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4年目に突入しました

あれよあれよと時は過ぎ、2021年も下半期に突入しました。

下半期に突入と同時に、わたしの中でもひとつの区切りがやってきました。

この6月でわたしは、ナレーションのお仕事をさせていただくようになってから丸3年が経ちました。そして7月からは4年目に突入です。

昔、こんなことを聞きました。

「1年続けられたら3年、3年続けられたら5年、5年続けられたら、10年続けられるよ」

出どころも、誰が言っていたのかも忘れてしまいましたが、ずっと頭の隅に残っています。そしてこの言葉を信じていました。

だからこそ、4年目に突入できたことが感慨深いのです。「3年」を終えられたのだ、と。1年が終わった時、次は3年だと思いました。そしてその3年が終わった今、次は5年だと思っています。

最初の1年は、本当に3年も続けられるのだろうかと、何度も何度も思いました。やめようかな。諦めようかな。そんな言葉を何度も口にしていました。それでも1つ1つ、いただいたお仕事、いただいた原稿に向き合っていたら、あっという間に3年が過ぎていました。

そろそろこれまでの原稿を整理しようと、重い腰をあげて片付け始めました。思ったよりも色んな原稿を読ませていただいていました。まだ一部しか整理できていないのですが、その厚みを見て、ちょっとした自信に繋がりました。たまには振り返るのも、いいものですね。

わたし一人で続けてきたとは微塵も思いません。事務所の皆様、クライアント様、応援してくださる皆様、サポートしてくれる家族や友人があってこその、「ナレーター 遠藤葵」です。だから、これはみんなで分かち合いたい。そんな気分なのです。

そんなふうに一瞬で過ぎ去っていった3年。その間に、頭の片隅でぼんやりと考えていたことがあります。

よく「〇〇を通して、夢を与えられるような人になりたいです!」とか、「▲▲を通して、□□に貢献します」とか、そんなミッションや使命のようなものを掲げられている方を見かけます。何か情熱やきっかけがあって、そのような使命に辿り着いたのでしょう。見かけるたびに、凄いなぁ、素敵だなぁ、と思います。なぜなら、わたしにはそんな何か掲げられるものがないからです。ナレーションのお仕事を始めた頃、わたしには何もありませんでした。ナレーションだけではありません。これまでの人生で、何かミッションめいたものだったり、周りの人にこういう影響を与えていける人になりたい、みたいな情熱だったりを、持ち合わせたことがありませんでした。夢ややりたいことは、いつだって明確にあります。でもなんだか、自分がそういうことを思うと非常に陳腐なものに感じたり、おこがましさMAXだわと思ってしまって、思うことがあっても、いやいやいやいやと封じ込めてしまいます。

何のためにやるのかは、いつだって非常にシンプルでした。いつだって「自分が好きだから」「自分がやりたいと思ったから」。それ以上でも以下でもない。突き詰めていけば、なんだって自分のため。それが人間ってもんじゃない?と思っているからです。

ナレーションに関しては、その「自分が好きだから」と得意かもしれないことが交わったところにありました。決して自分一人では見つけることができなかった交差点でした。アドバイスしてくださった方がいたのです。自分の中では珍しく、好きを持ちつつ、流されてみた感覚です。そうしたら、ナレーションという島に辿りついた。そこで生活してみたら、3年が経っていた。そんな感覚。

話を戻しますと、そんな「自分が好きだから」を行動原理としている自分も、いつかは「このためにやるんだ!」と気づくことがあるのだろうか。そんなことをぼんやり思っていました。「自分が好きだから」は、矢印が自分に向いています。前述したミッションや使命のようなものは、矢印が外に向いています。周りに影響を及ぼすものだからです。わたしも、矢印が外に向くときがくるのだろうか。それに気付くときが来るのだろうか、と。

ずっと「好きだから」だけでは、きっとやっていけない。「好きだから」は最強だと思うし、その考えは変わらないと思います。「好きだから」が核であるからこそ、わたしは進めるのだと思います。だから、「好きだから」は絶対に手放さないし、手放したときが試合終了かと。

とはいえ、これは仕事だから。きっときっと、仕事にする以上、視界が開けることがある気がする。それまでは、無理に何かを掲げる必要はない。それは嘘になるから。嘘で持つようなものでもないし、見栄を張るようなものでもない。見えてきたときに、感じられたときに、あぁそうかと納得して、そしてそれを持ってまた前に進めたらいいや。それまで待とう。そう思って、どっしりと構えることにしました。考えるべきことは、それこそお仕事ですから、他に山ほどありますしね。

そして今。薄らぼんやりではありますが、感じることがあります。

ナレーションの役割は多岐に渡ると思います。アナウンス的な役割だったり、ガイド的な役割だったり、時には深みを、時には軽快さを足す役割だったり。その時その時、求められる役目というものが違うと感じています。

じゃあ、その役割に共通するものって何だろう?

そう考えると、わたしは「何かと何かが出会い、そして繋がる」ことをお手伝いする。そんなポジションなんじゃないかと、身を持って感じるようになりました。何かに当たるものは様々です。人と人、人と物、人とサービス、人と知識、会社と会社、会社と個人。そこには必ず出会いがあります。出会うために、繋ぐために、その作品を創っている。出会って繋がった先に待っているのは、ひらめきかもしれない。納得かもしれない。快適さかもしれない。高揚感かもしれない。不安かもしれない。安心かもしれない。ドキドキかもしれない。緊張かもしれない。それは、その作品に触れてくださった方によって違うと思います。でもきっと、何かが起きているはず。だってそのために創っているのだから。

ナレーターと名乗る前、たくさんのことを教えてくださった先生方は、それぞれ「ナレーションとはこういう役割だよ」と教えてくださいました。だから、知識としては知っているし、そうあるべきだと、そうあるようにと、取り組んできました。

あぁ、ですが、やはり、経験に勝るものはありませんね。実際に自分で感じて、ストンと腑に落ちると言いますか、分かることってあるんですよね。

今のところ、わたしにとっての「ナレーションとは」は、「出会い繋ぐ、そのお手伝い」という言葉がしっくりきています。そしてそれは、外向きの矢印なのだと思います。「好きだから」という内向きの矢印ではないものだと思っています。自分の核になり得るもの、と言い換えてもいいかもしれません。

きっとこれからも経験するであろうお仕事を通して、この定義はここから進化していくことでしょう。それに応じて、外向きの矢印も変化していくのかもしれません。それはそれで楽しみってもんです。


5年目が終わる頃、わたしは一体どんなことを感じているのだろう。どんなことを考えているのだろう。そして振り返ってみて、どんな顔をするのだろう。

それまでは前を見て、ひとつひとつのお仕事に、一日一日の日々に、真摯に向き合って参ります。


p.s.
タイミングは偶然だったのですが、ボイスサンプルを一新しました。

是非一度、足を運んでいただいて、よろしければお耳も拝借させていただきたく存じます。

お仕事のご相談・ご依頼は、事務所へお問い合わせ下さい。

何卒、よろしくお願いいたします。

2021.07.07
遠藤 葵


ご覧いただき、誠にありがとうございます! 今後ともどうぞよろしくお願いいたします☺︎