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【小説】ファインダーの向こうに②

松下洸平さんの『KISS』という曲にインスパイアされて書いたお話。①からのつづきです。

「ただいまー。」
ひんやりと暗く、しんとした部屋。私は大学生の妹と二人暮らしをしているが、最近は彼氏の家に入り浸っているようであまり顔を合わせていない。今日は土曜日だし、きっと帰ってこないのだろう。
濡れた折り畳み傘を広げて、玄関に置いた。滴る雫が、モルタルの床をじんわりと雨色に染める。
あれはなんだったんだろう………?
深い悲しみを湛えたような、でもどこまでも優しい目が忘れられない。この手を包んだ温もりが消えない。
テレビをつけても、本を開いても、何も入ってこない。
寝てしまおうと布団に入っても、頭から離れない。一人でぐるぐる考え続けて、眠れない。もしかしたら私はずっと夢の中にいるのか?あれは夢だったのか?あぁなんでこんな日に限って妹は帰ってこないんだ。
夢と現実の狭間をゆらゆらしているうち朝になった。
外はまだ雨が降っている。
携帯が鳴って、あわてて見ると妹だった。
「今日も泊まってくるねー、明日そのまま学校とバイト行くので帰り遅くなりまーす笑」
妹からのメッセージはいつも最後に「笑」がついていて、たいてい何がおかしいのかよくわからないのだけど、私はそれが好きだった。心がふわっとなる。珈琲でも淹れよう、と思った。

昨日よりも強く降る雨の音を聞きながら、安達さん今何してるんだろう、と考える。多少の雨では傘をささない、と言っていたのを思い出して愛しくなる。さすがにこれは多少の雨じゃないよね、傘持って出掛けたかな、昨日濡れて帰ってたけど大丈夫かな……

なんとなくわかっていた。安達さんと森田さん。歯車みたいに噛み合う二人。きっと安達さんは、森田さんとの歯車がちゃんと回るように、速さや方向を自分でコントロールしているのだと思う。本当は、もっと近づいて、同じ方向に回りたいのかもしれない。ファインダー越しに彼を見ているといつも、そんな心の奥が見えるような気がした。
皆を巻き込んで俺についてこい!ってタイプに見えて、実は誰より周りをよく見て合わせている。森田さんの歯車の先にいる、さえのことや、もしかしたら私のことも、きっと考えている。皆が楽しく笑顔でいられるように。平和な幸せを壊さないように。そんな彼がずっと好きだった。私の気持ちにも気付いているんだろうな…そのことが、彼を困らせているのかもしれないと思うと苦しい。好きってなんて苦しいんだ。あぁなんでこんなに好きなんだろう……!

結局それから何の連絡もなく、一週間が過ぎて、金曜の夜。安達さんからメッセージが来た。
「明日、11時頃迎えに行きます、よろしくねー」
了解です!楽しみにしてます!と入力した後、あの雨の日のことに触れようかと少し考えたがやめた。目を閉じ、明日のことを想像する。きっと彼は、車の中で皆の好きな音楽を順番にかけながら、終始楽しそうに明るく話し続けるのだろう。胸がきゅっとなる。
おやすみなさい、と付け足して、メッセージを送信し、そのまま眠った。

翌日のドライブは、私の想像した通りだった。
安達さんは、いつも誰より自分がいちばん積極的に楽しもうとする。そのことが、周りを笑顔にすると知っているのだと思う。
でも心の奥には、誰にも触れられぬ悲しみがきっとある。仄暗い影を消そうとする優しい明るさ。冷たく強い風が吹く真冬の海で、寒い、寒いとはしゃぐ彼を抱きしめたいくらい愛しく思う。私は、彼のために何ができるのだろう。安達さんが「カッコいいやつ」と言ってくれたカメラで、その姿を大切に抱きしめるように、必死でシャッターを切った。

さえと森田さんをマンションに送り届け、車の中で安達さんと二人になった。私は後部座席にいて、斜め後ろから安達さんの横顔を見つめる。
「よーし、ちょっとナビ入れるね、待ってて。」
「あの。」
「うん?」
「もう少し、ドライブ、してから帰りませんか…?」
彼はカーナビを操作する手を止め、
「こないだ、ごめんね、謝ろうと思ってて…ごめん。」
「…謝らないでください。」
私は泣き出しそうだった。でも決めていた。あなたの心の奥にある悲しみも全部、まるごと抱きしめたい。ただそこに寄り添って、隣にいたい。きっと、好きってこういうことだ。
「いいんです。ちゃんと悲しい顔してください。」
彼はずっと前を向いたままで、どんな顔をしているのか見えない。しばらく黙った後、
「ちょっと走るか、川沿いの道。ドライブしよ。」
いつものように明るい声。彼は静かに音楽をかけ、ゆっくり車を走らせた。

「唯ちゃんのカメラはさ、暗いとこでも撮れるの?」
誰かの大切にしているもののことを、いつも大切に見ていてくれる人。
「色々調節すれば撮れます、夜景とかも。」
「お、じゃあ俺にも教えてよ、ちょっと車停めるね。」
川の向こうに、青く光る観覧車。
「こんな感じで…覗いてみてください。」
「うわー綺麗だなー、これが唯ちゃんの見てる世界なんだ。」
ファインダーの向こう、同じ世界を共有する。
「唯ちゃんの写真ってさ、なんか優しくていいよね。心の奥に寄り添ってくれるみたいで。」
安達さんがシャッターを押す。
「あれー?ぶれぶれだ、難しいなぁ。」
暗闇の中に光が霞んでいる。涙で滲んだみたいに。
彼は泣いていたかもしれない。なんとなく、そうだといいなと思った。ありのままの心で、いてくれたら。
「安達さん。助手席に乗ってもいいですか?」
「…もちろん!」
彼の隣に座る。同じ景色を見る。
「さっきの写真、今度プレゼントしますね。」
「えー?あれ失敗だよ…?」
「素敵でした。すごく。」
「じゃあ、また教えて。今度は梅の花、撮りに行こう。それから桜も、花火も、紅葉も、雪景色も。」
私の右手を、彼の大きな左手の温もりが包む。私は、彼の心の奥にそっと触れるようにその手を握り返して、黙って大きく頷いた。

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