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「相手のために褒める人」と「自分のために褒める人」の違い

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「素晴らしい」と思ったことを相手に伝えるのは、案外ハードルが高いということに最近気がつきました。

というのも、ただ「素晴らしいです」と伝えるだけでは、相手に響かないからなんです。

的はずれなところを褒められても、全然嬉しくないですよね。

ちゃんと、具体的に何がどう素晴らしいのかを消化して、それを言語化してはじめて相手に喜んでもらえると思うんです。

でも、これはすごく気力と時間が必要で…。だから、消化して言語化する過程を省略してしまう人が多いのかと思います。(私も含めて)

このような思考停止状態に陥らず「消化→言語化」の過程を踏める人は「相手のために褒める人」だな〜と感じるんですよね。

(ここでいう「相手のために褒める」というのは、「相手に伝わるように褒める」という意味に近いです)


一方で、ただ漠然と「素晴らしいです」などと伝えるのは、「自分のために褒める人」なのかもしれません。

「相手が喜ぶだろう」とか「相手のモチベーションが上がるだろう」という一種のエゴが垣間見えことがよくあります。

また、「返報性の法則」によって、一種の「借り」を返すために褒めることがあるのかも。

人から何かをもらったときや人に親切にしてもらったとき、何かお返しをしたい気持ちになりますよね。

時には、お返しせずいにはいられなくなりませんか?

これを「返報性の法則」というそうです。(詳細は、「影響力の武器 なぜ、人は動かされるのか」に書かれています)

人から何かをしてもらった時、ざっくりと「さすがですね〜」みたいに返答するのは、これに当たるのかもしれないと感じます。

親切や労力を受け取った「借り」を返すために(≒自分の気持ちの負担を軽くするために)相手を褒める、というケースです。

こういうケースで「⚪︎⚪︎さん、さすがです」と言われても正直あまり嬉しくないのですが、相手が感謝の気持ちを消化して、それを言語化した言葉であれば、心底嬉しく感動します。


(ちょっと話が逸れるのですが・・・)

最近、チャットで「問題ありません」という表現をよくみかけます。

「問題ありません」は、個人的には苦手な表現です。「問題ありません=及第点=ぎりぎり合格ライン」というイメージを抱くんですよね。悪くはないけど決して良くはない、みたいに。

だから、記事を納品した時やチーム内の連絡事項で「問題ありません」という返答を受けると、とてもがっかりします。

これも、一種の思考停止なんじゃないかと思っていて。

本当は褒めたいけど、具体的にどう褒めるのが良いかを考えるのが負担だ
→無難に「問題ありません」と返答しよう

という流れなのかな、と。


先日、こんなことがありました。

チームであれこれやりとりしながら作り上げた渾身の記事があったのですが、納品時の返答が「問題ありません」でした。

でも、後日この記事についての感想を聞いたところ「図が凝っていて、驚いて二度見しました!!!!記事の内容も、こちらの意図をうまく汲み取っていただいていました!」と言ってもらえたんですよね。

こんな風に感じていても「問題ありません」で済ませてしまうんだな〜と、なんだかとても残念で。


ビジネスでは、毎回「相手のために褒める」ことは不可能だと思います。

でも「ここぞ!」という時は、エゴや借りを返すためじゃなくて、相手のために褒めるようにしたいんです。

相手が尽力してくれたのがわかった時や心から「素晴らしい!」と感じた時、相手の心遣いを感じた時は、私の中では「ここぞ!」というタイミング。

そういう時は、自分の中に湧き上がった感情をきちんと消化して、過不足ない表現で言語化して相手に伝えたいな、と思っています。


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