アメカジ野郎が「アメリカ人は細かいことを気にしない」という時のこと

 行きずりのアメカジ野郎に"made in usa"という文字列を見せただけで彼らは彼らの全てのタスクを停止してでもうっとりとそれに魅入るでしょう。アメカジ野郎にとっての"made in usa"はネコにマタタビ、カメムシに白い布なのです。

 アメカジ野郎はなぜ"made in usa"に異様に憧れるか、理由はあるようでありません。以前からお伝えしているように、アメカジ野郎の物事の選択基準にはっきりした理由などないのです。まず、メディアや売り手から与えられた"made in usa"が素晴らしいという結論があって、その上でその結論がなぜ与えられているのか妄想してみるくらいが精一杯のアメカジ野郎の自主性です。

 例えば、よく「アメリカ製は生地がしっかりしている」「アメリカ製は縫製が良い」などとよく言うアメカジ野郎がいますが、果たしてそれは真実でしょうか。分厚い生地を作ろうと思えば、どの国で作っても分厚い生地は作れますし、丁寧な縫製をしようと思えばどの国でも丁寧な縫製はできます。そうした現実に目を向けず、単なる"made in usa"とプリントされたタグを有難がる短絡的な思考のどこが(アメカジ野郎が聞かれてもいないのに自称する)「本物志向」でしょうか?

 アメリカ製>その他という図式には、まず「アメリカはその他の国よりモノ作りの技術が高い」「アメリカには質の高い素材が揃う」などのアメカジ野郎の多大な妄想を土台にしています。

では、同じ人間が作っているにも関わらず、安価なアジア製品には低い技術と低品質な素材しか集まらないのでしょうか?そんなに問題は単純ではありませんが、ひとつ言えることは、安価な製品の産地には低い賃金と低い予算が集まりやすいということです。ハナから安く作らせ安く売られる狙いである低予算なアジア製品が、アメカジ野郎の妄想を利用して高価格で売る"made in usa"と品質で戦えるでしょうか?そもそも、アメカジ野郎は全く同じ低品質な二つの製品に"made in usa"のタグとアジア製のタグを付けても、何も考えずに"made in usa"の方を崇拝するに決まっていますが。

 某、アジア製とアメリカ製、イギリス製を展開するシューズメーカーでも、米英製はアジア製の三倍の値段でも売れますが、本国では「米国製」を謳った製品も各々のパーツは7割以上アジア製で、米国内では最終組み立てをしているに過ぎず、現実的に過大広告ではないかと争われています。しかし、それでも米国製の何万円もするスニーカーは飛ぶように売れるのです。そこには幾重にも層になった人権的課題が含まれていますが、その先はお読みになっている皆さんの判断に任せます。先程も申し上げた通り、米国人もアジア人も同じ人間です。国の違いに価格が反映される人権的矛盾に気づきもせずに、「ハイ」な国を選ぶことがファッショナブルだと信じるアメカジ野郎の消費行動が世界の分断を深くしていることは間違いありません。


そこには、アメカジ野郎の、豊かなアメリカには豊かなモノ作りがあるに違いない、という「だったらいいな」妄想はあるのでしょう。

さて、アメカジ野郎の大好きな古着に話題を変えます。アメカジ野郎は、上記の「高品質な」"made in usa"への盲信も激しいですが、ある種「ビザールな」"made in usa"へも矛盾した盲信を捧げています。

 例えば、ロゴ位置がずれてしまっているスウエットや、赤タブが二つ付いてしまっているジーンズなどの明らかなエラー品、酷く汚れているもの、妙に安っぽいもの、挙げ句の果てには、キャラクター盗用やニセブランド品など、権利侵害品ですら、「さすがアメリカ人はおおらかだ、細かいことを気にしないな。」という暴力的な言説で「アメリカ人らしさ」の牢獄に閉じ込めているのです。はたして、それを聞いた現実の「アメリカ人」たちは彼らアメカジ野郎を自分たちの理解者だと思いますか?

「文化の盗用」という深刻な問題があります。ある文化圏のモノを、別の文化圏の所属者が取り入れようとする時、リスペクトがある良い期間はとても短いのです。すぐに文化を取り入れた側はオリジナルの文化を玩具化し、浅く誤った知識で「分かってる側」からモノ申すようになり、さらには自分たちはコピー側であるという弱い立場を利用しながらオリジナルへの理想の押し付けを行い、自分たちの狭い狭い想像の範囲を逸脱した場合は激しく批判すら行うのです。

例えば、南の島のリゾート地で半裸で踊るダンサーへ、砂漠でラクダツアーをするガイドへ、スピリチュアルな教えを説く先住民へ、「それっぽくいろ、永遠に」と物語を押し付けないことは、想像以上に難しいことなのです。我々も、よほど意識して他者へのイメージの押し付けを振りほどく手を緩めない限り、簡単に文化を暴力的に消費する側へ堕落してしまうのです。

アメカジ野郎は、本当に「アメリカ」をリスペクトし、理解していますか?彼らはアメリカに対して高付加価値であってほしいという理想の押し付けをしつつ、一方ではビザールであってほしいという見下しも同時に行っているのです。その根底にあるものは、アメカジ野郎の「自分がアメリカの都合の良いイメージを利用して目立ちたい」という汚らしい欲望なのです。彼らにアメリカへの愛などありません。自分が注目を集めたい、目立ちたいだけなのです。

アメリカにはクラフトマンシップのある職人気質な人、または陽気な細かいことを気にしないハッピーな人、そんな人々しかいませんか?そんな馬鹿なことがありますか。ただただ、アメリカには「一人ひとり違ったそれぞれの人間が居る」だけです。国で何かを縛って雰囲気だけの上澄みだけ啜って悦に入るアメカジ野郎にはそんな簡単なことすらわかりません。彼らにはそんな簡単なことがわからないことが即ち差別であることもまたわかりません。

「アメリカ人は」と他人を縛り付ける時の暴力性についてアメカジ野郎がどこまで考えているでしょう。もしかすると、強い強いアメリカ人には弱い弱いアメカジ野郎は公理として憧れ以外持てないので、アメカジ野郎はアメリカ人を見下す側に回ることは無く、つまり「何を言っても許される」とアメカジ野郎だけが甘えているのかも知れません。

例えば、しっかりした作りのジャケットと、ペラペラのジャケットがあって、あるアメカジ野郎はこう言います「ペラペラのほうがアメリカっぽいよね」と。

この時の彼の思考を因数分解すればするほどゾッとしませんか。いちいち私から解説するまでもありませんが、悦に入ってそんなことを言うアメカジ野郎の表情、醜いものです。

全ては思いこみなのです。"made in usa"も、高品質なアメリカも、ビザールなアメリカも、細かいことを気にしないアメリカ人も、アメリカっぽい自由さも、グランジなアメリカも、豊かなアメリカも、アメカジのかっこよさも、全ては「無い」のです。それだけが真実なのです。

別にアメリカを好きでも構いません、しかし、アメリカを愛する前にまずは自分を愛することがアメカジ野郎には必要なのではないでしょうか。ありもしない妄想上のアメリカより、確実にいまそこに存在する自分を愛する方が簡単です。

アメカジを突き詰めて行っても、決して真実には近づくことすらできません。遠く遠く離れて行き、孤独と断絶を深めるだけなのです。

アメカジ野郎が、自らの無知と加害性に気付くことはあるでしょうか。我々はアメカジ野郎のような失敗だけはせずに、彼らをいつか救ってあげたいものです。本当に世界が一つになる時、アメカジ野郎もそのテーブルの一員として迎えてみませんか。

今回もお読み頂きありがとうございます。

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