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モルモットの尊厳と逆襲

■「夢学」に対する私の覚悟

今回は、極めて個人的な事情から始めさせていただきたいと思う。
私は今、猛烈に腹を立てている。いや、この怒りは今に始まったことではない。おそらく、物心ついたその瞬間から、無意識の中ではすでにそれがスタートしていたと思われる。長じるにつれ、その根源的な怒りは、徐々に医者や医療従事者と呼ばれる人間たちに向かうようになっていった。
物心ついて以来、私の人生は、わけのわからない体調不良に悩まされ続ける日々だった。子供の頃は、週末というと高熱を出し、かかりつけの医者に「うちは週末は休診なんだけどね」などと皮肉を言われつつ診察してもらう、というあり様だった。その後、いやというほどの持病を抱え、現在でもそれが続いている。その根本的な原因と思われるものについて、私は「いじめ現象の全貌と脱却戦略」という本のなかで、そのほんのさわりの部分だけ書いた。

今まで、どれだけの医者や医療従事者とつき合ってきただろう。お断りしておくが、つき合っていただいたのではない。私が彼らと丹念に辛抱強くつき合ったのだ。しかし、ただの一度として、「この人になら、自分の命を託してもいいかな」と思える医者とは巡り合ったためしがない。むしろ、傲慢で、上から目線で、独善的で、ろくに医療のことを(つまり患者のことを)知りもしない医者がほとんどだった。どれほど胸ぐらをつかんで殴り倒してやろうと思ったことか。そうした医者たちから、私はどれだけ人間としての「尊厳」を傷つけられてきただろう。そのいちいちについて、ここでは詳しく触れないが、そのあたりの事情を、私は「コズミック・スピリット」という小説に書いた。
当然のごとく、私は折り紙付きの「医者嫌い」である。私は、彼らに「悪意」があるとは思わない。しかし、いつどこで何が起きようと、問題の根本的な原因は「無知」である。「知らない」ということが、もっともタチの悪い罪悪なのだ。私たちは、このことを肝に銘じておく必要がある。

ここで、話を先に進めるにあたり、医者や医療従事者だけでなく、カウンセラー、セラピスト、研究者、教育者など、つまり医学だけでなく、心理学、精神医学、教育学など、自分の専門的な知識や技術を提供することを生業とする人たちを、便宜上「ドナー(提供者)」と呼んでおこう。そして、患者、クライアント、被検者、生徒、被施術者など、そうした専門的知識や技術を施される立場の人たちを、「レシピエント(受容者)」と呼ぶことにしよう。

さて、私は今、「インテグラル夢学」という新しい学問分野を創始しようとしている。しかし、私は特定の心理学分野や夢学分野の専門家でも何でもない。むしろ私は特定の専門分野を持たないと決めている。
しいて言うなら、レシピエントであることが、私の唯一の専門分野だ。自分の半生を振り返ったとき、誰にも負けないだけ、人一倍こだわり、丹念につき合い、探究し、深めてきたことがあるとしたら、それは自分の夢とのつき合いだ。夢という現象に対しても、私は誰よりも有能な「レシピエント」であり続けたと自負している。だから私は、夢学に関しても「レシピエント」に徹しようと決めている。そういう意味で、私はプロの「ドリーマー」である。何なら自分を「マスター・ドリーマー」と呼ぶことも厭わない。
だから私は、夢学の臨床現場・研究現場において、ドナーになるつもりはない。むしろレシピエントの立場に徹したいと思っている。いわばプロの「レシピエント」だ。その立場から、少しでも臨床現場や研究現場の改善になれば、という思いで、この「インテグラル夢学」という新しい専門分野の理論化・体系化を思い立った。この理論は、夢臨床あるいは夢研究の現場を「超・啓蒙主義」化するためのツールであると言える。夢学は、臨床や研究の現場において、レシピエントの夢をひとつでも扱う可能性があるあらゆるドナーにとっての必修科目であると、私は考えている。夢学を志す者は、私から多くを学ぶだろう。
夢学への貢献のためなら、私は喜んで自分の夢を供物として差し出そう。ただし、いや、だからこそ、プロのドリーマー、プロのレシピエントとして、その貴重な供物をいい加減に(啓蒙主義的に)扱うドナーがいたなら、つまり、「無知」であるがゆえの罪を犯そうとしている(犯している)ドナーがいたなら、私は決然と、容赦なく鉄槌を下すつもりだ。

■モルモットの尊厳

さて、ここで「モルモットの尊厳」という話をしておきたい。
この21世紀の現代に生きる私たちは、どのみち中途半端に発展してきた医療や心理療法やセラピーの「モルモット」にされていることは否定しようがない。いや、現代に限らず、いつの時代にも、科学や学問の発展の裏には、それに協力し、場合によっては被害を受けたり命を落としたりした「名もなき功労者」たちがいたはずだ。
私が「無知」に対して鉄槌を下そうとするのは、そのことによって、いつ誰の尊厳が傷つけられるかわからないからだ。実は、いちばん尊厳を傷つけられるのは「夢」である。
トラブルの「芽」は、早いうちに摘んでおくのが、私の主義だ。
ちなみに、わが師で、ドリームワークの臨床現場に長く携わるO先生のもとには、カウンセラーなどから「マインドレイプ」を受けたと主張するクライアントが時々訪れるという。
こういう立場の人たちは、いわば「声なき大衆(サイレント・マジョリティー)」である。施しを受ける側であり、弱い立場である。だから私は徹底的に弱者の立場に立とうと思う。有名無実な専門家になるくらいなら、「名もなき功労者」の立場に立とうと思う。もっとも扱いにくく、口うるさく、生意気で手ごわい素人で、意識の上ではドナーよりも一歩も二歩も先を行くレシピエントであり続けてやろうと思っている。それが、いわば「啓蒙主義」的カン違いによって、偏狭で硬直し、すっかりバランスを崩しているこの手の分野に対する、私なりのバランスのとり方である。

この手の分野が、いかにバランスを崩しているか、一例を示そう。
新型コロナウイルスの世界的パンデミックのなかで、全世界の人々をモルモットにして、効果も安全性も疑わしい新規開発のワクチンをめぐって、大規模な「人体実験」が行われていると聞いて、いまさら驚くほど、あなたは「うぶ」ではあるまい。
たとえば、次のような資料をつぶさに検討するなら、よくも悪くも、日本の行政府が新型コロナ・ワクチンについてどう考えているのかが端的にわかる。

第17回厚生科学審議会予防接種・ワクチン分科会 資料3(2020年10月2日)(新型コロナ)ワクチンの有効性・安全性と副反応のとらえ方について
https://www.mhlw.go.jp/content/10601000/000680224.pdf

この資料の要点はこうだ。
〇このワクチンの「感染予防」効果は、「実証が難しい」。この「ワクチンで感染が防げるかどうかは、分からない」。
〇このワクチンによって「集団免疫」効果が得られるかは、「大規模な接種後まで分からない」。
〇このワクチンによって抗体ができるだろうことは一定の評価ができるが、発症予防効果、重症化予防効果、免疫の持続期間については「不明」。

ワクチンの安全性についても、決め手となることは、この資料にはいっさい記載されていない。
結局のところ、この資料が言いたいことはこうだ。
ワクチンの真の有効性・安全性は、現実社会において実際に広く活用し、いい面も悪い面も出揃った段階にならないと評価できない(ワクチン導入の結果どうなるかは、導入してみない限りわからない)。
こういう代物に対して、我が国の行政府は認可を出したのだ。

※この資料に関する詳細な分析をお読みになりたい方は↓
シリーズ「新型コロナ」その48:ワクチンは本当に「切り札」か?
https://note.com/anthonyk/n/nd4b237877256?magazine_key=m5ca426717c20

これを、「一般市民をモルモットにした大規模な人体実験」と呼ばずして、何と呼べばいいのだろう。モルモットにされる私たち一般市民は、覚悟を決めなければならないと同時に、「モルモットの尊厳」を主張する権利を持つはずだ。
もしワクチン接種会場の担当医が、こちらの質問に対して、納得のいく説明をしなかったり、答えをごまかしたりしたなら、私たちには「モルモットの尊厳」を振りかざす権利がある。

さて、バランスが崩れている、という話に戻ろう。
何がどうバランスが崩れているのかを正しく認識するには、シーソーゲームの一方の端に何が乗っていて、もう一方の端に何が乗っているのかを、まず認識する必要がある。本来は、一方の端にドナーが乗っていて、もう一方の端にレシピエントが乗っていて、この両者のバランスがどうなっているかを検討する必要がある。ところが今の日本のコロナ対策の現状を見るなら、政府と専門分科会の対立(バランスの欠如)が問題の中心のようだ。つまり、ドナー同士の対立の構図なのだ。シーソーの両端に乗っているのは、どちらもドナーである。本来一方の端に乗るべきレシピエントである私たち一般市民は、すっかり観客席に追いやられ、プレイフィールドに降りることさえできない。そのくせ、このゲームの結果からいちばん影響を受けるのは、ゲームに参加してすらいない私たちスタンドの観客たちである。どちらのドナーも、本来はレシピエントの代理人のはずだが・・・。この代理戦争は、依頼者を完全に無視して暴走している。
これ以上、ここではウイルスやワクチンの話をする気はない。

■モルモットの逆襲

私は自分の怒りを抑え込まないようにしようと決めた。むしろ、いかなる制限もつけずに解放してやろうと決めた。ただし、私はその解放作業に感情だけを駆使しない。理性、知性、論理性、イマジネーション、ヴィジョン、そして霊性・・・ありとあらゆる知的営みと言われるものを駆使して、この作業を貫こうと思う。
おのれの全身全霊をかけ、胸を張って事態を上から見下ろし、王のように振る舞い、ドナーとレシピエントの物語において、レシピエントこそが「主役」なのだということを、ドナーたちに思い知らせるつもりだ。
これがモルモットの尊厳だ。ここからモルモットの尊厳を込めた逆襲が始まるのだ。

ドナーたちに物申す。
あなたたちの仕事はモルモットがいなかったら、一日として成り立つだろうか?
あなたたちは、一度でも「モルモットの尊厳」について考えたことがあるだろうか。
あなたたちは、一度でも自分がモルモットの立場に立ったことがあるだろうか。

私は、「インテグラル夢学」概論編のゾーン7の方法論の説明において、夢や睡眠に関する研究者が一度は被検者になってみることを要請した。
ゾーン7とは、次のような方法論である。

〇ゾーン7:三人称複数(それら)の外面を、内側の視点(一人称)で見る方法論(社会的オートポイエーシスなど)

少なくともドリームカウンセラーを目指そうとする人は、自分自身もドリーマーでなければならないと、すでに何度も強調してきた。
それと同じ理由で、特に私は、夢や睡眠に関する右上象限(物質的、客観的、個的外面に関する分野)の研究者に対しても、一度は自分が被検者になってみることを強く要請したい。これをやるとやらないでは、研究者本人の意識の持ち方が全然違ったものになるはずだ。まず、実験・研究をめぐる環境整備(右下象限:社会的、制度的、集団的外面に関する分野)の点で、被検者の立場に立って(内側の視点で)、問題点を見出し、改善のきっかけになるだろう。もちろん、実験や調査のやり方そのものに関しても、同様の問題点の洗い出しと改善につながるはずだ。これこそゾーン7の方法論の出発点だ。

モルモットの視点、レシピエントの視点に立たなければ、決して認識することのできない大切なことがある。
臨床や研究の現場は、レシピエントとともに作っているのであって、むしろレシピエントこそがこの物語の「主役」である。
私は断言しよう。
この視点を持たない者は、いかなるドナーにもなる資格はない。

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