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旅は時代を行ったり来たり【後編】:旅&ラン 大阪

京都マラソンの帰りに、大阪に立ち寄りました。

旅は、いろんな時代へのタイムマシーン。
前回に続き、ご一緒しませんか?


大阪観光のド定番、大阪城へ


皆さんは、大阪の観光というと、どこへ行きますか?
今回はド定番の「大阪城」へ行ってみました。

大阪城公園はとても広く、ランニングコースも整備されています。
ステキなカフェも点在していて、のんびりお茶をするのも良さそうです。

大阪弁、いいですね。

天守閣への入場待ち。
平日にもかかわらず、すごい人でした。

5階までエレベーターで上がり、
8階へ階段で上がると、市内を一望できます。

お城の中は「大阪城天守閣」という歴史博物館になっています。
大阪城の歴史、豊臣秀吉戦国時代についての展示がされていました。


戦国時代へ


大阪城とは

大阪城は戦国時代の大坂本願寺(石山本願寺)を前身とし、
織田信長と戦った石山合戦
豊臣秀吉による築城
大坂の陣による落城
徳川幕府による再築
明治維新の動乱による焼失
・明治維新後の陸軍管轄、戦後の公園整備
と、日本の歴史とつねに深いかかわりを持ちながら現在に至っています。

いま見ることができる石垣や堀、大手門・多聞櫓・千貫櫓などといった古建造物はすべて徳川時代以後のもの。
天守閣は、豊臣時代・徳川時代に続く3代目のもので、昭和6年(1931)市民の寄付金によって復興されました。

https://www.osakacastle.net/

戦国時代とは

15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。
世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って、守護大名に代わって全国各地戦国大名が台頭した。
領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。
応仁の乱(応仁元年~文明9年、1467年~1477年)から織田信長の上洛(永禄11年、1568年)までの期間とされている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)

豊臣秀吉は織田信長の足軽で、草履を懐に入れて温めた。
これがきっかけで出世した話は、皆さんご存じですよね。

織田信長は、天正10年6月2日(1582年6月21日)「本能寺の変」で、
最期を迎えます。

その後、織田信長の部下で「元同僚」だった豊臣秀吉と徳川家康は、
幾多の駆け引きや攻防を繰り返します。

豊臣家と徳川家の戦い、慶長20年(1615年4月)「夏の陣」の屏風絵

この屏風絵についての、こと細かい解説動画が流れていました。
多分、40分くらいあったかな。見ごたえありました。

戦争へと流れていくきっかけ、思惑、策略、駆け引き、ウソ、、

何のため?
「権力争い」の、モチベーションって何でしょうね。
野望、プライド、、もっと言えば承認欲求??

時代が変わっても、人間の本質って変わらないのでしょうか。。
何百年も経っているのに、今も同じことが繰り返されている。

人間って愚かですね(-_-;)


夜は昭和へ


夜は、通天閣の近くで一杯(笑)

通天閣の歴史はこのようです。

明治45年(1912年)パリのエッフェル塔をモデルに建設され、現在の通天閣は2代目です。
初代通天閣は、産業振興の目的で開かれた内国勧業博覧会の会場跡地を利用してルナパークと共に造られました。通天閣とルナパークはロープウェーで結ばれ一大娯楽場としてデビューし、市民の憩いの場として親しまれました。

浪速区HP
https://itot.jp/archives/4964

第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)1月、通天閣が脚下の大橋座の火災に巻き込まれて損傷。同年2月、敵軍による空襲の標的にされやすいことに加えて金属類回収令による鉄材供出のために解体された。大戦末期の1945年(昭和20年)3月13日の第1回大阪大空襲では新世界も被災・壊滅した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E4%B8%96%E7%95%8C_(%E5%A4%A7%E9%98%AA)

地元の人々の努力により昭和31年(1956年)に再建され、再び大阪のシンボルとしてよみがえり、今も市民から愛され、親しまれています。

浪速区HP

通天閣の足元、一杯飲み屋のひしめくエリア「新世界」
友人がツウなお店へ連れて行ってくれました。

ちょっと食べちゃった

安い!美味しい!お店のお兄さんが優しい!

なんとこのお店、夜7時で閉店なんだそうです。
朝からやっているので、店じまいも早いとのこと。

「大阪は昼のみしても罪悪感のない街(笑)」
とのこと。
楽しい街ですね!


寝るのは令和


宿泊したのは、「OMO7大阪by星野リゾート」

ホテルのある「新今宮」の周辺は、「危ない街」として有名だったようです。

大阪の代名詞「通天閣」からほど近い「新今宮」。
JR環状線と南海本線が交差し、天王寺駅からも難波駅からも電車で数分という抜群のアクセスながら、関西人の間では「近寄ってはいけないエリア」というイメージが強かった。
JR新今宮駅のすぐ南側の「あいりん地区」と呼ばれる労働者街ではかつて暴動騒ぎが繰り返され、覚醒剤の密売や売春など犯罪の巣窟とされていたのだ。

https://www.kenbiya.com/ar/ns/region/osaka/6038.html

その歴史はこのようなものだったようです。

現在の新今宮の北、現在の日本橋1丁目から5丁目までは、江戸時代より長町と呼ばれ、堺筋沿いに木賃宿(きちんやど:安宿の意。宿泊客が自炊し、燃料代だけを払うだけの宿であったことから由来する。大部屋で雑魚寝の粗末な宿であった)が立ち並び、一歩裏路地に入るとさらに条件の悪い安宿粗末な民家密集していた。
旅人から職を求める人まで、大坂へとやってくる人々の一時的な滞在地となっていた。

https://shin-imamiya-osaka.com/history/

釜ヶ崎(新今宮の南西部、現在の萩之茶屋付近)は、高度経済成長期や大阪万博の建築特需により、日本最大の日雇労働市場となり、日本全国から仕事を求めて人々がやってきた。
簡易宿所は高層化、密集化し、日本で類をみない人口密度の高い地域となった。

同上

その「新今宮」駅のホームから、今は巨大な建物が見えます。
2022年4月22日に、開業したようです。

街は、どんどん変貌していくんですね。

「旅」でいろんな時代をタイムスリップ。
旅はやっぱり楽しい!


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