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ウィルバー理論解題(その4):「ホロン」~そもそもの発端

さて、前回ウィルバー理論の概論の概論(全体のオリエンテーション)を示した。
今回から「概論の各論」になっていく。
まずは、ウィルバー理論のそもそもの発端になった「ホロン」という概念から。
なぜウィルバーが「ホロン」という概念を、自らの思想・哲学の根本概念としてもってきたかというと、おそらくこの概念によって、私たちが今まで抱いてきたであろう常識や固定概念といったものが、ことごとく転換を迫られるからだろう。この概念によって、私たちがこの現象世界に対して抱いてきた信念や漠然としたイメージが根底から覆されるかもしれないのだ。
したがって、注意が必要なのは、この概念に下手に触れると、場合によっては拒否(アレルギー)反応を起こしたり、逆に無批判に「鵜呑み」にしてしまったりするかもしれない、ということだ。特に、前回も書いたが、相変わらず「モダニズム(近代思想)」のレベルにとどまっていたり、「ポスト・モダニズム」に甘んじていて、ウィルバーのように「トランス・モダニズム」というところにはまだ手が届いていない考え方の持ち主には、受け入れ難い部分もあるかもしれない。
私たちは、そうしたことに慎重になりながら、この概念にアプローチする必要があるだろう。
これを前置きとして、話を始めよう。

■万物の理論としての「ホロン」

アインシュタインもそうだし、スティーヴン・ホーキングもそうだし、他のあらゆる物理学者もそうだろうと思うが、素粒子から宇宙に至るまで、この世のありとあらゆる物理法則を統合する理論を日々追い求めているだろう。
「そもそも、物質とはどのように成り立っているのか?」
しかしそれはいまだに見つかっていない。全ての物理現象のうち、観測できているのは全体の3~4%にすぎないとする説もある。だとすれば、いかなる物理学的統合理論も「還元論」にすぎないことになる。つまり、一本の木に通用する理論をもって、森全体(いや、宇宙全体)に通用するはずだと主張している、ということだ。顕微鏡と望遠鏡を覗いて確認できる範囲をもって、やれミクロだ、やれマクロだ、と言っているわけだ。顕現世界だけを見てもその調子なのだ。ましてや、非顕現世界(人間の心や霊的領域など)はわからないことだらけだろう。人間は、その程度の認識で偉そうな顔をしているのである。

ウィルバーは、研究対象を物理法則に限定していない。ウィルバーが「コスモス」と言うとき(ピュタゴラス学派がそうしたように、あえて「Cosmos」ではなく「Kosmos」と綴っているが)、それは物質圏だけを意味していない。生命圏、心圏、神圏も、すべてを含んでいる。つまり、外面的な世界も人間の内面世界も、ミクロもマクロも、目に見える世界も見えない世界も含めて「コスモス」と呼び、そのコスモス全体(物理学も、生物学も、社会学も、心理学も、人類学も、宗教学も、神智学も、すべての分野)に通用する「万物の理論」を追い求めている。おそらくそのいちばんの骨格の部分は、すでに構築している。細かい肉付けの部分に異議を唱える人間はいても、骨格の部分に反論できる人間はいないようだ。
ただし、ウィルバーは間違っても、物質圏の研究によって得られた知見だけをもって、たとえば心圏に関する事象を説明しようとするような極端な還元論に陥ったりしない。むしろウィルバーは、物質圏や生命圏にのみ通用する言葉で心圏に属する現象も説明してしまおう、という還元論的な試み(ウィルバーはこれを「惨めに失敗してしまう」致命的な誤りだと断言する)を是正するために、ホロンという概念を導入しているとも言える。それは「モダニズム」から「トランス・モダニズム」への道筋でもあるだろう。

このシリーズでもすでに触れたが、ウィルバーは、ありとあらゆる学問分野の最先端の成果を集め、その個々バラバラだが、単独では合意を得ている様々な理論(数珠玉)を結び合わせて一本の数珠を完成させる「糸」は何かを考え、ついにそれを探り当てた。
そう、あらゆる数珠玉に通すことのできる糸はあるのだ。どのような糸か。それを一言で言うと「ホロン」という言葉になる。物質から心まで、森羅万象、一切衆生は、すべてホロンでできている(ホロン構造を持っている)というのだ。

「例えば、文学は素粒子で構成されているわけではない。しかし文学も素粒子もホロンで構成されているのである」(「進化の構造」より)

ここで勘違いしてはいけないことがある。この世のすべてがたったひとつのホロンでできている、ということではないのだ。
たとえば、物質の世界には物質の世界独自の構造がある。生物の世界には生物の世界独自の構造がある。人間の内面世界には内面世界独自の構造がある。個人が寄り集まって集団を形成するなら、その集団にはその集団独自の構造(あるいはプロセス)が形成される。しかし、それらの構造(あるいはプロセス)は、一言で言うならどれも「ホロン」なのである。

■この世は「部分」と「全体」に分かれてはいない

ではここで、この「ホロン」という概念に、少し慎重にアプローチしてみよう。
私たちはよく「部分と全体」という言い方をする。「部分(パーツ)が寄り集まって全体が構成される」という言い方だ。その場合の「部分(パーツ)」とは、あくまで断片にすぎず、それ単独では何の意味も機能も持ち得ない、と考える。
たとえば、ジグソーパズルのひとつのピースだけ見せられても、私たちは全体の「絵」を見ることも想像することもできない。巨大なジグソーパズルのたったひとつのピースだけを見て、完成した絵を予想するとしたら、それこそが極端な還元論である。すべてのピースが寄り集まって、パズルの土台の然るべき位置に置かれることで、私たちは初めて全体の「絵」を見ることができる。
ところが、この世界(物質圏も生命圏も心圏も神圏もすべて含め)は、このジグソーパズルのようにはできていない、というのだ。「ホロン」とは、このジグソーパズルのような意味での「部分と全体」ではない、というのだ。
簡単に言うと、完全に何かの「部分」というものはないし、完全に何かの「全体」というものもない、という。モノにしろプロセスにしろ、抽象的な概念やイメージやシンボルにしろ、すべては、部分にして全体、部分であると同時に全体、いわば「部分/全体」と表記するしかないような構造体である、というわけだ。ジグソーパズルのひとつのピースも、何かしら全体的な「絵」を描いている。その小さな個々の「絵」が寄り集まると、さらに大きな別の絵が完成し、その完成した絵もまた、もっと大きなパズルのひとつのピースである、というわけだ。
ある全体に対する「部分(パーツ)」に見えるものは、より下位に位置する「部分」にとっての「全体」になっているし、いくつもの「部分」の集合体としての「全体」に見えるものも、その「全体」がいくつも寄り集まって、さらに上位の「全体」にとっての「部分」を構成している。この階層構造を、どこまでミクロレベルに下りていこうが、どこまでマクロレベルに上がっていこうが、やはり同じ「部分/全体」という「顔」をしている。
これを「ホロン」と呼ぶ。文学(言語表現)も素粒子もこの「ホロン」でできている、という。

ウィルバーは「進化の構造」の中で、次のように述べている。

『実在/現実(リアリティ)はモノあるいはプロセスから構成されているのではない。それらはまた原子あるいはクォークから構成されているのでもない。また全体からだけ、あるいは部分からだけで構成されているのでもない。リアリティは部分/全体であるホロンから構成されているのである。
原子、細胞、シンボル、観念のどれをとってもそうである。そのどれもモノともプロセスとも、また全体とも部分であるとも言うことはできない。それらはすべて同時に部分/全体である。したがって、すべては原子であるとする原子論、すべては全体であるとする全体論(ホーリズム)はまったく的外れである。すべてはホロンであり、ホロンでないものはない(そしてそれはどこまでも上昇し、どこまでも下降する)。
原子は原子である前にホロンである。細胞は細胞である前にホロンである。観念は観念である前にホロンである。それらはすべて他の全体の一部として存在している全体である。したがってそれらは(私たちがそこにいかなる「特別な性質」を発見するずっと以前から)、最初から、最後まで全体/部分、ホロンなのである。
同じように、確かにリアリティはモノではなく、さまざまなプロセスから構成されていると言えるかも知れない。しかしそのプロセスは、それ自体、他のプロセスの一部なのである。リアリティを基本的に構成する要素がモノなのかプロセスなのかというのは、ポイントが外れている。なぜならどちらにしたところで、それらはホロンなのであり、どちらかに片寄って見ることは的を外してしまうからだ。確かにモノは存在する。またプロセスも存在する。しかしどちらもすべてホロンなのである。』

進化の構造

私たちは、たとえば「原子はクォークなどの素粒子で構成される。物質は様々な原子によって構成される。地球は様々な物質によって構成される。宇宙は様々な天体によって構成される」と、ついつい言ってしまう。
しかし、この言い方は的外れだとウィルバーは言うのだ。ならば、より正確に言うなら、こうなる?
「クォークはよりミクロな素粒子にとっての全体であると同時に原子にとっての部分である。原子はクォークにとっての全体であると同時に物質にとっての部分である。物質は原子にとっての全体であると同時に地球にとっての部分である。宇宙は天体にとっての全体であると同時にさらに大きな宇宙にとっての部分である」

■ケストラーの「ホロン」論

ちなみに、「ホロン」という概念を最初に言い出したのはウィルバーではなく、アーサー・ケストラーという哲学者である。ケストラーは、階層構造を持つ全体において、上位構造の「部分」として従属しながら、同時に準自律的な「全体」としても働く「亜全体」(sub-whole)の一単位を「ホロン」と呼んだ。つまり「ホロン」とは、ある文脈においては全体であるが、別の文脈においては部分であるような構造の一単位をいう。これはケストラーの用語だ。

ケストラーは「ホロン革命」(工作舎)の中で、こう述べている。

『「部分」は「それだけでは自律的存在とは言えない断片的で不完全なもの」を暗示する。一方「全体」は「それ自体完全でそれ以上説明を要さないもの」と考えられる。しかし深く根をおろしたこうした思考習慣に反し、絶対的な意味での「部分」や「全体」は生物の領域にも、社会組織にも、あるいは宇宙全体にも、まったく存在しない』

ホロン革命

ここで私たちは、大きな発想の転換(パラダイム・シフト)を迫られるだろう。特に、あらゆる個別の現象を統合する、つまりあらゆる個別の概念や仮説や理論を統合するたったひとつのパラダイム(学問上の規範)を追い求めていた人たちには、「そんなものはない」と言われているようなものだ。

ケストラーの説明に、もう少し慎重に耳を傾けてみよう。
この世界とは、たったひとつの「全体」とそれに従属する部分(断片)によって構成されるわけではなく、すべてのものは「部分/全体」つまり「亜全体」ないし「準全体」なのである。言い換えるなら、全体に見えるものは、より上位の何かにとっての部分であり、部分に見えるものは、より下位の何かにとっての全体である、というわけだ。
「部分にして全体」——あらゆる事象が待つこの二面性をもって、ケストラーは「ヤヌス」と呼んだ。「ヤヌス」とは二面神のことだ。過去と未来を同時に見ているとされるこのギリシャ神話の神は、実は「全体」と「部分」、あるいは「上位」と「下位」を同時に見ているのである。「全体」(上位)ないし「部分」(下位)のどちらか一方だけを見て、「これこそが絶対的真理である」と言っているような研究者は完全に足元をすくわれるだろう。

たとえば、生物は循環器系、消化器系などの「亜全体」で構成される全体である。その亜全体は器官や組織など、さらに低位の亜全体に分岐し、さらにそれらは個々の細胞に、その細胞は細胞内の小器官に、という具合に次々に分岐していく。それらの「亜全体」は、より上位の「亜全体」に従属しながらも、明らかにそれ自体に備わった「規律」に従って自律的に機能する。
どこまで上に上がろうが、より上位の構造にとっての部分であり、どこまで下に下がろうが、より下位にとっての全体である・・・この世はすべてそうした「ホロン」でできている、というわけだ。ならば、観測できるこの宇宙全体も、より上位のホロンにとっての部分であり、観測できる素粒子も、より下位のホロンにとっての全体である、ということになる。この宇宙全体を部分とするさらなる全体としての「マクロ宇宙」があり、ひとつひとつの素粒子を構成するさらにミクロな素粒子の世界がある、というわけだ。この世は青空天井と底なし沼でできている・・・。

話を戻そう。
生命体において、たとえば細胞質内のミトコンドリア(糸粒体)は、50もの異なった一連の化学反応により、滋養物からエネルギーを抽出している、いわばミニマルな発電所だ。しかも単一の細胞に、こうした発電所が5000もあるという。その活動は、上位レベルの制御によって始動したり停止したりするものの、何かのきっかけでひとたび活動を開始すれば、あとはそれ自身の規律に従うという。ミトコンドリアは細胞を正常に保つために、他の細胞内小器官と協調もするが、その一方で、たとえ周りの細胞が死にかけていようと、自身の独立性を保ちつつ自律的に活動もするという。つまり、ミトコンドリアには、周りの状況から影響を受けて、周りの状況と協調して(あるいは連動して)振る舞う性質と、周りの状況に影響されずに自律的に振る舞う性質の両方が備わっていることになる。
ミトコンドリアだけでなく、あらゆるホロンには「協調性」と「自律性」の両方の性質がある。「協調性」は「自己適応性」と呼ぶこともできる。「自律性」は「自己保存性」と言い換えることもできる。この「協調性、自己適応性」を「コミュニオン」と言う。「自律性、自己保存性」を「エージェンシー」と言う。

細胞レベルよりも少し上位のホロンで言えば、高等生物の体内に張り巡らされた神経ネットワークは、大きく分けると、命令を発する側の中枢神経と命令を受ける側の末梢神経に分かれる。さらに末梢神経は運動神経と自律神経に分かれ、自律神経はさらに交感神経と副交感神経に分かれる。そして、そのどれもが自律性と協調性の両方の性質を持つ。たとえば、脳の指令で動くはずの運動神経でさえ、ある刺激に対し脳が認識する前に反応する場合もあることが知られている。また、自律神経でさえ、感情やイメージなどとリンクしていることが知られている。
このように、生体内の主要な器官はどれも、自律的な調整機構と周りと連携するフィードバック制御機構の両方を必ず備えている。言い換えるなら、「閉鎖系」と「開放系」の両方を有しているのである。

「部分にして全体」、「エージェンシーとコミュニオンの両義性」——この二つが、ホロンの基本的性質と言えるだろう。

■進化のプロセスも「ホロン」

ここで「プロセス」の話に移ろう。
もっとも注目すべきプロセスとして「進化」のプロセスがあるだろう。ここで、現代進化論の「創発」という概念を導入したい。
たとえば、試験管の中に適当に原子を放り込んで、しばらく放置しておけば、原子を部分とする全体としての細胞(有機体)が誕生するか、というとそうはいかない。物質が有機体にまで進化するには、「創発」という現象が起きる必要がある。「創発」とは、「単なる部分の総和を超える何かが付加される」現象を言う。つまり、上位のホロンとは、下位のホロンの単なる「集合体(寄せ集め)」ではなく、下位ホロンの総和を超える何かが、構造として、あるいは性質として付加されたものである、ということだ。細胞とは、単なる原子の寄せ集めを「超える」何かが付加された「全体」なのである。この「創発」という現象によって、細胞は原子には現れない独自のエージェンシーとコミュニオンを獲得することになる。これと同じように、細胞が寄り集まってできている一個の生命体(生物)も、単なる細胞の寄せ集めには現れないエージェンシーとコミュニオンを有している。
つまり、生物は原子あるいは細胞という「要素」の単なる集合体ではなく、それらを「部分/全体」とし、そこに新たなコミュニオンとエージェンシーを獲得するかたちで進化してきたわけだ。言い換えれば、「進化」というプロセスも、ホロン構造で構成されている、というわけだ。
「全体は、部分の総和を含んで超えている」——これも、ホロンの大きな性質(特徴)のひとつである。

三位一体脳

進化のプロセスにおける「創発」という現象は、人間の脳の構造にも見出すことができる。
アメリカの神経科学者ポール・マクリーンは、20世紀中期に「三位一体脳」と呼ばれる仮説を唱えた。マクリーンは、人間の脳が、原始爬虫類の脳、古い哺乳類の脳、新しい哺乳類の脳という三つの基本的構造を保って進化したと考えた。
マクリーンが言う「原始爬虫類の脳」とは、いわゆる大脳の底部にある「基底核」のことであり、「古い哺乳類の脳」とは、その基底核を取り囲んでいる「辺縁系」(これはマクリーンの用語)のことであり、「新しい哺乳類の脳」とは、その辺縁系をさらに取り囲んでいる「新皮質」を指す。

○基底核は全身からの情報を大脳に入れる感覚神経と、その情報にしたがって全身を運動させる運動神経の経路である。
○辺縁系はさらに旧皮質と古皮質とに分かれ、旧皮質は一般に下等哺乳類型の脳といわれ、古皮質は爬虫類型の脳といわれる。これらの辺縁系は本能的な行動をはじめ情動行動、集団行動、原始的な感覚や記憶、自律機能の統合など、いわゆる人間の動物的な部分に関係している。
○新皮質は、知性、情操、意志、創造といった最も人間らしさを発する部分である。

マクリーンは、この3つの異なる脳の部位が層になっていることから、爬虫類→哺乳類→人間という具合いに進化してきたプロセスを体現するものだろうと考えた。しかし、現在では、神経ネットワーク、化学物質の分布、遺伝子レベルでの研究などが進み、進化とはこのような直線的なプロセスで起きるものではないことが証明されている。進化とは、直線的に発生するプロセスではなく、系統的(枝分かれ的)に発生するプロセスである、ということだろう。つまり、魚類には魚類の、鳥類には鳥類の、爬虫類には爬虫類の、哺乳類には哺乳類の、人間には人間の独自の進化経路がある(あった)、ということだろう。これを「系統発生」という。
しかし、問題はそこではない。
基底核を「原始爬虫類の脳」と呼び、辺縁系を「古い哺乳類の脳」と呼び、新皮質を「新しい哺乳類の脳」と呼ぶかどうかはさておき、重要な点は、人間の脳全体が、ホロン型の構造を持っている、ということだ。つまり、より高度で人間的な機能を司る部位が、より原始的な機能を司る部位を「含んで超える」かたちの階層構造になっている、という点である。
様々な「種」を擁する生物全体の進化のプロセスがどんな関係性だったかはともかく、少なくとも人間は、より原始的な状態から高度な状態へ、という方向で進化してきたのであり、それは、低位のホロンに「創発」が起きることで、より高位のホロンが発生する、というプロセスだったはずであり、そのプロセスが脳の構造に反映されていると考えることができる、という点が重要なのだ。
たとえば、胎児の大脳では新皮質、辺縁系、基底核が均等に構成されていて、発育につれ新皮質が巨大化し、それにつれて辺縁系は周辺部へ押しやられ、基底核は内側へ畳み込まれるという。
そして同時に重要なのは、それらの進化の各段階において、それぞれのホロンは独自のエージェンシーとコミュニオンを獲得したはずだ、ということである。
たとえば、心理学者のカール・プリブラムは、記憶は脳の一定の場所に局在するかたちで収納されているのではなく、偏在(分散)している可能性がある、と考えている。これは、脳がどのようなコミュニオンを獲得しているかの典型的な例ではないだろうか。脳は、様々な部位がそれぞれの役割を担っていると同時に、全体として連携しながら機能している、ということだろう。
しかも、もっと重要な点は、近年の発達心理学の成果にてらして見るなら、そうした脳進化のプロセスは、意識(つまり人間の内面)の進化のプロセスともうまく対応している(双方の進化に相関関係があるだろう)ということだ。これは、物質圏、生命圏、心圏が、ホロンという概念を用いて繋がる可能性をも示唆している。


ちなみに、受胎から誕生に至る生物学的な意味での「個体発生」のプロセスは、系統発生であるはずの生命進化のプロセスを、魚類→両生類→爬虫類→哺乳類という具合いの直線的な発生であるかのように反復している、という説もある。胎児の形態上の発達を見るなら、確かにそのように見えるのだ。

受胎後3週間ほどの人間の胎児は、おなかに卵の黄味のようなものを抱え込み、その形態は孵化したばかりの稚魚と見分けがつかない。これが5週目前後になると、約一週間の間に劇的な変化を遂げる。首の付け根のエラ孔はしだいに消え、耳たぶができてくる。ヒレのような手には五本の指が見えてくる。その表情は魚類から両性類ないし爬虫類に近いものになってくる。海から陸に上がったわけだ。「つわり」という現象は通常ここで起きる。生命がエラ呼吸から肺呼吸に変わるときの苦しみが母体に伝わるということか。そして6週目前後になると、その面影を爬虫類から原始哺乳類へと変化させる。さらに60日から90日目ぐらいの間を、哺乳類から霊長類への進化の時として過ごし、120日頃からはっきりとした人間の容貌を見せる。

脳の構造や胎児の外見的な変容のプロセスは、いったい何を反映したものなのだろう。
これは、進化を考える場合、生物学的な観点だけではどうにも説明がつかないことを物語っているのかもしれない。
ヤヌス神とは、過去と未来を見ていると考えているうちは、おそらくこの疑問には答えが出ない。ここにもし、「ホロン」という概念を導入したら、どのような説明が可能かは、議論の余地があるだろう。つまり、個体発生のプロセスとは、生命進化のプロセスを反映していると考える前に、ホロン発生のプロセスを反映しているのだ、と考えてみたらどうなるか、ということだ。

■「ガイア」仮説が間違いである理由

では、そうしたホロン的構造ないしプロセスによって進化を遂げたと思われる人間の「行動」はどうだろう。
もし人間の行動に、細胞にとっての原子(構成要素)と同じ意味での「行動子(行動の原子)」といったものがあるとしたら、そしてその行動子が寄り集まって、そうした部分の総和を超える何かが付加されるかたちで行動の進化が起きるとしたら。つまり、人間の行動もホロン構造的に進化するとしたら・・・。

人間の行動における「ホロン」を考える場合、私たちが犯しがちな間違いについて、ウィルバーが重要な指摘をしている。それは、個体(たとえば一人の人間)というホロンは、より大きな有機体の部分ホロンではない、ということだ。一人一人の人間が下位ホロンとなって、「地球」という巨大な生物が構成されているわけではないのだ。
これは、「人間とは、地球という巨大な有機体の一部である」とする、いわゆるガイア説を唱える者にとっては異議があるところだろう。しかし、この点に関して、ウィルバーは実に論理的に明快な答えを出している。
そもそも「ホロン」には明確な基本法則があって、仮に下位ホロンがすべて消滅すると、上位ホロンは存在し得なくなる。たとえば、もし仮にこの世からすべての細胞が消滅したとしたら、細胞の下位ホロンである原子は残るが、細胞の上位ホロンである生命体は存続できなくなる。もちろん、すべての物質がこの世から消滅したら、地球も宇宙も生物も消滅する。
「あるレベルのホロンが消滅すると、それより上位のホロンはすべて消滅するが、それより下位のホロンは消滅しない」——これもホロンの重要な性質のひとつだ。
この明確な法則でいうと、もし人間が地球にとっての下位ホロンだったとすると、すべての人間がこの世から消滅したら、ガイア説の提唱者にとっての人間の上位ホロンであるはずの地球も同時に消滅することになってしまう。そんなバカなことがあり得ないことは、誰が考えても明らかだろう。つまり、素粒子→原子→物質→地球というホロン構造体ではあっても、素粒子→原子→細胞→有機体→生物→地球というホロン構造体ではない、ということだ。ここで同時に注意が必要なのは、物質圏、生命圏、心圏、神圏は、同じひとつのホロン構造体ではない、ということだ。物質圏が丸ごと消滅したら、生命圏は存続し得ないかもしれないが、心圏や神圏はそうではない、ということだ。「人間の意識も心も神も、脳が作り出した幻想にすぎない」とする唯物論者は、これには異議を唱えるだろうが・・・。
この点に関して、ここではこれ以上議論を深めないが、これだけは言っておくと、この唯物論的発想をいかに超えるかが、「モダニズム」から「トランス・モダニズム」へのひとつの大きな課題であると言える。

※人間の意識を唯物論的に捉えることの危うさについて、さらに突っ込んで知りたい、という方には、次の記事をお薦めする。
○AKのスピリチュアル講座6:還元論・唯物論の正体
https://note.com/anthonyk/n/ndf3b388904e3?magazine_key=m4ed9a691b8f5
○AKのスピリチュアル講座7:還元論・唯物論は「錬金術」?
https://note.com/anthonyk/n/n8d7215ccba4e?magazine_key=m4ed9a691b8f5
○AKのスピリチュアル講座8:還元論・唯物論を超えて
https://note.com/anthonyk/n/nb3065eca006b?magazine_key=m4ed9a691b8f5

話を戻すが、確かに人間と地球との関係は下位ホロンと上位ホロンの関係ではない。地球は人間を「部分」とする巨大な有機体ではない。「ガイア」というものが存在するとしたら、それは実のところ人間同士が行なうコミュニケーション・ネットワーク型のホロンとしてである。ここで言うコミュニケーションとは、直接の交流に限らない。人為的に作られた交換物のやり取りである場合もある。だからこそ、集団的な人間の考え方やそれに基づく行動、交互交流の結果が、今の地球環境に多大な影響を与えていることは確かなことだ。それは地球が有機体かどうかに関係ない。
つまり、物質圏、生命圏、心圏、神圏は、必ずしも上下の関係ではないとしても、相互に関連はしている、ということだろう。

■個と集団の行動ホロン

ウィルバーは、「インテグラル・スピリチュアリティ」(春秋社)の中で、生命体の行動ホロンを考える場合は、「支配的モナド(単子)」と「支配的モード」の違いについて理解する必要があることを指摘している。
個人は細胞を所有している。ある人が身体を動かせば、細胞も一緒に移動する。個人が西に移動したとき、その細胞の半分は東に移動した、ということは起こらない。これを称して、個人は「支配的モナド(単子)」を持っている、と言う。
一方、集団は、支配的モナド(単子)を持たない。つまり、「私とあなた」をコントロールして、「それ」が指令を発すると、私もあなたもともに100%同じことを考え、同じことを言い、同じ行動をとる、といった「何か」は存在しない。
その代わり、集団は支配的な言説(ディスクール)を持っている。あるいは相互共鳴(レゾナンス)の「支配的モード」を持っていて、それが集団の動きをコントロールする。しかしそのコントロールは、「支配的モナド(単子)」のように100%ではない。「モード」とは、ものの考え方や行動の規範、コミュニケーションのパターン、文化、ある集団にのみ通用する掟やルール、不文律、「私」と「あなた」の間に漂う空気(雰囲気)といったものだろう。
集団を支配するモードは、個人を支配するモードと異なる場合がある。Bさんに対したときのAさんと、Cさんに対したときのAさんは、人格が変わったように見える場合がある。しかしそれは、Aさんの人格が変わったというより、AさんとBさんの間にある支配的モードと、AさんとCさんの間にある支配的モードが異なる、ということだろう。

集団における支配的モードは、どのように働くのだろう。
たとえば、雁の群れは同じピッチの声を発することでコミュニケーションしているという。そのような支配的モードに共鳴しない限り、仲間の雁には理解されない。そんな個体は仲間から取り残されるか、V字の編隊を構成して一緒に飛ぶことができなくなる。そうした支配的なモードが群れの生存を決するため、それに従わない個体は、場合によっては仲間に攻撃されるかもしれない。もちろん個体には、そうした集団の支配的モードに逆らって、自律的に振る舞う自由もあるだろう。
そこにはやはり、「自律性(エージェンシー)」と「協調性(コミュニオン)」という二つの性質があることがわかる。

ただし、ここで注意が必要なのは、人間の集団におけるこの「支配的モード」と、いわゆる社会制度・国家体制・法体系といったものとは、必ずしも一致しない、ということだ。AさんとBさん、AさんとCさんの間の支配的なモードは必ずしも同じではない。一方、法律は、AさんとBさんの間と、AさんとCさんの間で違うわけではない。「社会制度」と「文化」の大きな違いはここにあるだろう。
集団の行動を司る「支配的モード」は「集団の内面」、社会制度などは「集団の外面」と言い換えることもできるだろう。もちろん内面と外面には相関関係がある。新しい文化が新しい制度を生み、新しい制度が新しい文化を生んだりする。しかし、だからといって、集団の内面が外面の下位ホロン(あるいはその逆)といった関係性ではない。

■「間-主観」というホロン

集団には「支配的モナド」がない。つまり集団は「大きな有機体」「ひとつの巨大な生き物」ではない。集団のメンバーとは、巨大な有機体を構成する細胞のようなものではないのだ。集団と一人ひとりの構成員との関係とは、細胞にとっての「私」のように、自分よりも大きな「私」にとっての部分というわけではないのだ。

一方、個人は「支配的モナド」と「支配的モード」の両方を持つ。それは「個」の「外面」と「内面」と言い換えてもいいだろう。私の支配的モード(私の内面)とあなたの支配的モード(あなたの内面)は完全には一致しない。こうした微妙に異なる二人が「私とあなた=私たち」を形成するとき、そこに私とあなたの間にのみ通用する支配的モードが生まれる。それは私の支配的モードとあなたの支配的モードを単純に足し合わせたものとも異なる。この二人の間に形成された「支配的モード」は固有のエージェンシーとコミュニオンを獲得している。集団とは、個を「含んで超える」かたちで進化した、個の上位の「生き物」ではない。しかしそれは、まるで個人とはまた別の生き物のように振る舞う。つまり集団の内面もまた別のホロンなのだ。

ウィルバーは、こういう言い方をする。

『「私たち」の領域には、それ自身の“いのち”があるのです』

インテグラル理論を体感する

これは、「私たち」の領域とは、「私」の領域と異なる、それ自身の力学に従って展開していくものである、という意味だろう。
「私」の支配的モードと、「あなた」の支配的モードは別のものだ。この二つのものは、どちらも「主観」であり、この二人の間にあるのは「客観」ではなく、「間-主観」である。
こういう二人が愛し合ったとしたら、何が起きるのか?

『私たちは、相手そのものを愛しているというより、相手と一緒にいるときに感じられるさまざまな内容を愛しているのです。私たちが直接に愛しているのは、「あなた」というよりは、「私たち」なのです』
『二人が一緒に過ごせば過ごすほど、二人がつくる「私たち」の空間は分厚くなり、二人の歴史は豊かになり、二人のあいだで共有された出来事、共有された関心、共有された解決策は増大していきます。しかし同時に、二人がそれぞれの「私」を何とか調整しようとして生じる衝突も、なくなることはないでしょう』
(以上の引用:「インテグラル理論を体感する」日本能率協会マネジメントセンターより)

つまり、「私」というホロンも進化(成長)するが、「私たち」というホロンも進化するわけだ。「私」の支配的モードと、「私たち」の相互共鳴のモードとを調整しようとする「間-主観」的な“いのち”の努力・・・それは何と果てしなく、何と尊い試みだろうか。

さて、個は集団にとっての下位ホロンではない。「私」は「私たち」に従属する「亜全体」ではない。集団は個を「含んで超えて」いるわけではない。「私」と「私たち」の関係とは、原子と細胞との関係ではない。個が寄り集まったとき、個を含んで超える何らかの「創発」が起き、集団という「個の進化形」が発生するわけではない。ひとつの部屋に大勢を閉じ込めておけば、そのうち人間から「巨人」(あるいは神)に進化する、というわけではない。個というホロンと集団というホロンは同時に存在し、関連し合いながらも、それぞれ独自に進化する。どちらももう一方に還元することはできない。「主観」と「間-主観」は、それぞれ別の“いのち”である。

■物質的ホロンと心的ホロンを短絡してはならない

「私」と「あなた」とが相互共鳴するという、この「尊い試み」とは対極にある考え方がある。
いわゆる一部の自己啓発本や「スピリチュアリスト」を自任する者がよくやる常套手段だが、願望実現のプロセスを説明するときに、量子物理学の理論を援用し、あたかも人間の意識が量子と同じ性質を持ち、同じ動きをするかのような極端な「還元論」を展開し、自分の潜在意識に叶えたい願望を繰り返し刷り込めば、あとはオートマチックで現実化(物質化)する、といった考え方だ。「宇宙にお願いすれば、願望はたちどころに叶う」式のパターンだ。
こうした考えは、いとも簡単に「地球もひとつの巨大な生命体である」だとか「物質にも心がある」だとかといった考えを「引き寄せる」だろう。この考え方は、「私」と「私の細胞」との間にある「支配的モナド」の関係性を、あるいは「内面」と「外面」との関係性を、微妙なやり方で逆転させてしまう。
もちろん、「私」が自分の願望を潜在意識の中に繰り返し刷り込むということを自分の「支配的モード」とし、そしてその支配的モードに「あなた」の「支配的モード」が反応したとき、「私とあなた」の間に、何か化学反応に似た「相互共鳴(レゾナンス)」が起きることはあるだろうし、それによって今までこの世に存在しなかったものが生み出されるかもしれない。実際に、私の仕事はどれも、まさにこの「相互共鳴(レゾナンス)」によって成り立ってきた。
しかし、それはあくまで心的プロセスであって、物質的プロセスではない。この「私とあなた」の間に生じた一種の「支配的モード」が、直接的に何らかの物理現象を引き起こし、あとはその物理現象がオートマチックで仕事の続きを勝手にやってくれるか、と問われれば、それは物理現象をあまりに「擬人化」し過ぎている。「願望の潜在化」という「私」の心的プロセスと、物理現象の何が共鳴し合ったというのだろうか・・・物質の内面?
人間の意識(あるいは「念」といったもの)と物質との関係性には異論もあるだろうが、少なくともここでは、心的プロセスと物理的プロセスとを安易に短絡することはしない。もしどうしても、この異なる二つのプロセスを結び合わせたいなら、それは「ホロン」という概念によってなされる必要があるだろう。そう、まさにウィルバーがそうしたように。

ここで問題になるのは、この二つのプロセスのどちらかをもう一方に還元しようとする考え方そのものである。「心的現象も、物理的現象として説明できる」とする唯物論者は、生命圏も心圏も神圏も、すべてを物質圏の一部とみなしたいようだ。

※願望実現のプロセスを量子物理学的な法則で説明しようとするような試みの危険性については、以下の記事も参照されたい。
○AKのスピリチュアル講座5:願望実現や自己啓発理論のウソ
https://note.com/anthonyk/n/n5eb242d03d14?magazine_key=m4ed9a691b8f5#dxeQQ

地球上の物質をどれだけ寄せ集めて団子状にし、それを何億年放置したところで、そこから人間の心が生じるわけではない。人間に限らず、生命体が独自の「内面」を獲得するのは、原子に独自のエージェンシーとコミュニオンが備わって細胞へと進化し、さらに細胞が独自のエージェンシーとコミュニオンを獲得することで、より全体的な生命体へと進化した後の話だ。このプロセスは、物質が内面を獲得したプロセスではなく、「内面の血肉化」と呼ぶべきだろう。
これは、下等動物には「内面」がない、という意味ではない。高等動物になればなるほど、「内面」も進化している、という意味だ。
このプロセスは、はしょることも順番を入れ替えることもできない。つまり、より上位のホロンは常に下位のホロンを内側に包含し、なおかつそれらを超えた構造を獲得するかたちで進化してきたのである。
人間の心(意識)も同じ「ホロン構造」のプロセスをたどって進化することを、これからじっくり見ていくが、だからといって、物質的プロセスと心的プロセスが(同時に起きているとしても)同じであるわけではないし、心圏や神圏が物質圏に従属するわけでもない。この点は重要だ。

ケストラーは言う。

「有機体の構造や挙動は、物理化学上の基本的プロセスで説明することも、それに還元することもできないのだ。有機体は亜全体が層をなすマルチレベルのヒエラルキーなのである」(前掲書より)

ホロン革命

先ほどのウィルバーの言葉も、もう一度引用しておこう。

「リアリティを基本的に構成する要素がモノなのかプロセスなのかというのは、ポイントが外れている。なぜならどちらにしたところで、それらはホロンなのであり、どちらかに片寄って見ることは的を外してしまうからだ」

進化の構造

■表情豊かな「ホロン」

確かにホロンはいたるところに見出すことができる。だからといって、ホロンはたったひとつの「顔」を持っているわけではない。実際には、物質圏、生命圏、心圏、神圏すべてにおいて、実に豊かな表情を見せてくれるのだ。

ケストラーはさらに言う。

『「ホロン」という言葉は生物学的ヒエラルキー、社会的ヒエラルキー、あるいは認識のヒエラルキーなど、規則に支配された行動やゲシュタルト(形態上の)恒常性を示すヒエラルキーのなかのどんな構造的、機能的サブシステムにも適用できる。たとえば細胞内小器官は<進化のホロン>、形態発生の場は<個体発生のホロン>、比較行動学者の言う「固定的行動のパターン」や後天的技術のサブ・ルーチンは<行動のホロン>、音素、形態素、単語、句は、<言語ホロン>、そして個人、家族、部族、国家は<社会的ホロン>、ということになる』(前掲書より)

ホロン革命

だからといって、たとえば物質圏における一連のホロン構造の性質を説明したら、すべての「圏」(Kosmos全体)のホロン構造の性質を説明したことになるかというと、そうではない(ただし、すべてのホロンに共通する性質はある。それについては次回)。
すべてのものやプロセスはホロン構造を持っている。しかしすべてのものやプロセスがたったひとつのホロン構造に還元されるわけではない。

個と集団、「私」と「私たち」は、別々の“いのち”だ、という話をした。
ということは、繰り返すが、「私」も「私たち」も、ホロン構造を持つが、別々のホロンである、ということだ。
ここで、「どこまで上へ上がろうが、どこまで下に下がろうが、ホロン」だったことを思い出していただきたい。
ならば、個人も集団も、底なし沼から青空天井へと無限界で進化することになる。
「えっ? 人間がこれ以上進化するだって? 背中に羽根でも生えるのか? それとも神になる?」とあなたは思うかもしれない。
人間が、ここから先さらに進化するとしたら、人間にとっての「上位ホロン」とは何だろう。一人の人間とは、何にとっての「部分」なのだろう。それとも、個は進化の行き止まりか?
人間が、この先「背中に羽根が生える」というような形態上(外面上)の進化を遂げるかどうかは定かでない。しかし「支配的モード」(内面)の部分ではどうだろう。「私」という“いのち”には、そのものの考え方・感じ方、ものの言い方、行動のパターンに、独自のホロン構造(つまり底なし沼の下位構造と青空天井の上位構造)があるのだろうか。人間の心圏にも、物質圏における素粒子と宇宙ほどのミクロとマクロがあるのだろうか。
実はある。それは、個人における「意識進化のホロン構造」と言えるものだろう。さらに、実は集団の意識進化も、個人とはモードにおいて異なるものの、連動するかたちでの独自のホロン構造を持つ。その社会的な側面をとらえて言うなら、確かにケストラーが言うように、家族→部族→国家(その先もあるのだが)という具合に進化する。

このように、ホロンとは横方向・縦方向(広がりと深み・高み)において、豊かな表情を見せてくれるのである。

なお、個にしろ集団にしろ「人間の意識進化のホロン構造」というテーマは、ウィルバー哲学の根幹を成す部分でもあるため、これからじっくり取り上げたい。


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