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哀悼 恩師坂田進一先生

2022年6月24日、18歳から師事した恩師坂田進一先生が天に召されました。享年74歳。4月にコンサートをご一緒し、お元気な様子を見ていただけに急逝の報に驚き悲しみました。そして6月28日には、ご時世を反映してご親族と弟子数人の10人に満たない限られた人数でのご葬儀が営まれました。光栄な事に奥様からのお声掛があり、祭壇の前で献楽をさせて頂き最期に先生所縁の曲をお届けすることができました事をここに記して感謝の証とします(急逝された後、ご家族から葬儀が済むまで対外的に積極的なお知らせを控えたい旨のご意向をお伺いし尊重させて頂きました。ここで初めて知る方も多い事と思いますが、何卒事情をご賢察ください)

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さて私は坂田先生とご縁あって、元はと言えば中国の古典音楽を学ぶため、大学の中国語学科に入学した1990年の、7月4日に弟子入りしました。今でこそご存知の方もたくさんおられますが、当時は「二胡」さえ一般的には知られておらず、その様な社会環境下で日中国交回復前から中国音楽を実践しておられた先生は正にパイオニアでした。その、東西の古典音楽を幅広く研究実践しておられる方に師事した幸運で、数々の珍しい楽器を目の当たりにして、私も自然と様々なジャンルの音楽に触れ新たな楽器に挑戦していく事になるのでした。二胡を手始めに、月琴、琵琶、笙、揚琴、秦琴、大阮、生田の箏、三絃、胡弓、アコーディオン、コントラギター…などなど。凡そ先生が生涯を賭けたご専門の琴学「以外」に触れて来た訳です(当時、古琴を学ぶ為には琴を学ぶ者の結社「東京琴社」への入社試験があり、難関と聞かされていましたし、そもそも古琴だけはみだりにご披露なさらなかったので自然と「古琴は神聖な物」という気持ちが育ち遠くから眺めておりました。一度たりとも前に座ったり、触れた事さえありません。)

今と変わらず元来好奇心旺盛な子供の私には、毎回のレッスンで目にする全てが驚きと憧れ、そして宝の山でした。今現在も私が手掛ける楽器の手ほどきは、殆どが坂田先生によるもので、一つ一つに思い出がありますが、中でも胡弓の稽古を許された日の事は、興奮と感激のあまり昨日の事のようによく覚えています。

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また、アコーディオンを始めてみようという直接のきっかけになったのも、こちらの社中でシュランメル音楽の演奏に携わったからですし、後にアコーディオンの師匠になる金子元孝(万久)先生に引き合わせてくださったのも坂田先生だったという大きな御恩もあります。

【上海にて。先生の古希をお祝いするコンサートでシュランメルンを演奏しました。2017年12月】

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つまり、この方と出会わなかったら今の音楽家としての私はありません。芸の上で父親といえばこの方をおいて他に居ない無二の存在である所以です。

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思えば弟子入りしてから32年、本当にあっという間でした。

幅広い知識を持つことの大切さを教えてくれました。
漢籍の基礎を教えてくれました。
直前で無茶ぶりばかりする人でした。
美味しい中華料理や中国茶のことを教えてくれました。
たくさん肩を揉ませてくれて、その間、面白い話をたっぷり聞かせてくれました。
東京の街を、まるで江戸の街を歩いているように案内してくれました。
靴を磨くのが大切な事を教えてくれました。
涙脆い、心の優しい人でした。
扇子の使い方がなんとも優雅でカッコ良い人でした。
とことんせっかちな江戸っ子でした。
「とにかくやってみろ」と応援してくれる人でした。
物を識らない私に、様々なお作法を教えてくれました。
古玩や書画古楽器の見方を手ほどきしてくれました。
見えないところで気遣いをする、照れ屋で粋な人でした。
普通なら入って行けない場所へ、たくさん連れて行ってくれました。
常に身近で本物に触れさせてくれました。
様々なチャンスをくれて、たくさんお勉強させてくれました。
本気で叱ってくれる人でした。

そして、孤高の人でした。

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私は、先生の知音になりたいと願いつつ、大きな背中を見るばかり。先生孝行ができないままの弟子でした。

亡くなられた今も実感がなく、まだまだ知りたい事や、聞きたかった事などが次々と思い浮かんで来てしまいます。まるで入門したての頃のように、曲を聴いてもらってお手直しをお願いしたり、一緒に演奏して怒られてみたいと願ってしまいます。そしてその気持ちは、これからも変わらず私の心の中に生き続ける事でしょう。

思い出と感謝は書き尽くせませんが、ここに先生を偲んで一文を認め、思い出の写真を何枚か貼ってみました。この文をご覧になった方で「坂田進一先生」を直接ご存知の方ならば、ぜひ思い出して偲んで頂きたいと思いますし、ご存知ない方にはこの不世出の音楽家の存在を知って頂き、たとえプロフィールに書き記していなくても国内外の音楽シーンで活躍している実に数多くの門人が、この素晴らしい先生の元で学んでいたという事に思いを馳せて頂ければと思います。合掌

【浅草寺伝法院にて開催された重陽琴会の合間に伝小堀遠州作庭のお庭を拝見。先生の手には曲笛、私の手には大阮(撮影年不明)】

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【福建南曲を聴きに訪れた福建省泉州の路上にて(91年)この旅のハプニングやエピソードの数々は、その後何度も2人の間で話題になりました。懐かしいです】

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【坂田先生については以前も記事中に取り上げさせてもらった事が何度もありますので、プロフィールなどは過去の記事をご覧ください】

ご葬儀での献楽の内容について、備忘を兼ねて私のスピーチ原稿(実際にご披露するタイミングはありませんでした)をご披露しますので、ご想像頂ければと思います(祭壇の前でアコーディオンソロを献じました)

献楽スピーチ原稿(2022.6.28)

(演奏前のご挨拶)「この度はお悔やみ申し上げます。門弟の安西はぢめと申します。僭越ながら奥様からご指名を承りましたので、謹んで献楽させていただきます。曲目は弾き終わりましたらご説明させていただきます。」

(演奏後に)「幅広く東西の古典音楽を研究実演なさって来られた、稀有な存在であられる先生に、所縁が深い3曲をメドレーでお届けしました。

まずは讃美歌「神ともにいまして」で始まりました。この曲はご自身がクリスチャンである先生がコンサーティーナで好んで演奏もし、またレッスンでコンサーティーナの生徒たちにも伝授しているところを何度も見ている、私個人としても思い出深い曲であるばかりか、旅立ちの讃美歌でありますので冒頭に弾かせて頂きました。

2曲目は清楽(注1)より「九連環」です。ご承知の通り九連環は数ある清楽の中でも、広く知られている上、日本の俗曲に与えた影響を考えても筆頭の曲ですし、先生が弾き歌いしているお姿が目蓋の裏に焼き付いているので、迷わず選びました。

そして最後は先生の西洋音楽のライフワークであります「シュランメル音楽(注2)」の中から、先生が特に好きだった「辻馬車の歌」をお届けしました。この曲のエピソードをご紹介しますと、2017年に私も共演させて頂きました、上海で行われた古希をお祝いする音楽会の打ち上げの席で「安西くん、辻馬車の歌!」とご指名を受けて伴奏させていただいた事がありました。その時の先生は数多くの中国の音楽関係者に囲まれ祝福され本当に嬉しそうでした。立ち振る舞いや身支度が粋な事で知られる、しかも速さ自慢のウィーンの辻馬車の御者。彼が自分の晩年を思い「俺が天国へ行く時には、いつもの道を教会までお棺を乗せて突っ走って送っておくれ」と言う内容の歌詞を歌うと、先生はいつも込み上げる感情を抑え切れずに涙するのでした。今日は私の耳には先生が大好きな歌を目をつぶって思う存分に楽しむ「坂田節」が鳴り響いておりました。先生とはきっとこれからも毎日心の中で合奏したり、お話しをすることでしょう。今まで私を育ててくださり、本当に有り難うございました。門弟 安西はぢめ」

(注1)「清楽(しんがく)」とは長崎の出島経由で伝来した清代中国南方の俗曲の総称。主奏楽器「月琴」の手軽さと相まって幕末明治と爆発的に流行した。文中の「九連環」はメロディの原型を残しつつ「かんかんのう」の元歌になったり、さらに日本化して「さのさ節」になったり、日本音楽への影響がある曲。他に「紗窓(さそう)」が「復興節」の元歌として知られている。日清戦争を挟んで敵性音楽という事で自粛もあって衰退の一途を辿る。

(注2)「シュランメル音楽(Schrammelmusik)」またはシュランメルン(Schrammeln)とも。元々「シュランメル」は人名。人気を博した楽団のオリジナルメンバーの名前がジャンルの名前として定着したもの。ウィーンで行われる軽クラシックの曲種。ウィーン歌曲(ウィーン小唄・Wienerlied, -der)も含めて指す事も多い。シュランメルとして書かれたオリジナル作品もあるが、クラシックの人気曲を編成に合わせたアレンジで演奏する事もよく行われる。元来はバイオリン2丁、コントラギターレ、G管の高音クラリネットの4重奏だが、クラリネットがヴィナーハーモニカ(ウィーン式ボタンアコーディオン )にとって代わったものや、バイオリンとアコーディンのデュオ、小編成のサロンオーケストラで演奏されるものなど、四重奏以外でも演奏スタイルが「シュランメル」だったり、演奏曲がシュランメルの曲目の場合も広義に「シュランメル」と呼ばれている事がある。「シュランメルン」は複数形。


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