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AKのスピリチュアル講座3:「存在の大いなる入れ子」

あなたが「スピリチュアリスト」を自任するなら、あるいは何らかのかたちで「スピリチュアル」あるいは「スピリチュアリティ」にかかわるなら(たとえ科学的な立場での研究者であろうと、何らかの実践者であろうと)、真の「スピリチュアリティ」にかんして、誤解や偏見のない認識を持っておく必要があるでしょう。
ここでしっかりとその基本認識についてまとめておこうと思います。
ただし、このテーマだけでも本一冊分になってしまうので、まずは概論からのスタートです。

前回、私のスタンスについて、たっぷりお話ししましたが、そこで出てきた大きなポイントをおさらいしておきます。

〇真のスピリチュアリティとは、個人的実践において、科学的伝統(特に心理学)と精神的(霊的)伝統の間に統合をもたらすこと
〇スピリチュアルな道とは、「個」から「全体」へ至る上昇(進化)(物理学的に言えば膨張)の道であり、決して「全体」から「個」へと下降(退行)(物理学的に言えば収縮)する道ではない
〇「唯物論」はあっても「唯霊論」といったものはない。霊的次元とは、物理次元に対立するものではなく、物理次元を「含んで超える」もの

この三つのポイントだけ見ても、「スピリチュアル」あるいは「スピリチュアリティ」という概念は、そうとう上位の、拡大された、全体的な概念であることがおわかりいただけると思います。チマチマした概念ではないのです。それだけは最初に申し上げておきましょう。

■「スピリチュアリティ」には対立概念がない

まず、スピリチュアルあるいはスピリチュアリティにかんして、言葉の意味をはっきりさせておきましょう。
「スピリチュアル」とは「スピリット(霊)」の形容詞形ですから、「霊的な」という意味です。
「スピリチュアリティ」とは、「スピリチュアル」の抽象名詞形ですから、「霊的である様子」とか「霊性」といった意味になるでしょう。

では、次にそれぞれの反対語を考えてみましょう。
スピリット(霊)の反対語は? 実体? 物質? あるいは物理?
では「スピリチュアル(霊的)」の反対語は? 「フィジカル(物質的、物理的、身体的)」?
「スピリチュアリティ(霊性)」の反対語は? 「フィジカリティ(物性、物理性、身体性)」?
どうもしっくりきません。
「霊」とか「霊的現象」とは・・・科学では説明がつかない、実体のない、目に見えない、検証できない不思議な現象? 「霊」とは人間の脳が作り出した幻想でしょうか?
「スピリチュアル」とか「スピリチュアリティ」とは、非科学的な現象あるいは概念?
科学的でないなら宗教的? 科学よりも宗教に近い概念でしょうか?
「スピリチュアル」あるいは「スピリチュアリティ」とは、宗教の一分野(宗教のひとつの要素)でしょうか? つまり「信じる者は救われる」の類?
しかし、私たちは知っています、目に見えない、手に取れない、実体がないけれども、私たちには意識や心といったものがあると。それを疑う人はいないはずです。そしてさらに、自分の意識が肉体を超えていくという実感体験を持っている人も少なくないのでは?

最初の前提を疑ってみましょう。
スピリット、スピリチュアル、スピリチュアリティとは、反対語を持たないのではないか?
それらには、対立する言葉や概念が初めからないのではないか?
つまり、物質とか物理とか科学という言葉や概念は、スピリットやスピリチュアルやスピリチュアリティを対立概念として排除するかもしれませんが、スピリットやスピリチュアルやスピリチュアリティの方は、物質や物理や科学を対立物として排除しないのではないでしょうか。つまり、それらを内に含んでいる、より上位の概念ではないか、ということです。言い換えるなら、科学も宗教も、どちらもスピリチュアリティの一分野、ということになります。より具体的に言うなら、現在の科学が物理世界を記述する言葉でスピリチュアリティについて語ると、対立的・否定的になるか、あるいはあくまで「部分的」になりますが、スピリチュアリティの観点から物理世界や科学そのものについて語るなら、それは全体的になる、ということです。

この項をまとめておきましょう。
「スピリチュアリティとは、物質や科学と対立するのではなく、それらを内に含んで全体的に語る言葉ないし概念である」

■「存在の大いなる入れ子」

スピリチュアリティとは、物質や科学を包含する概念であるということを、科学的な伝統はなかなか認めないかもしれません。しかし、宗教的な伝統はどうも事情が違うようです。
ケン・ウィルバーは、「万物の理論」の中で、宗教学者であるヒューストン・スミスらの業績を引き合いに出し、キリスト教、仏教、ヒンズー教、ユダヤ教、イスラム教などの世界宗教およびその密教をはじめとする「世界中の偉大な叡智の伝統が持っている本質的な類似性」について「存在の大いなる入れ子」という概念で説明しています(図を参照)。

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この図をご覧いただくと、「物質+生命」という内側の「層(入れ子)」と、それより外側の「層」との間には、かなりの隔たりがあると感じるかもしれません。物質や生命は、目に見える実体であり、科学的(客観的)観察や分析や法則化に耐える対象であり、論理的思考に適している、という印象でしょうか。一方、それより外側の「心+魂+霊」という層は、目に見えない、掴みどころのない、曖昧模糊とした、数値化できない、どちらかというと直観的(主観的)であり、イメージやビジョンに属する世界、という印象でしょうか。単純に言うと、そこには左脳と右脳の隔たりがあるかもしれません。
しかし隔たりがあるということと、この二つの「層」がまったく交わらない(重ならない)ということとは別である、という点をウィルバーははっきり指摘しています。
まさに、この二つの隔たった「層」の間に、ある種の統合をもたらすことこそ、真のスピリチュアリティの出発点であり、目指すところでもあると、私は感じています。

この図が何を示しているかを、もう少し明確に輪郭づけておきましょう。
まず第一に、物理的現象と心的現象、理系と文系、見えるものと見えないもの、論理性と感覚性との間に対立の構図を持ち込みたがる科学的伝統よりも、宗教的伝統あるいは人間の叡智の伝統の方が、どちらかというと全体論的であり、統合への道を示している、ということでしょう。
そして、スピリチュアリティ(霊性)という概念は、物質や科学を内に含む概念として捉えられていることがわかります。つまりスピリチュアリティは物質や科学と対立してはいないのです。それどころか、「霊」あるいは「霊性」とは、物質も生命も心も魂も、すべての層を内に含みつつ超えるものである、ということです。
スピリチュアリティは物質や科学を内に含む概念であるからこそ、「科学的でも論理的でもないなら、それはスピリチュアルではない」と言えるでしょう。
もっと言えば、特定の宗教あるいは特定の教義に凝り固まっている人間も、真にスピリチュアルとは言えないでしょう。言い換えれば、すべての世界宗教がスピリチュアリティをもっとも包括的な概念として認めている、ということです。
「スピリチュアルである」と言った瞬間に、物理的でもあり、論理的でもあり、科学的でもあり、心的でもあり、魂も視座に入っていることを物語っているのです。
すなわち、「真にスピリチュアルな人間とは、まず論理的にものが考えられることが大前提であり、物理世界も科学性も否定せず、さらにそれらを超える認識を持ち、特定のイデオロギーにとらわれない者」ということが言えそうです。

論理的ではなく、どちらかと言うと感覚的・感情的であったり、直感的であったりする人はスピリチュアルでない、とまでは申しません。ただしそれは「非論理的なスピリチュアリスト」「感覚的・感情的なスピリチュアリスト」「直感的なスピリチュアリスト」ということです。つまり「条件付き」ということです。この条件が取れるためには、右脳と左脳の統合が必要かもしれません。
ついでに申し上げるなら、人間的に子どもっぽく未熟な人でも、スピリチュアルであることは可能です。ただしそれも「人間的に未熟なスピリチュアリスト」ということです。
さて、ここで「人間的に未熟なスピリチュアリスト」と「人間的に成熟したスピリチュアリスト」と言った場合、どちらが真正のスピリチュアリストか、説明の必要はないでしょう。
おいおい詳しく触れますが、真にスピリチュアルであることと人間的成長は相互補完的なものです。もっと言うと、「人間的に未熟なスピリチュアリスト」は下手をすると危険人物にもなりかねません。もちろん人間的に成長すれば、危険人物から卒業することもできます。
「真のスピリチュアリティとは、個人的実践において、科学的伝統(特に心理学)と精神的(霊的)伝統の間に統合をもたらすこと」だとする所以はここにあります。

この項をまとめておきます。
「スピリチュアリティは、「物質+生命」層と「心+魂+霊」層との間の隔たりに統合をもたらす」
「科学的(論理的)でないなら、それはスピリチュアルではない」
「スピリチュアリティとは、物理的世界、論理性、科学性を否定するのでなく、それらを内に含み、なおかつそれらを超えている」
「スピリチュアリティと人間的成長は相互補完的」

■「悪魔」とは「神」の一部である

対立的であるということと、「含んで超える」ということの違いを、もう一度おさらいしておきます。
よく人は「悪魔と神」という究極の対立構図を口にしますが、これこそが典型的な論理矛盾です。なぜなら、「神」とは「全なるもの」という意味ですから、そこにはいかなる対立もないはずです。つまり「神」の反対語など存在しないのです。したがって「神」に対立する存在としての「悪魔」も存在しません。私たちが「悪魔」と呼んでいるものは、いわば「神」の一部です。
同じように、「スピリチュアリティ」が統合的な概念だとするなら、それに対立する概念などありません。
何かが対立している時点で、その状況をスピリチュアルとは呼びません。ただし、その対立を統合すべく取り組むときの態度はスピリチュアルかもしれません。
統合科学、統合宗教、統合心理学、統合哲学・・・これらはすべて、同じひとつの概念の別々の側面、ということになります。

この項をまとめておきます。
「科学にしろ宗教にしろ、部分的ならスピリチュアルではない」
「スピリチュアリティとは、統合へのプロセスである」

■マトリョーシカのいちばん外側の状態

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「マトリョーシカ人形」というロシアの伝統民芸品があります。大きな人形の中に小さな人形が何層にも入れ子状態になっているものです。
私たちは通常、マトリョーシカを外側から眺めますが、いちばん内側のいちばん小さい人形が、肉体を伴った目に見える実在としての私たちであると想像してみてください。それが自分のすべてだと思い込むこともできます。しかし、そう思い込んでいる限り、自分がどんなものの内側に存在しているのか、自分の意識がどこまで拡大するのかは気づかずにいます。「外側は自分ではない」と思い込んでいる状態です。つまり「気づかないもの=存在しないもの」になっているわけです。「科学的に証明できない現象は存在しない。あるいは客観的に観察することのできない対象は現時点で考慮の対象にする必要はない。それがこの世界の真実の姿である」と考えるなら、あなたの世界はかなり内側のマトリョーシカ状態です。
そこで、あなたが「肉体の内側に納まっている“私”が私のすべてではない」と考えたとしたら、どうでしょう。
たとえば、こんな具合です。
「私には肉体がある。しかし肉体が私のすべてではない」
「私にはエゴがある。しかしエゴが私のすべてではない」
「私には心がある。しかし心が私のすべてではない」
「私に影響を与え、私を外側から動かそうとする力がある。しかし、その力も“私”の一部だったとしたら・・・」

■高層ビルの最上階からの眺め

こんなことを想像してみてください。
あなたは高層ビルの窓拭きの仕事をしているとします。高層ビルの窓の外で、ゴンドラに乗り、ガラスを磨いています。ふと振り向くと、そこには高層ビル街のパノラマが広がっています。その気になれば、あなたは何ブロックも先で起きている出来事を目撃することもできます。それは、ビル街の交差点に佇んで信号待ちをしているときには決して見ることのできない光景です。
交差点に佇んでいるあなたは昨日のあなたで、高みから下を見下ろしているのは今日のあなたです。昨日のあなたと今日のあなたはほとんど変わらないあなたですが、違うのは「視点」です。その気になれば、いつでもあなたはビルの上に昇ることができます。
ただし、この高層ビルには、一階ずつ順番に昇るしかありません。階をはしょることはできません。一階ずつ昇れば、その分確実に見える景色は変わります。
さて、あなたはいつからそのビルに昇り始めますか?

マトリョーシカのたとえに戻りますが、あなたがいちばん内側のマトリョーシカの状態でいる限り、ビル街の交差点に佇んでいる状態です。一方、あなたがもしいちばん外側のマトリョーシカの状態になったら、非常に眺めのいい状態になり、自分の内側に何層のマトリョーシカがいるのか(ビルの一階ずつがどんなものか)知っています。それと同時に、自分と外側の世界との関係もわかるでしょう。
やや先走って言ってしまえば、マトリョーシカのいちばん外側、高層ビルの最上階が人間の意識の終着点ではありません。マトリョーシカを取り囲む世界全体、高層ビルを含む街全体と一体化することもできるのです。もしあなたがそうなったら、あなたの意識は高層ビルの最上階と何ブロックも先の出来事との間を往来するかもしれませんし、その出来事の「内面(深層)」に入り込むかもしれません。

この項をまとめておきます。
「人は、マトリョーシカのいちばん内側から外側へ、高層ビルの一階から最上階へ、段階を踏んで意識を拡大させていく」

今回はとりあえず、真のスピリチュアリティにかんする基本認識について、その基本中の基本の部分をお伝えしました。
次回は、さらにこの続きをお伝えします。

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