見出し画像

"MAXIMUM JOY"の事。

土地や風土によって、独特のサウンド・スタイルがあるのは何故かと考えると、広くは気候や文化的なものもあるとは思うけど、例えばシンプルなギター・ポップなんかは、小さなファン・コミュニティというものから端を発したスモール・サークルでの仲間から派生することが多いと思う。一方、革新的だったり斬新なサウンドが生まれてくる土地は、地元のクラブでDJがプレイするサウンドを仲間と聴きながら過ごす時間が影響してくると思われる。こういった地域の特性が色濃いイギリスの中で、特にブリストルという土地は、普遍のギターポップと、ダブやブレイクビーツなどをミックスしたアブストラクト・ヒップホップという、ある意味両極端な特色的サウンドを生み出す土壌があった奇跡的な土地。ポスト・パンクが盛んだった1980年代には、ダブやファンクをベースとしたフリーキーでヒリヒリするようなクールなサウンドが多かった。その中心にあったのがThe Pop Group、そして殆ど同期のGlaxo Babies。この2巨頭が解散した不安定な時期にも特色的なアーティストが生まれました。その中でも特に先鋭的なサウンド・スタイルを打ち出したバンドとしてMaximum Joyが思い出されます。

1981年にイギリスはブリストルで結成されたMaximum Joyというバンド。当時のサッチャー政権に対する不満からイギリス国内の情勢が不安定だった時期に「最高の楽しみ」という、何とも皮肉な名称を冠したバンドでした。当時はまだ17歳の学生で、写真を学んでいたJanine RainforthがTony Wrafterと出会ったのが全ての始まり。同じフラットをシェアしていた二人は、Sun RaやCanのレコードを聴きながら時間を過ごし、楽器演奏もやっていて度々セッションも行っていた。Tonyは、解散したGlaxo Babiesの元メンバーだったため、Rip Rig & PanicやOn-U Sound周辺人脈のSean Oliver、The Pop Group~PigbagのSimon Underwoodといった仲間も加えてセッションを行っているうちに、自然に自身のバンドの結成へと発展した様です。Glaxo Babies時代のメンバーだったCharlie LlewellinとDan Catsisを巻き込み、もう一人のメンバーを募集したところ、タイミング良くThe Pop GroupのギタリストだったJohn Waddingtonが加入し、5人組バンドとしてスタートします。バンド名は、Glaxo Babies時代の未完の曲”Maximum Sexy Joy”からきているそうです。Tony Wrafterはサックス/トランペット/フルートといった楽器を担当、Janine Rainforthはヴォーカルを担当します。Glaxo Babiesは、The Pop Group程の知名度は無かったものの、ポスト・パンク期のブリストルの音楽シーンを支えた重要なバンドで、クールなファンクネスとダビーなサウンドや、ピアノやホーンといったクラシカルなサウンドに奇声や叫びを乗せた、フリーキーでアヴァンギャルドなサウンドが特徴のバンドでした。製薬会社のグラスコからバンド名に関してクレームが入り、Gl*xo Babiesと名乗って活動していましたが、1980年に解散しています。Maximum Joyのメンバーは、Enterprise Imperial Hi-FiやFroggy’s Excaliburというサウンドシステムに入りびたり、ダブのリズムとベースに影響を受けていきます。ロンドンのパンクスがThe RoxyでDJのDon Lettsがかけるレゲエに触発されたのに似ていますね。The Dug OutやBlack & White Caféというファンクやソウルやレゲエやブルースをかけるクラブにも入り浸った彼らは、クラブでかかる楽曲や、出入りする人物に刺激を受けてサウンド作りをはじめます。

[Strech] (1981)

デビュー・シングルは1981年の"Strech"でした。今作は、RaincotsやThis Heat , Flying Lizardsなどの拠点として知られるロンドンのBerry Street Studioでレコーディングされました。モノクロームの芸術的な写真をジャケットに配したこのシングルは、写真を学んだ彼女のセンスかも知れませんね。このシングルは、Disc O'Dellが主宰するY Recordsからリリースしています。Y Recordsは、The Pop GroupとSlitsをマネージメントしていたDisc O'Dellが、バンドが彼の手を離れた時に設立したもので、Pigbagと共にMaximum Joyが初期の所属バンドで、後にShriekbackなどを輩出しています。民族音楽のトライバルな歌唱に影響を受けたという、小気味いいとは言えない、不安定ながら自由度の高いヴォイス・パフォーマンス、高音域を活かしたキンキンしたフリーキーなギター、鋭角にうねりまくるベース・ライン、ノイズと化したホーン類によるサウンドは、同郷の先人の影響を感じさせながらも、オリジナリティのある刺激的なものでした。この曲には、当時のサッチャー政権による深刻な政治状況で、鉱山労働者のストライキや暴動が起こっていたというイギリス国内への不満や危機感が込められている様です。このシングルは、 ESG やLiquid Liquidといったアメリカの先鋭的なヒップ・ホップ・グループを擁したニューヨークの99 Recordsからアメリカでもリリースされ、クラブやラジオ局でプレイされていました。

[White And Green Place] (1982)

1982年には2作目のシングル”White And Green Place”を、同じくY Recordsからリリースしています。再びBerry Street Studioでレコーディングされた今作は、ある意味バラバラだった1作目のサウンドにバンドとしての整合感が生まれ、個々の楽器の自由度はそのままに、初期衝動だけでは無く冷静に並列されたサウンドにバンドの格段の進化を感じさせます。バンドが影響を受けたSun Raをはじめとしたフリー・ジャズ~スペース・ジャズからのインスピレーションが顕著で、ドラムスやパーカッションのトライバルとエレクトリックが混合した特異なリズム、小気味よいファンキーなギター、フリーキーなホーン、そしてソウルフルに抑制されたヴォーカルとのミックスが斬新でした。曲によってはバラバラになりそうな即興演奏もスリリングで、全編にダブの手法が用いられているのも特徴でした。同じ年に3作目のシングル"In the Air"をリリースしています。この曲は、ソウルフルなヴォーカルを中心に、ファンキーなギターと鋭角のベース・ラインに幾重にも絡むフリーキーなホーンと、パーカッションとメタリックなビートが印象的で、ファンク・ジャズとヒップホップへの接近が顕著なダンサブルなチューンとなっており、バンド・サウンドの充実が感じられる作品です。ニューヨークのクラブ・シーンでも評判となりました。

[In the Air] (1982)

この頃、バンドはThe Dug Outでの顔なじみだったMark Stewartからの紹介でAdrian Sherwoodと引き合わされ、彼のスタジオに招かれてOn-Uサウンドのダブの実験を目の当たりにし、素晴らしい音響と機器に感銘を受け、彼にプロデュースを依頼することを決めます。同1982年に、早くもデビュー・アルバム"Station MXJY"をリリースしています。プロデュースは、もちろんAdrian Sherwoodが手掛けています。フリー・ジャズとファンクの混沌としたミクスチャーに強烈なダブを盛り込み、クールなエレクトロニクスやギター、フリーキーなホーン、ダンサブルなビートなどの多彩なサウンドが展開され、ソウルフルなヴォーカルとメロディの充実具合も素晴らしい作品です。タイトルは、彼らが影響を受けたミックス・テープをリリースしていたニューヨークのソウル~ファンク~アーバン・ソウルのラジオ局「WBLS」へのオマージュとなっています。

[Station MXJY] (1982)

1983年のラスト・シングル”Why Cant We Live Together”は、Garage Recordsからリリースしています。タイトル曲はTimmy Thomasのクラシック・ソウルのカヴァーで、Dennis Bovellがプロデュースを担当し、ソウルフルな楽曲とヴォーカルを、レゲエとダブのエッセンスを盛り込んだニューヨーク・エレクトロのフレイバーで仕上げたこの作品は、初期の尖がったポスト・パンクのフリーキーなサウンドが薄れたアブストラクトでファジーなダンス・ミュージックとなっていて、以降のブリストル・サウンドを予見する様なものとなっています。自身のルーツであるソウルやレゲエをブリストル流のサウンドで具現化してフィナーレとし、バンドは活動を終了します。Massive AttackのGrant Marshallに紹介された若きNellee Hooperが、ドラムとヴォーカルで参加しています。

[Why Cant We Live Together] (1983)

ブリストルの特色あるダンサブルなサウンドは、クラブを発信地とする様々な人脈との交流からの、様々なサウンドのミクスチャーから生まれていたのでした。このMaximum Joyが活動した1980年代初頭は、イギリス国内の情勢が厳しく、サッチャー政権への不満や、失業率が非常に高いという先の見えない不安定な状況下であり、そんな中でMaximum Joyが発したメッセージは、政治的な抑圧からの解放を示唆するものだった。そして、言うべきことを言い尽くして、バンド活動を終了させたのでした。バンド解散後、Janie Rainforthは、しばしの沈黙の後、自身のユニットRainforthで活動、Tony WrafterはTrickyやBlue Aeroplanesなどの作品に参加、自身のユニットでも活動しました。Charlie Llewellinは、Palace of Light、Blue Aeroplanesに加入した後、アメリカへ移住してGourdsを結成、Nellee Hooperは、Massive AttackやBjörkをはじめ、Smashing Pumpkins, U2, Soul II Soul, Sinéad O'Connorなどの数々の作品を手掛け、グラミー賞の常連となる大物プロデューサーになっています。2015年には、ブリストルで行われたSimple Things music festival出演のために再結成しています。この時は、Janine Rainforth、Tony Wrafter、Charlie Llewellinのオリジナル・メンバーに新メンバーを加えた6人編成でライヴを行いました。ライヴ終了後、Tonyを除いたメンバーで新バンドMXMJoYを結成して2019年にアルバム”P.E.A.C.E”をリリース、現在でも断続的に活動中です。2022年には、1982年にレコーディングしたJohn Peelのラジオ・セッションの5トラックを収録した"The BBCR1 Sessions"をリリースしています。

The Pop GroupやGlaxo Babiesが切り開いたパンク以降のブリストルの音楽シーンの歴史は、クラブ・シーンを中心に独自の進化を遂げたサウンドとしてSmith & Mighty , Massive Attack , Portishead , Trickyなどへ繋がった。そのミッシング・リンクを埋める存在として短い期間活動した、The Pop GroupとGlaxo Babiesからの派生ユニットであるPigbag、Head、Rip Rig + Panic、そしてMaximum Joyの存在は、決して忘れられないモノでした。今回は、粗削りながらも強烈なインパクトを残した、バンドの開始を告げたこの曲を。

"Stretch" / Maximum Joy

#忘れられちゃったっぽい名曲


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?