しかねないほど危険だと、私は考えています。たとえばオウム真理教のトップが、どんな理由で何に反発することで、あれだけ反社会的な事件を起こしたのか、その背景に大きなものを破壊しかねない危険な兆候があると、私は見ています。それはナチスや世界的なテロ組織にも言えます。
その真意については、おいおい詳しく掘り下げたいと思いますが、これだけは言っておくと、「派手な大物犯罪者には瞠目するが、まっとうな努力を重ねる貧しい子どもには注目しない」というような薄っぺらな価値観・世界観は、どういう背景から生まれてくるのか、そこが重要な点です。
ちなみにケン・ウィルバーは「万物の歴史」の中で、こんなことを言っています。

「サルを一二匹殺すかアル・カポネを殺すかという事態になったら、私ならカポネを殺すでしょう」

この強烈な言葉の意味を説明するとなると、ウィルバーのスピリチュアル理論の全体像を説明しなければならないくらい深淵な内容になります。ただ、このことだけは問題提起として投げかけておきましょう。あなたは、苦しい家計を助けるために黙々と新聞配達を続ける子どもと、平気で人を殺すマフィアのボスとに、同じ社会的価値や権利を認めますか? これは、真の「平等性」「多様性」とは何か、という問題提起です。

この項をまとめておきます。
「個人や組織や国が抱えている課題の重要さや困難さに差があるわけではない。だからといってすべての個人、組織、国に平等の価値や平等の権利を認めていいとは限らない」

■「頭のいい危険人物」とは?

人生経験や年齢に関係なく、問題への取り組みに関し、スピリチュアルかそうでないか、これほどまでに違いが出てしまうのはなぜなのでしょう。
人間が成長し、より広くより高い意識状態に達するには、どうやら最低でもまったく異なる二つのプロセスがかかわっているようです(より統合的に言うなら、4つのプロセスです)。

霊的な覚醒(霊的可能性の開拓)の伝統と、人間的成長(心理学的な意味での発達)の伝統は、今までまったく別々に発展し、交わることがなかったことを、ケン・ウィルバーも指摘しています。
霊的成長(覚醒のプロセス)の伝統は、初期のシャーマンやメディスンマンから数えるなら約5万年、瞑想システムが作り出されてからなら千年以上、人間的成長(西洋心理学)の伝統はたかだか100年ちょっと(ジェームズ、フロイト、ユング、ピアジェ、エリクソン、マズローといった人たちが活躍した時代)です。
20世紀の後半、いわばウィルバーらの時代になって、ようやく二つの道の統合が試みられ始めたようです。
霊的伝統は、どのように目覚めるかは教えてくれても、人間としてどのように大人になるかは教えてくれません。心理学的伝統は、人がどのように大人になるか(特に発達心理学の分野)は教えてくれても、どのように霊的に覚醒するかは教えてくれません。
そこで、人間的に成長していない霊能者や、霊的に未熟な科学者(唯物論者など)が生み出され続けているのです。
どちらも偏っていて、どちらも有害です。
ウィルバーによれば、「ナチス党員の多くはヨガや瞑想に熟達していた」そうです。私たちがピンとくるのは、「オウム真理教」の信者たちが、その創始者も含め、ヨガや瞑想の修行に励んでいた、という事実でしょう。しかも、(これはナチスにも言えますが)オウムの幹部には高学歴の人が多いというのもポイントです。つまり、どれだけ霊的な修行を積んでも、あるいは立派な教育を受けていても、人間的にあまりに未成熟な(危険な)状態である場合もある、ということです。この状態がどれだけ危険で有害かは、説明の必要がないでしょう。ナチスもオウムも、一言で言うなら「悪知恵だけは働く不道徳なガキ」の集団ということです。しかしその「頭のいいガキ」が世界を滅ぼしかねないのです(ナチスやオウムに何が起きていたのかについては、また詳しく取り上げます)。
一方、どれだけ科学的知見と論理的思考を有していても、唯物論に凝り固まった科学者は、霊的に未発達(無知・無理解)だと言わざるを得ません。唯物論を唱える科学者とは、いわば「マトリョーシカの限られた内側が世界のすべてだと思い込んでいる」ということでしょう。もしこういう科学者が自説をあくまで堅持しようとすると、霊的(あるいは人間的)成長のプロセスを軽視したり、否定したり、阻害したりしかねません。
人間的に成長していない霊能者も、霊的に未熟な科学者も、どちらも頭のいい危険人物になりかねない、という点に注意してください。
霊的覚醒のプロセスと人間的成長のプロセスは相互補完的なものです。どちらか一方に偏ったり、プロセスが欠けてしまうと、中途半端で危険な人間が出来上がってしまいます。

この項をまとめておきます。
「真のスピリチュアリティとは、霊的覚醒と人間的成長の両方を伴うもの」
「真に統合的な科学とは、霊的なプロセスも考慮されている」
「霊的覚醒のプロセスと人間的成長のプロセスは相互補完的。どちらか一方に偏ったり、プロセスが欠けてしまうと、中途半端で危険な人間(人間的に成長していない霊能者や霊的に未熟な科学者)が出来上がる」

山 発達の高度

そろそろまとめましょう。
霊的・人間的アプローチをしようが、科学的アプローチをしようが、突き詰めれば、結局同じ結論に辿り着くのではないかと、私は考えています。それは、同じ山の頂上を違うルートで目指すようなものでしょう。登る山があなたの人生、それぞれの登山ルートが発達のラインだと考えていただいて構いません。つまりあなたは、すべてのルートを並行して少しずつ登っているわけです。
あるいは、たとえあなたが途中で登る山を変えたとしても、その山の頂上に立ったとき、そこからの眺めは、どの山の頂上もどこかしら似ているのだろうと思います。少なくとも、たどり着いた気分は同じでしょう。共通しているのは、視界が最大限に開け、遠くまで見晴らしが効き、登山の途中(五合目とか八合目)では決して見ることのできない景色が見える、ということです。
私がすでに頂上に辿り着いているという意味ではありません。登頂途中であることは確かですが・・・。少なくとも、これから辿るべき道筋は、だいたい想像がつく、といったところでしょうか。そこからの景色はまだ見ていませんが・・・。
ついでですが、山の頂上が最終到達地点ではありません。「山の頂上より先に何があるの?」ですって? それは辿り着いてのお楽しみ・・・。


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