帰納と驚き 第4章 意識

 第1章では、私たちの知識および認識が、この世界を前提とした帰納によって得られることを確認した。
第3章では、「この世界」という言葉で私たちが素朴に思い浮かべる客観的世界が、意識に映る世界から帰納推論を経て獲得される概念であることが明らかになった。
つまり、知識と認識はこの客観的世界から帰納され、この客観的世界は意識に映る世界から帰納されているのだ。

 では、第3章で前提として扱った「意識に映る世界」とはいったい何なのだろう?
この問いかけに素朴に答えるなら、「視覚、触覚などの知覚を通して私の意識に映る、この客観的世界のうちのごく一部」ということになるだろうが、この答えはもはや採用できない。
第3章で見たとおり、「私の意識に映るごく一部」こそが「客観的世界」という認識の前提であり、その逆ではないからだ。
まず「客観的世界」があり、そしてその一部としての「意識に映るごく一部」があるのでなく、まず「意識に映る世界」があり、それを帰納的に延長したものとしての「客観的世界」があるのだ。

 しかしこれは実に奇妙な主張に思われる。
意識がこの客観的世界を映していないのだとすれば、意識に映し出されているものはいったい何なのだろう?
客観的世界が意識を前提としているのならば、その意識はいったい何を前提としているのだろうか?

 この問に答えるためには、ひとまず意識とは何かを解き明かさなければならない。

意識の概要

 意識とはいったい何なのか?

 第3章で自然の斉一性原理の発案者として登場した哲学者デイヴィッド・ヒュームは、意識を「知覚の集合」であるとし、その比喩として「劇場」という言葉を使っている。

 本稿ではこの劇場のかわりに、ヒュームの時代にはまだ存在しなかった映画館のスクリーンを意識の比喩として話を進めていきたい。

 意識のスクリーンにはじつにさまざまなものが映し出されている。
まず視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚などの知覚、いわゆる五感があり、それから空腹、渇き、性欲、疲労、吐き気などの内臓感覚があり、それらによって惹起される様々な感情がある。
そして、なによりも忘れてはならないのが、今私たちが没頭しているこの思考だ。
この文章を書いている今、私の意識のスクリーンにはいくつもの文の候補が、いくらかかしこまった声で読み上げられてはかき消され……を繰り返しているし、これを読んでいるあなたの意識のスクリーンには、今まさにこの文章が脳内の音声となって流れているはずだ。
意識のスクリーンには、このように考え事をしているときの心の声や、記憶をたどっているときの知覚を模したおぼろなイメージも映し出されている。

 以上が意識のスクリーンに投影される主だった要素だ。

集中と驚き

 ヒュームは意識を「知覚の集合」と考え、「劇場」という言葉でそれを例え、私はそこに感情や思考などを付け加えて、「スクリーン」に例えた。

 しかし意識には、様々な感覚の「集合」、あるいはそれらを映し出す「劇場」、「スクリーン」という受動的なイメージでは到底説明できない能動的な性質もある。

 私たちが何かに耳をすませたり、目を凝らしたりするとき、すなわち私たちが一つの対象に意識を集中するとき、その対象は意識のスクリーンのうえで、一際大きく鮮明に映し出されることになる。

 例えば、今、一旦この文章を離れて周囲の音に耳を傾ければ、空調の音、遠くを行く車のエンジン音、誰かの足音、あるいは自分自身の呼吸音などついさっきまで意識の端にものぼらなかったさまざまな音がスクリーンの中心に踊り出てくるし、その中から一つの音に意識を集中すれば、その音がより明瞭かつ精緻に聞こえるようになる。
そして、その一方でそれ以外の音やその他の感覚は意識の辺縁へと押しやられ、あるいはその淵からこぼれ落ちていく。

 以上は、受動的なものとしてイメージされがちな意識が能動的に変容するさまを描写したものだが、これと同様の変容が外部から今度は逆に受動的に引き起こされることがある。

 それは私たちが驚くときだ。
視野の端に思わぬものが飛びこんでくる。
突然、冷たいものに触れる。
あるいは、急に脈絡なく響き渡る音など、なにか思いがけない出来事に驚いて、それまで考えていたこと、見聞きしていたことなどを失念してしまった経験は誰にでもあるだろう。
そのとき、意識のスクリーンはその不意の来訪者の大写しに大半を占められていて、それ以外のささやかな知覚やそれまでの密やかな思索はその端から零れ落ちてしまっているのだ。

驚きに関する三つのポイント

 この「驚き」こそが意識の謎を解く鍵なのだが、その鍵の性質を明らかにするために、ここで少しだけ私の回想につきあっていただきたい。

 そのとき私は近所の歩道を歩いていた。
季節は冬で、色あせた青空に刷毛で引いたような雲が薄くたなびいている。
左手には瓦屋根の住宅が立ち並び、右手の車道には車がまばらに行き交っている。
頭上の電線にスズメが何匹も群がっていて、見上げるまでもなくその鳴き声が耳に届く。
視界の下端で左右の手が交互にゆらゆらと揺れて、その揺れに同期するように両の足が交互に前に出る。その、スニーカー越しに地面を蹴る感覚を足裏に感じる。
バババババババ、と突然けたたましい音がして、何かがバタバタと私の前のアスファルトに落ちて、そこで黒々とした影になって広がった、ーーように思われたのも一瞬のことで、それは地面に落ちた水だった。
垣根の向こうで家の住人が植物の水やりを始めたらしく、ホースの水が垣根の葉を打ち鳴らし、勢い余って歩道側にまで飛び出してきたのだ。
こっちに気づいた住人に「あ、すいません」と声をかけられ、私は「大丈夫です」と返事をした。

 これは先日実際にあった出来事を説明しやすく脚色したものだ。

 さて、さっそく問題の場面、突然の水つぶてに私が驚かされた瞬間を振り返ってみよう。

 あの瞬間、意識のスクリーンのほとんどは突然の音と足元に突如現れた黒いシミのようなものに占められていて、スズメのさえずりも空の青さも、あるいは私の手足の状態もほとんど認識されていなかった。
この「驚き」に際しても、特定の情報がスクリーンの大半を占めて、他のものは意識の辺縁に、あるいはその外に追いやられるという「集中」の際に見られたのと同じ現象が確認できる。
ただ、意識を集中するときと違っているのは、集中が能動的であるのに対して驚きは受動的だという点だ。
集中が私の意志に基づいていると感じられるのに対して、驚きは明らかに私の意志とは無関係に生じている。

 意識には特定の情報をクローズアップして映し出すように変容する性質があり、それは自発的能動的に引き起こすこともできれば、強制的受動的に引き起こされることもある。
これがポイント①だ。

ポイント①
意識には特定の情報をクローズアップして映し出すように変容する性質があり、それは自発的能動的に引き起こす(=集中)こともできれば、強制的受動的に引き起こされる(=驚き)こともある。

 意識における同一の現象が能動および受動という正反対の二通りの仕方で引き起こされる。このことは何を意味するのだろう?

 次に、なぜ私はあの時突然の音に驚いたのか、驚くことができたのかを考えてみよう。
私が驚いたのは、水つぶての音が大きかったからだろうか?
それともその音が突然聞こえてきたからだろうか?
いや、そうではなさそうだ。
音の大小でいえば、水つぶての音は車道を行く車のエンジン音と大差なく、音の唐突さでいえば、それはスズメのさえずりはじめと変わるところがなかったが、私は車の音やスズメのさえずりにいちいち驚いてはいなかった。

 では、逆に考えてみよう。
なぜ私は車の音やスズメのさえずりに驚かなかったのだろう?
それは車の音やスズメのさえずりが私にとって当たり前のものだったからだ。
言い換えるなら、それらの音が聞こえることを、私があらかじめ知っていたからだ。
それらの音が聞こえることが予測できていたから、私はそれらの音が聞こえてくるたびに驚いたりせずにすんだのだ。

 ここでようやく私が驚いた理由が見えてきた。
私が水の音に驚いたのは、私が水の音を予測していなかったからだ。
より正確にいえば、私は車の音やスズメのさえずりが聞こえることだけを予測していて、水の音の出現によりその予測が外れることになったからだ。

 ここでいう予測とは、「あ、もしかしたら横を車が通るかもしれないな」とか「そろそろスズメのさえずりが聞こえてきそうだな」などと意識のうえでひとつひとつそれとわかるような形でなされるものではなく、私自身は自分がそういう様々な予測をしていることを自覚していない。
それらの予測は無自覚に無意識のうちになされていて、自分が何かに驚いてはじめて、自分の予測が外れたことが知られ、予測が外れたことを知ることではじめて、自分が予測していたことが知られるだけだ。
なぜ私はあのとき突然の音に驚いたのか?の答えは、私は無自覚に世界の変化を予測していて、その予測が外れたから、ということになる。

 私は世界を無自覚に予測している、その予測の外れが驚きである。
これがポイント②だ。

ポイント②
私は世界を無自覚に予測している、その予測の外れが驚きである。

最後に、私はいったいいつ驚いたのかについて考えてみよう。

ポイント②を踏まえて素直に考えるなら、驚くためには
1.対象を認識する。
2.認識した対象と無自覚な予測とを照合する。
3.その不一致部分を大きくクローズアップで映すよう意識が変容する。
という過程が必要に思われる。

しかし、水音ははじめからけたたましい音として聞こえていた。
つまり、水音は意識のスクリーンに映し出されたそのときから、すでに大きくクローズアップされていたのだ。
それが意味するのは、私は水音が聞こえはじめたそのときからすでに驚いていたということ、すなわちステップ1の時点ですでにステップ3まで完了していたということだ。
水音が意識されたときにはすでに、予測との照合が済み、予測との不一致が確認されていて、その照合結果のもと意識は驚きの形に変容して水音を映し出している、ということ、これがポイント③だ。

ポイント③
私が驚くためには、対象を認識し、認識した対象と無自覚な予測とを照合し、その不一致部分を大きくクローズアップする、という三つのステップが要請されるが、実際の驚きに際しては、対象を認識した時点でその対象はすでにクローズアップされている。

意識の正体

 以上の三つのポイントをまとめてみよう。

ポイント①
意識には特定の情報をクローズアップして映し出すように変容する性質があり、それは自発的能動的に引き起こす(=集中)こともできれば、強制的受動的に引き起こされる(=驚き)こともある。
ポイント②
私は世界を無自覚に予測している、その予測の外れが驚きである。
ポイント③
私が驚くためには、対象を認識し、認識した対象と無自覚な予測とを照合し、その不一致部分を大きくクローズアップする、という三つのステップが要請されるが、実際の驚きに際しては、対象を認識した時点でその対象はすでにクローズアップされている。


 これら三点が示す意識像とはどういうものだろうか。

 ポイント①は意識のあるひとつの状態が能動的または受動的に、つまり正反対の二つの仕方で惹起されることを示している。
これはつまり、意識の構成に私側の要素(=能動的)と私でない側の要素(=受動的)の二つの要素が関わっているということだ。

 ポイント②は、その私側の要素と私でない側の要素、それぞれが何を指しているかを教えてくれる。
「私は世界を予測している」
この「予測」が私側の要素だ。
そして、その「予測」に対する私でない側の要素とは、予測される対象であり、かつ予測と照合される対象でもある「世界」ということになる。

 そしてポイント③から、私側の要素である予測と私でない側の要素である世界がどのように意識の構成に関わっているかを読み取ることができる。
ポイント③はつまり、「認識の形成」「予測と世界の照合」「不一致部分のクローズアップ」の三つのステップがすべて同時に生起していること、これらがすべて同じひとつの事象であることを示唆しているのだ。
予測と世界を照合することがそのまま両者の不一致部分をクローズアップすることと同義であるような仕方で、予測と世界によって認識およびその総体である意識が形作られている。

 これらの条件から、ひとつの意識像が導き出される。

 すなわち、意識とは、私側の要素である「無自覚な予測」と私でない側の要素である「実際の世界」とが邂逅することによって生じる境界面なのだ。

 二つの水の流れが合流する場面を考えてみよう。
二つの水流の方向と速度が一致していたなら、水流はただ一体となって合流前と変わることなく流れていくだろう。
しかし、その方向や速度が違っていたら、二つの流れはその交わるところで衝突することになる。その衝突するところに、一つの境界面ができる。

 この水流の比喩のうち、片方の水流が「無自覚な予測」に、もう片方の水流が「実際の世界」にあたり、そして、それら二つの衝突によって生じる境界面が意識にあたる。

 私は無自覚に世界を予測していて、その予測が実際の世界と邂逅する。
その邂逅の場が意識なのだ。

 二つの水流の方向と速度が違えば違うほどに両者の衝突は激しさを増し、そこにひときわ明瞭な境界面を形作るように、私の予測と実際の世界においてもその不一致の程度が境界面のあり方を決定することになる。
予測と世界の差異の程度が大きければ大きいほど二者の境界面(すなわち意識)は明瞭に現れ、逆に小さければ小さいほど曖昧に現れる。

 以上のようにして、私の予測と実際の世界の邂逅によって、両者の照合、不一致部分の強調、そして境界面の形成の三つが同時に達成されることになる。

 驚きとは、私の無自覚な予測と実際の世界が部分的に大きく乖離した際に、その乖離した部分の境界面(すなわち意識の一部分)がひときわ明瞭に厚く形成される現象なのだ。

いくつかの補論

 私は無自覚に世界の変化を予測している。
その変化の予測が実際の世界と衝突して、その二つの不一致の程度に応じてそこに境界面としての意識が形成される。

 この意識の構造を前提とした場合、上記の驚きにまつわる問題がその構造によってどのように説明されるかを改めて見てみよう。

 まずは、ポイント③の「対象の認識」「認識した対象と無自覚な予測の照合」「その不一致部分のクローズアップ」という三つのステップがいかにして同時に起こっているのか、について。

 先に述べたとおり、意識とは予測と実際の世界の邂逅によって生じる境界面なので、対象が認識されているときには、それはすでに予測と世界を照合した結果の差異としてそこに現れている。
 つまり、私たちが対象を認識するそのときには、予測と世界の照合は両者の邂逅という形ですでになされているということだ。
 また、その認識される対象とは予測と世界の差異そのものであるため、当然対象の意識への現れ方は予測と世界の差異の程度を反映することになる。
それゆえ、私の無自覚な予測が実際の世界から大きく外れていた場合、その不一致部分は初めからクローズアップで私の意識に現れるのだ。
 「対象の認識」「認識した対象と無自覚な予測の照合」「その不一致部分のクローズアップ」の三つのステップは、意識の構造をそれぞれ異なる角度で描写しているにすぎず、それらは必然的に同時に生起するということだ。

 次に、ポイント①の意識変容の受動性と能動性について。

 意識変容の受動性(驚き)についてはすでに上に述べたとおりだ。
私の無自覚な予測に対して、実際の世界が大きく違って現れると、二者の間の差異の大きな部分が、その差異の程度に応じて意識に大きく映し出されることになる。私の側ではなく、世界の側が変化することで引き起こされるこの意識変容が、私たちが一般的に「驚き」と呼んでいる現象だ。

 では、能動的な意識変容はどのように説明されるのだろうか?
特定の対象に対する予測の密度があがる(細かく予測するようになる)と、その密度に応じて実際の世界との差異も細密に抽出され、結果その対象はやはり意識に大きく精緻に映し出されることになる(先に示した、周囲の音に耳を傾ける例がこれにあたる)。
私たちが何かに意識を集中するという行為は、その対象に対する予測の密度を上昇させることを意味していたのだ。
意識が予測と世界の差異によって構成されているからこそ、私と世界どちらの要因であっても差異が増減すれば、意識はその差異の程度に合わせて変容することになる。
私たちはそのうちの私側の要因で差異が増大する現象を集中、世界側の要因で差異が増大する現象を驚きと呼んでいるというわけだ。


 以上、私が何かに驚くときの意識のあり方を始点として、意識の構造を概観した。
意識とは、私の無自覚な予測と実際の世界が邂逅する際に生じる、その二者の間の差異によって構成される境界面だった。
私の無自覚な予測は大小さまざまな程度で外れていて、一般的にはそのうちの程度の大きいものが「驚き」と呼ばれている。
予測の小さな外れまですべてを含めて広義の「驚き」と考えるなら、意識とは予測が外れる際の驚きそのものだと言えるだろう。

 私が驚くことができるのは、意識が私の予測と実際の世界の邂逅の場であり、すなわち驚きそのものだからなのだ。

不十分な答え

 本章の冒頭に提示した問は、「前章で扱った客観的世界の前提として要請される意識に映る世界とは何か?」であった。
一般的な用法に則していえば、「意識に映る世界」とは、先述した意識の正体から内臓感覚や感情、思考などの内的要素を引いたものということになるだろう。
しかし、私たちの心身もまた世界の一部であることを考えると、この内外の区別は本質的ではない。
本稿では、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚などの知覚に、空腹、渇き、性欲、疲労、吐き気などの内臓感覚、そして感情や思考などすべてを含んで意識に映る世界を意識世界と呼ぶことにしたい。
意識と意識世界はほとんど同義であるが、客観的世界や主観的世界、今後登場する前提世界や原世界など、他の「世界」との対比が重要となる際に「意識世界」を使用する。

 すると、冒頭の問は「前章で扱った客観的世界の前提として要請される意識世界とは何か?」と書きなおされることになるのだが、本章はこの問に対して十分に答えられてはいない。

 本章の結論では意識の前提として「予測」と「世界」が要請されていたが、私たちが一般的に言う「予測」とは意識のうえでなされるものだ。
意識のうえでなされるのではなくその前提としてある「予測」とは何か?

 また「世界」に関しても同様の問題がある。
前章までの考察によれば客観的世界は目の前の状況を前提としていて、目の前の状況とはすなわち意識世界だった。であれば、この意識の前提として言及されている「世界」とはいったい何か?

 次章以降では、この意識の構造の前提となる「予測」と「世界」について詳述していこう。

まとめ

・意識とは、私の無自覚な予測と実際の世界が邂逅する際に生じる、その二者の間の差異によって構成される境界面である。

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