20230716 「君たちはどう生きるか」を観る(若干のネタバレ)

宮崎駿「君たちはどう生きるか」を見てきた。

私はおもしろく見たが、もしかしたら、ファン向けの映画なのかもしれない。もちろん、アニメーションとしての単純なエンターテイメント性もあるのだが、それなりにでも筋道立った物語として理解するには、結構、知的に要求するものがある(子供には説明しにくいところもあろう)。そしてまた、私小説ならぬ私映画のようなところもあり、セルフオマージュのようなところもあり、私自身、常に「作者」宮崎駿をスクリーンの向こうに意識して見てしまった。そして、この作品よりも、終盤の「積み木」の「石」に、そしてエンドロールの終わりの宮崎駿の文字に、彼の、一言で言えば世界への貢献を思い、そして、彼の「最後の作品」=死への覚悟を思い、うるっときてしまった。

言わば、父殺しならぬ、父の死――そんな印象である。父としての、宮崎駿の死。少年は父(大おじ)の「仕事」は継がない。しかし、何かしらは、継いでいる。少年の亡き母が『君たちはどう生きるか』を成長後の少年のために遺したように、父もまた何かを遺している。宮崎駿の「仕事」――長編監督作品「君たちはどう生きるか」までの13個だろうか? ――は誰にも継がれない。宮崎駿の「仕事」は、宮崎駿の死とともに終わる。そして、少年は、どう生きるのか――。

追記
アオサギ……何だか、『海辺のカフカ』のカラスだったのではないかという気がしてきた。アレもまた少年の性の目覚め、エディプス的欲望の物語を下敷きとしており、たまたま同じようなイメージになったのかもしれないが、あるいは、引用なのかもしれない。作中に「禁忌」と出てくるが、それは、少年「眞人」が無意識には欲望(夢)していながら現実には見舞いになかなか行かないように「夏子」叔母を遠ざける、その遠ざけさせているものと同じく近親相姦の禁忌であり、彼が犯したのは母=少女との象徴的な、物語的な近親相姦なのであった(夏子が少年を拒む台詞は、この禁忌が言わせるものではなかろうか)。母=少女=ヒロイン(簡単に言えば、母性の強いヒロイン)というのは宮崎駿の好むキャラクター造形であり、そのようにして母を少女へとズラすことは、言わば近親相姦の禁忌を回避する仕組みとして機能してきたわけだが、本作においてついに、超自我(刀を振り回す父、包丁や鋏や剣を持ったインコ=去勢不安?!)が現れたのだと言えよう。

煙草――当然父のものであるそれを、少年はかすめ取る。その前に父と夏子のキスを盗み聞くシーンが描かれていたことを思えば、煙草を盗むことにも性的な意味が読み取れる。そして、爺に(!)教わって手作りする少年の不格好な弓矢に対して、父を象徴するのは立派な本物の弓矢であり、それは母=夏子の所有物であって、射られることでアオサギの言葉=母への欲望を遮るのである。

トイレで?!(爺(じい)に教わってゴシゴシと削る弓矢作りと合わせて、自慰の暗示)粉々にくだける木刀は男根であり、巨大な魚の肉を割く包丁もそうだし、少年がなぜか惹かれ、後には母がいると認識される「塔」(それは多くの犠牲の末に、大量の本=理性の建築によって覆われている)の入り口や、「死の島」的な「墓」(破瓜?! 無論木々は陰毛である)は女性器である(無論どちらも物語において「入ってはいけない」穴として設定されている。禁忌なのである)。フロイト的には、船だって女性器であり、キリコに手を引かれ船に乗り、キリコに導かれるままに魚のはらわたに包丁を挿入することは、象徴的性行為だ。極めて露骨な、意識的なエディプスコンプレックスの前景化であるが、一方で、インコたちのあり方を見ていると、そうした見方を誘う罠のようにも思えるのであった。

インコたち……物語を動かすキャラクターでありながら、一方で、いかにも意味ありげな「鍛冶屋」の不在に象徴されるように、物語的な物語を台無しにする存在でもある。インコ……決まった言葉を繰り返すものとしてイメージされる彼ら。

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