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やめられない執着の終わりと始まりは意外に簡単にやってくるはなし

わたしは珈琲飲みだ。
少々中毒的かもしれない。

水分=珈琲のように、飲んできた。
そして、年を重ねるごとに、
珈琲があまり体に合わなくなってきていることも
自覚してきた。

でも、心が「ほっとする友」として珈琲を欲しがるから、
早朝のひとり特別な時間は、
心地よく1日を始めるために「珈琲」は欠かせなかった。

以前はとても濃い珈琲を常飲していたが、
いまやもう、
アメリカンというにも薄いと思われる珈琲を、
水分を補給するように、
栄養分を補給するように、
ごくごく飲む至福。
それも朝だけ。

たまに外の喫茶店でうっかり「ブレンドコーヒー」を頼んでしまうと、
その濃さに体がびっくりするから、
いつも飲んでいる珈琲はよほど薄いのかもしれない。

すごく体調を崩した後は、
たいてい珈琲が飲めなくなって、
体が受け付けなくて、
数日から数週間やめてみることも何度もあったが、
何かのきっかけにまた飲みはじめてしまう。

でも、どうせ飲むならば、
罪悪感なく、美味しく嬉しく飲みたいから、
「やめた方がいいよなぁ」という気持ちを手放して、
朝の珈琲習慣を続けていた。
美味しいことには変わりないから。

でもそれが最近、
とても蛇足に感じ始めてきた。
気持ちは「飲まなくていい」と言っているけれども、
水筒に温かい飲み物が入っている安心感と、
朝はやはりほっとする何かを飲みたい欲求と、
ずれた幻想を保ちながら、
珈琲を淹れ続けていた。

そしたら、4日前。
娘がさらりと一言。
「もうやめたら?」

!!!!!!!!!!!

衝撃!!
そうだね...
そうだよね...
もうやめたらいいよね...
やめてみよう...!

その翌朝から3日。
珈琲を飲んでいない。
普通の人が聞いたら、そんなあたりまえに日々あることかもしれないけれど、
わたしにとっては、
とても新しい日常が生まれた。
珈琲を飲まないで始まる朝。

全く口にしません!
みたいな決意ではなくて、
蛇足で、ルーティンで、体と心の声を制してまで、
毎朝飲まなくてもいいんじゃないか?という新習慣。

ずっと握りしめていたものは
一体何だったのだろう。
新しい日常は、
意外にあっさりと始まるものだ。
そして、そのきっかけは、
意外にどこにでもあるような、
そんなふっと降ってくるような後押し・気づきなのかもしれない。

そして娘はとどめの一言のように付け足した。
「ママの内なる声は何て言ってるの??
 飲みたくないって言ってない??」
「・・・・・・」

降参...。



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