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シリーズ「ヤル気を伸ばす」(その14):「統合」と「発達」の関係

■統合:ルールを含んで超える

今回は、「統合」と「発達」の関係について深めてみます。
ここでは、「発達」「成長」「(意識の)進化」といった言い方をしますが、これらはすべて同義語だと思ってください。簡単に言うなら、子どもが大人になり、大人が「超・大人」になるプロセス、ということです。これはもちろん生涯を通したプロセスです。
「統合」とは、簡単に言うと、「自己」が発達するときに、何度でも起きることになる内在化のプロセスです。内在化のプロセスは統合のプロセスでもあるわけです。
統合は、段階を踏んで、階層的に連続して起きます。このシリーズその8でもご説明した通り、統合とは基本的に弁証法的な動きです。弁証法的な動きが連続して起きるということは、そのたびに「自己」は新たに一回り大きくなる(進化する)ということです。つまり、「より狭く、低く、浅い」意識から、「より広く、高く、深い」意識に変容するということです。チョウはサナギより圧倒的に視野が広いということです。

この連続する弁証法を言い換えるなら、分裂していた二つのものがひとつになることを繰り返し経験することです。
たとえばあなたが社会的ルールを守る自分と守らない自分とに分裂しているなら、守るか守らないかのどちらかに偏るのではなく、守るべきルールはきちんと自分の意思で守り、守るべきではない(もはや通用しない)ルールに関しては、通用しなくなった理由を自分できちんと判断し、必要ならそのルールを含んで超える新しいルールを自分で創出する、ということです。
言い換えるなら、統合とは、自分がルールの「外」に出るということです。ルールの外に自分があり、ルールは自分の一部であり、ルールを含んで超えた存在である自分が、ルールを自由意思で守っている、という状態です。ルールに自分が振り回されているのではなく、自分がルールを使いこなしている、ということです。
反対に、「ルールの中に自分がいる」という状態は、ルールを自主的に守るのではなく、ルールに縛られ、ルールに依存し、ルールを自己の存在条件とし、それと同一化し(「ルールこそが私です」)、ルールが自分の一部なのではなく自分がルールの一部に成り下がっている(「ルールなくして私なし」)状態です。ルールに反抗しようが、絶対的に服従しようが、この事情に変わりはありません。
あなたがルールと「同一化」してしまっている状態から「脱同一化」し、つまりルールの外に出て、ルールを自分の内側に含んで超えるなら、ルールと同一化していたときより広く、高く、深い意識を獲得したことにほかなりません。チョウが羽ばたき、サナギのときの自分の居場所だった葉っぱを、上から俯瞰で眺めるようなものです。これこそが発達です。

もちろん、統制的なやり方は真の発達をもたらしはしません。むしろ発達の阻害要因になり、発達に対する不適応状態をもたらしたりします。場合によっては発達の逆方向である退化や退行をもたらしもします。
ただ、お断りしておきますが、確かに統制的なやり方は発達を妨げ、場合によってはチョウに変容できずにサナギの状態にとどまるようなことも起きますが、全人格的にこのような停滞や退行が起きるわけではありません。人間の発達プロセスはそれほど単純なものではありません。
これは後に詳しく触れますが、ウィルバーによると、人間の発達プロセスには、少なくとも8段階ぐらいの「レベル」(階層構造)と、10種類ぐらいの「ライン」(登山の異なるルートのようなもので、「多重知能」と呼ばれるもの)と、4~5種類ぐらいの「ステート」(意識の状態)があるといいます。つまり、全プロセスでいえば、「8レベル×10ライン×5ステート=400」で、400種類ぐらいのプロセスが、同時に、あるいはさみだれ式に動いていることになります。
このシリーズその10で6種類の気質をご紹介し、シリーズその12では、複数の気質が混在するケースもご紹介しましたが、このようないわば人格的なバラつきが出るのは、こうした複雑な背景があるからです。
シリーズその8でもご説明しましたが、統合(弁証法)の動きには、大きくわけて横方向の細かい動きと、縦方向の大きな動きがあります。
細かい動きは年中起きると言えますし、大きい縦方向の動きは10年・20年に一度は起きるだろうと言えます。大きい動きはサナギがチョウになるぐらいはっきりした変容を伴います。
上記で計算した400種類というのは、単純に言うとこの大き目の統合(弁証法)の動きです。ただし、すべての人がこの回数を経験するわけではありません。また、複数の葛藤を同時に抱えているような場合、一回の動きで複数種類の統合がいっぺんに起きるようなケースもあり得るでしょう。したがって、この数字は、理論上あり得る最大値ということです。
統合の種類や回数、統合前と統合後の違いなどについては、また改めて詳しく取り上げたいと思います。
混乱するといけないので、今はまだ全体的な話にとどめておきます。

■「統合」することの難しさ

統合に関して全体的な話をするなら、それはまず、大きな葛藤を伴うものである、ということです。統合に葛藤が伴うとはどういうことかというと、それまで揺らがなかったある信念が、あることをきっかけに揺らぎ、より大きな規範へと自己の構造を組み立て直すことを迫られる、といったことです。
たとえば、「女性よりも男性の方が常に優秀である」と信じ込んでいる人が、「男性と女性とは、それぞれ性差があるものの、どちらがどちらよりも常に優秀であるということはあり得ない。それぞれの個性や能力や人間性を見ることが重要である」というところまで考えを深める必要性に迫られることを想像してみてください。この二つの規範の間には大きな構造的な変革があることがわかるはずです。
同じように、たとえば「LGBTの人たちは病気である。生物学的に間違っており、人間として、生物としての生産性を著しく阻害する存在である」と考えている人が、「いや、そうではない。LGBTの人たちにとっての生産性というものが確実にある。そもそも人間とは有機体としてだけ存在しているわけではない。人間から有機体の部分を取り除いて、なお後に残るものこそが存在価値である」というところまで、高度に存在論的な考えを獲得することを想像してみてください。
あるいはこうです。「私が抱いている信仰こそが唯一絶対の真実であり、正しい規範である。別の信念体系は異端であり、罰当たりであり、愚かであり、下等である」と信じ込んでいる人が、「いや、そうではない。私が信じてきたものは唯一絶対ではない。いい面、正しい面もあるが、むしろ欠陥だらけだ。世界中の人がこの信念に凝り固まってしまうことこそ恐ろしいことである」というところまで心変わりすることを想像してみてください。
ここまでいかないと統合とは言えません。
まさに、それまでの信念体系にほんのわずかな揺らぎが生じ、いわばペルソナとは真逆のシャドーの存在が意識にチラチラし始める段階こそが、統合への最初の一歩です。
それは、男性優位主義者が、「もしかしたら、男性が女性よりも常に優秀であるとは限らないのかもしれない」と思う瞬間であり、場合によっては「確かに自分の中にも女々しい部分がある」と認める瞬間です。
あるいは、性的マイノリティー完全否定の人が、「性的に多数派と少数派が存在すること自体に、何か人間としての大きな意味があるというのだろうか」と疑問を抱く瞬間であり、場合によっては「確かに自分の中にも同性に惹かれる部分がある」と認める瞬間です。
あるいはまた、特定の宗教の熱心な信者が、「自分のこの絶対的信仰は、他の人から見ると欠陥だらけの未熟な考えに見えるというのだろうか」と信念に翳りが差す瞬間であり、場合によっては「確かに異端と言われる人たちの考えに少しなびく自分もいる」と認めることです。
もちろんそれは大きな葛藤を伴います。これだけでも自己の存在の根底をゆるがすものです。しかし、それこそが統合への第一歩であり、第一歩にすぎないのです。
それはまさに、「ペルソナ=自己の全体像」(ペルソナに同一化している)という状態から、自己が一歩抜け出して、ペルソナが相対化し始めることを意味します。
「ペルソナ=自己の全体像」だと思い込んでいた人が、「ペルソナではない私」の可能性を示されることで、存在の根底に揺らぎが生じるわけですが、だからといって「そうではない私」に完全に同一化することもできません。だからこそ「そうである私」と「そうではない私」の間で葛藤が生じるわけです。この「あちらを立てれば、こちらが立たず」の状態から脱却するには、どちらかを選択してどちらかを捨てるのではなく、両方を成立させる第三の立場を獲得するしかないわけです。

■「統合=内在化」の6つのステップ

ではここで、この第一歩を含めた、統合へのプロセスを概観しておきましょう。このプロセスは、このシリーズその9『「統合」への6つのステップ』ですでに示したものですが、社会的なルールや規範を統合(内在化)するプロセスとして、改めて見てみましょう。
今回は、ステップ0からスタートしてみます。

0「外側に見せている社会的な私(ペルソナ)が本来の私であり、私のすべてだ」(外面的な自己への同一化)
1.今いる階への「固着(同一化)」状態から、ひとつ上の階の構造が意識内に浮上する。
→「でも、本当にそうだろうか。何か違う気がする。なぜなら、私はこんな自分がイヤだからだ。今の自分が苦しいからだ」(同一化からの脱却の兆し)
2.今いる階に同一化していた自己は、その階からの分化ないし差異化を始める。
→「そうだ、本来の自分はこれではない。明らかに、外面的な自分と対立する内面的な自分も存在する。私はそこに焦点を当てる」(差異化)
3.自己は今いる階(構造)から脱同一化し、本質的なアイデンティティをひとつ上の構造へと移行させる。
→「結局、外面的な自分(ペルソナ)も内面的な自分(シャドー)も両方自分である。私は両方に焦点を当ててみる」(脱同一化)
4.それによって、意識は今までの下位構造を含んで超える。
→「外面と内面の両方に焦点を当てている自分がいるなら、それこそが本来の自分のはずだ」(上位自己への同一化)
5.新しく上がった階(構造-レベル)から、下の階の構造に働きかけられるようになる。
→「外面と内面の両方に焦点を当てている自分こそが本来の自分である。その本来の自分が、外面と内面の両方の自分をコントロールしている」(二元性の超越)
6.下のすべての階(構造-レベル)が意識に統合される。
→「一口に外面と内面と言っても、それらは単純な二項対立ではなく、もっと複雑に変化し、あるいは層を成している。私はそのような過程を経て今まで成長してきた。それらの層がすべて私の内側に包含されている。これが人間の摂理ならば、これからも私はより上位の段階へ成長するだろう」(統合=部分を超えて含む)

このシリーズその12で、「エイジェンシー」と「コミュニオン」という概念をご紹介しました。「エイジェンシー」とは「自律性」のことで、「コミュニオン」とは「協調性」のことです。この二つの性向は、人間の根源的な二元性でもあります。そういう意味では、「ペルソナ」は「社会的な顔」ですから、どちらかというと「コミュニオン」と深くかかわっているでしょうし、「シャドー」は「内面的な顔」ですから、どちらかというと「エイジェンシー」とかかわっているでしょう。つまり、あらゆる葛藤の根源にあるのは、エイジェンシーとコミュニオンの二元性であり、統合とはまさにエイジェンシーとコミュニオンの間の弁証法であると言えます。

■意識の無限自己言及性

もうひとつ、上記6つのプロセスに共通して言えることは、変化していく自分と、そういう自分に焦点を当て続ける自分の両方が存在することです。言い換えるなら、エイジェンシーとコミュニオンが統合されることで、新たな、より大きな規模のエイジェンシーが獲得される、ということでもあります。

「私は、自分で自分に疑問を抱き、何か違うと感じ、自己否定的になり、そんな自分に嫌気がさし、そんな自分が苦しくなり、そこから抜け出したいと思い、それでもそんな自分にしがみつこうとし、またそんな自分がイヤになり、またそんな自分から脱却しようともがき、そんなことを繰り返している自分を客観的に観察している自分もいる。
揺れ動き、変化していく自分と、それを客観的に見ている自分、どちらが本当の自分だろうか。そのような異なる二人の自分をさらに認識している自分もいる。そのように客観的に見ている自分をさらに見ている自分もいる・・・」

人間の意識には、このように自分について無限に自己言及し続ける性質が本来的に備わっていると、私は考えています。これを私は「意識の無限自己言及性」と呼んでいます。
これは、自己分裂ではなく、むしろ統合へ向かうための推進力だと、私は考えています。
向かい合った鏡の間に自分がいる姿を想像してください。自分の正面の鏡には、背後の鏡に映った自分と周囲の風景が映し出されています。その鏡像にはさらに、正面の鏡に映し出された自分と周囲の風景とが背面の鏡に映し出された鏡像が映し出されています。どちらの鏡にも、自分を含む実際の風景とその鏡像が無限に「入れ子」になった映像が映し出されているわけです。これこそまさに「無限自己言及性」のイメージです。
二つの「極」の間で葛藤している自分を客観的に見ている自分とは、まさに自分が内包している一回り小さな自己を、一回り大きな自己が見ている状態にほかなりません。そのとき一回り大きな自己は葛藤しているでしょうか。いいえ、葛藤の「外」にいるはずです。その「葛藤の外にいる自己」こそが、統合を推進する主体であると言っていいでしょう。
人はなぜ、このように自己に対して無限に言及し続けなければならないのでしょうか。
コミュニオンとは、周りの環境に対する関係性です。これを止めるわけにはいきません。この世に生きている間続くものです。しかし、あるとき現状のコミュニオンが限界を迎える瞬間がやってきます。サナギがチョウになるには、「葉っぱの下」というサナギにとってのコミュニオンから卒業する瞬間が必ずやってくるのです。つまり、サナギにとっての「環境」と、チョウにとっての「環境」とは、同じ環境でも意味合い(あるいは規模)がまったく異なるということでもあります。そのような新たな、一段階上のコミュニオンを獲得するために、サナギのエイジェンシーからチョウのエイジェンシーへと変容する必要があるわけです。言い換えるなら、今あるコミュニオンからの卒業の必要性が、新たなエイジェンシーの出現を予感させるのです。チョウのエイジェンシーは、今現在の自分を見ているし、かつてサナギだった自分も見ているし、これから自分が飛んでいこうとする先も見ているのです。ここで言う「チョウが見据える先」とは、チョウにとってのコミュニオンに限界が訪れ、それによって、喩えるならチョウが鳥のエイジェンシーを獲得することを促される、といったことです。これは、サナギのエイジェンシーであるうちは決して経験し得ないことです。サナギの段階でイメージできるのは、せいぜいチョウのエイジェンシーでしょう。
あらゆる葛藤の根源にあるのは、エイジェンシーとコミュニオンの二元性であると申し上げましたが、成長・発達とは、まさにエイジェンシーとコミュニオンの間に、規模をどんどん大きくするかたちで次々に起きる弁証法的統合の連続であると言えるわけです。
したがって、想像がつくと思いますが、人間的成長の極限、究極にして最終的な統合とは、あらゆるエイジェンシーとあらゆるコミュニオンがひとつに統合され、この二元性そのものが完全に解消される(もはや統合すべきいかなる二元性も存在しない)瞬間ということです。そこでは、「我と汝」の区別も、「私と世界」の区別もなくなるということであり、完全なる「超個(トランスパーソナル)」状態が出現する、ということでもあります。お好みなら、「全なるもの(神)との一体化」と言ってもかまいません。
つまり、人間の成長・発達とは、この完全なる「超個」状態に至るまで、統合に継ぐ統合を繰り返すことにほかなりません。それはまさに、「自己」という構造の「再組織化」と言ってもいいプロセスであり、そのたびに人は解放され、より自由になっていくのです。

■むやみに人を褒めることの落とし穴

話がやや先走ったので、もとに戻しましょう。
残念なことではありますが、私の見る限り、この世界はサナギがチョウになることを妨げる要因に満ち溢れています。エイジェンシー(自律性)の発揮を促進する目的で語られているはずの文脈にさえ、その阻害要因が隠されていることもしばしばです。
たとえば、子育て本や自己啓発本の類には、否定的な感情を極端に排し、自己肯定感だけを礼賛する内容のものや、「とにかく人は褒めて伸ばせ」といった単純なノウハウを奨励するものが多く見受けられます。しかし、ペルソナに同一化している状態に対して無条件に自己肯定しているとしたら、それは「取り入れ」を肯定していることにほかなりません。この状態では、ペルソナの反対であるシャドーが意識されてさえいないので、葛藤が起きる以前の状態です。この状態が続けば、結局のところ軍人気質や革命家気質や山師気質やシンデレラ気質が助長され、職人気質や商人気質(つまり自律性)はいっこうに育たないことになります。言い換えるなら、何の疑問も抱かずに統制されている状態ということです。
デシ博士も次のように述べています。

「ベストセラーの類には、高い自尊感情を絶賛するものが無数にあるが、それらは真の自尊感情と随伴的な自尊感情とを区別していないため、その効能は疑わしい。ベストセラーの著者たちは、親や教師や友人に、他者を賞賛してあげよう(どんなによい人であるか本人に気づかせてあげよう)とアドバイスする。もちろん、その人が相手の価値を認めているということを相手に伝えるのはりっぱなことだが、相手をほめればそうしているということにはならない。実際、もしそのほめことばが随伴的に与えられれば、正反対の結果をもたらすかもしれないのである。」

人を伸ばす力

今の日本の家庭環境や教育現場や企業の実情を見てみるなら、人よりもよい成績や業績を上げたら賞賛され、上げなかったら減点されるか、ペナルティが与えられるか、よくても無視される、というのが人間の扱い方として常識化していないでしょうか。これを「統制的(随伴的)な肯定的関心」と呼びます。つまり「あなたがもし~なら、あなたに肯定的な関心を寄せます」という意味です。
一方、学習や仕事のやり方に充分な選択の余地が与えられ、成績の向上は賞賛されるものの、それは兄弟やクラスメイトや社員との比較ではなく、成績が振るわなかったら、人格や能力を否定するのでなく、共通の問題としてともに解決していこうという風土があり(これこそまさに課題関与)、「アメとムチ」の使い分けではなく、その人の存在そのものを肯定し感謝する報奨制度が文化としてあるならどうでしょう。これを「非随伴的な肯定的関心」と呼びます。つまり「たとえあなたが~でも、あなたに肯定的な関心を寄せます」ということです。
今の日本に、このような文化風土や制度がある学校や企業がどれだけ存在するでしょう。

デシ博士は言っています。

「われわれは、今生きているという事実そのものによって価値がある。しかし、賞賛は通常それとは異なる。それは典型的には、試験でAをとった、野菜を全部食べた、部屋を掃除した、などに随伴して与えられる。そこに隠されているメッセージは、もし目標に到達できなかったらあなたには価値がない、ということなのである。
 賞賛は、真の自尊感情ではなく随伴的な自尊感情を育てる危険性をはらんでいる。またそのプロセスの中では、人を賞賛に依存させるような統制的な精神力動過程が強まっていく。すると彼らは、より多くの賞賛を得、それによって自分に価値があると思いたいがために行動するようになる。だがそれは、束の間の感覚にすぎない。そしてそのような行動をすることで、彼らの自律性はさらに蝕まれていく。」

人を伸ばす力

マザー・テレサがこんなことを言っています。

「愛の反対は憎しみではありません。愛の反対は無関心です」


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