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辻山良雄×nakabanトーク「絵と文で本を旅する四十景」@Title 第一回

2019年1月24日に、荻窪の本屋Titleで開催された「絵と文で本を旅する四十景 辻山良雄×nakaban」トークイベントの模様を、ダイジェスト(と言いつつ結構がっつり長めです…読みごたえあり!)にまとめました。
全3回でお送りします。

「狙い通りに描いて差し出す絵」と、
「自分でもわからないままに描けてしまった絵」

辻山 『ことばの生まれる景色』という本には、Titleで展示した作品に本のための書き下ろしを加えて、全部で40編が収録されています。取り上げた本について、私が「ここが印象的だなあ」と思った一節と、「自分はこの本をこう読んだ」ということを書いた文章をnakabanさんに送り、nakabanさんがその本や、言葉の印象から絵を描きました。本になって改めて見てみると、それぞれやっぱり絵の雰囲気が違いますね。たとえば表紙の絵は、星野道夫の『旅をする木』という本の絵なんですが、神保町で、星野さんがアラスカの写真集をある日偶然手に取って、見知らぬ異国に思いを馳せるという一節があるんですね。その場面をnakabanさんはうまく描かれていますが、今回、「これはちょっと描きづらいなあ」とか「難しかったなあ」とか、そういう本はありましたか?

nakaban それはいろんな種類でありますね。思いつくところでいえば……谷川俊太郎さんなんかは、実際にTitleに来店されるじゃないですか。

辻山 うん、実際に展示を見にいらっしゃいましたね。

nakaban やっぱりいらっしゃるということを意識してしまいます……。詩もちょっと抽象的で。そのまま絵にするのも悔しいし。まあそういう難しさはありましたね。あと、もともと絵本なのに、それに絵を描いてくださいというのとか(笑)。

辻山 『おやすみなさい おつきさま』ですね。ふふふ。でもnakabanさんが「いいですよ」とおっしゃったので。

nakaban 「いいですよ」というか、「い、いいですよ」っていう感じですね。実際にメールで送るときには消して、「いいですよ」とだけ送ってる感じなんですけれど(笑)。

辻山 実はそういう葛藤があったと。

nakaban うん。やっぱり大変な課題をいただくと、頑張りたくなるというか。そういう性格を、辻山さんはわかってるなあと(笑)。

辻山 谷川さんの作品は、Titleでの最初の展示の時には「芝生」という詩を絵と一緒につけていたんですよね。「そして私はいつか/どこかから来て/不意にこの芝生の上に立っていた/なすべきことはすべて/私の細胞が記憶していた」という詩です。nakabanさんの絵は、ちょっとクレー風に描かれていて、孤独な感じがよく出ているなあと思いました。

『自選 谷川俊太郎詩集』谷川俊太郎 画・nakaban

nakaban 絵にもふたつあって、この絵がなんなのか僕自身もわからないままお届けする絵と、自分の狙い通りにデザインして「どうぞ」と差し出すような絵と、あるんですね。

辻山 描いているときや描き上がったときは、自分でもなぜこの絵なのかっていうのは、あんまりちゃんと言葉にはなっていない感じなんですか?

nakaban 「言葉にはなっていないんだけれど、何か根拠がある」という感じですかね。わからないまましばらく飾っていたら、その絵が何かを教えてくれる、というような。『ことばの生まれる景色』の絵でこだわったのは、その要素を全部の絵に入れるということなんです。つまり、自分がデザインした、構図も計算通りの絵なんだけれど、どこかミステリアスで発想の根拠がわからない、けれど何か根拠の手触りがある。そういうものを、絵のどこかにしのばせてやろうじゃないかと。それがないと単なる「挿絵」になってしまうので。この本と、普段の挿絵の仕事とどう違うのかなと思いながら描いていました。

『おやすみなさい おつきさま』マーガレット・ワイズ・ブラウン
画・nakaban

くのが難しかった作品と、読んでみて面白かった作品

辻山 ブラウンの『おやすみなさい おつきさま』の絵とか、ゲーテの『色彩論』の絵とか、このへんの青色はやっぱりnakabanさんだなあと思うんですが、あまり今までにないような絵もありますよね。たとえば高橋源一郎さんの『さようなら、ギャングたち』なんかは、黄色い街がずーっと塗り込められているような絵ですし、『方丈記』のように、荒涼とした銀色の世界のような絵もあったり。私もけっこうnakabanさんの絵は見ているほうだと思うんですが、今までにこういう雰囲気の絵は見たことなかったなあ、というものが多かったです。こういう絵は、ぽろっと出てきたんでしょうか。

nakaban いや、結構意識的に、「変えてやろう」と思っていましたね。途中で本になることが決まっていたので、そうすると本の中に違うスタイルを入れたくなってくるんですよね。前半に、まあ僕っぽい絵というか、そういうのがもう何枚かあるので、もっと遊んだほうがいいんじゃないかと。「遊ぶ」というか、いろいろ試したほうが本に奥行きが出るんじゃないかなあとか、そんなことを思い始めたんですね。それは辻山さんの本のセレクトにも出ていたと思うんです。急に日本の文学が入ってきたりとか。

辻山 そうですね。nakabanさんの、ちょっと旅の雰囲気のある絵とか、ヨーロッパを描いた絵というのは結構これまでにも見ているんですが、たとえば夏目漱石とか谷崎潤一郎とかをnakabanさんに渡した時に、どういう世界になるんだろうという、ちょっと意地が悪い好奇心がありまして。それでお題を作ったというのが、後半はわりと多いですね。

nakaban 『方丈記』は本当に難しくて、困ったなあと思っていたら、高橋源一郎さんの書かれた「琵琶を奏でるとグルーヴが最高だった」みたいな『方丈記』を現代語訳した文章を見つけて、それを読んで「これでやっと描ける」と思ったんですよね。

辻山 河出の世界文学全集の訳ですね。あれは『方丈記』というよりは、高橋さんの小説ですよね、読まれた方はわかると思いますが。古典だと、そういう遊びを許してくれるところがありますね。『源氏物語』なんかも、元の話は大体の人は知っているけれども、それがどういう演奏で流れてくるかで全然違う曲に聴こえたりすることも多いと思います。

nakaban なるほど。

辻山 逆にnakabanさんが絵を描かれていて、これは自分の設計通りにいったなあという絵はありますか?

nakaban そうですねえ……モランディなんかはもう、ばっちりモランディが乗り移ったような絵が描けたのでうれしかったです。

辻山 ああ、モランディの絵のような色のトーンでしたね。ちょうど2年前くらいに東京と神戸でモランディの展覧会がありましたね。モランディって、瓶とかそういうものが並んでいる静物画が多いから、ものすごく抽象的な人なのかなと私は思っていたんですが、実際に絵を見ると、もう本当に具体的な絵というか、描いた人の体温が伝わってくる感じがするんですね。色づかいだったりくすみだったり、そういうものがとても大切にされていて。

nakaban そうですね。宮沢賢治の「なめとこ山の熊」も、イメージと絵がばっちり同じになったのでうれしかったです。なんか小学生の感想みたいだけど(笑)。

辻山 nakabanさんが実際に描くために読んでみて、面白かったなあと思った本ってありますか?

nakaban うーん、例えば『パタゴニア』とか。普段は人に薦められれば薦められるほど読まないのに、それがとうとう読んでしまった、みたいな(笑)。もっと早く読めばよかったなあと思いましたね。

辻山 面白いですよね。

『さようなら、ギャングたち』高橋源一郎 画・nakaban

 nakaban 『さようなら、ギャングたち』も、80年代のあのアバンギャルドな感じって今となっては貴重じゃないですか。それがちゃんと全部文章になってるんだなあと思いました。面白い感想は言えないですが、太宰治の『津軽』とかもびっくりして。こんな軽薄な文章……(笑)。

辻山 軽薄でしたっけ(笑)。

nakaban 軽いというか。ああ、こんなお仕事もされていたんだなあと思いました。

辻山 確かに、軽さがありますね。今回、太宰は『津軽』、漱石は『門』を選んだんですが、多分、太宰だったら晩年の『人間失格』なんかのほうが有名かなと思うんですが、やっぱり『津軽』は「愛すべき小品」というか。太宰が本当にいきいきと楽しんでいる姿が感じられますよね。すごくのびのびと書いているような、そういう雰囲気があります。

nakaban 『苦海浄土』もかなり構えて読んだんですが、よかったです。

辻山 石牟礼さんはもともと詩を書かれるかたなので、文章自体のリズムがすごくいいし、まあ熊本の方言なので、入っていくまでにちょっと時間がかかるかもしれないですが、一回入ってしまえば、もう声が聞こえてきそうな……。

nakaban そうなんですよ、その方言がもう気持ちよくて。

画家nakabanになるまで

辻山 nakabanさんは、学校を出てすぐに絵を描く仕事につかれたんですか?

nakaban いえいえ、もう全然。学校を出てちょっと就職しまして。

辻山 えっ、就職してたんですか!

nakaban そうです。大阪で就職して、公文書とか作ったりしてました(笑)。子どもたちがワークショップをするような、アート関係の公的な施設で働いていたんです。でも、「途中まではアートなんだけれど、最終的にやりたいことは絶対できない」というような、中途半端にアート的な仕事をやるストレスがすごくありまして。それならアルバイトをしていたほうがずっといいと思って辞めました。それから、絵の仕事をもう一回ちゃんとやりたいという気持ちでまたリ・スタートしまして。鎌倉のボロいアパートでずーっと絵を描いていました。当時は毎日コラージュを制作していたんです。コラージュってどうやっても「いい」から、満足しちゃうとそこでジ・エンドなんです。だからコラージュを通して、「満足しない」という勉強をしていたというか。それから少しずつレコードジャケットの仕事をやったり、ちょっと社会の役に立つようなこともやり始めるようになりました。

辻山 絵と自分で社会に接点ができてきたというか。

nakaban うん。まあそれからいろいろ省略して今に至る、という感じです。

辻山 それから大体二十年近く絵を描かれていて、だんだん本も作られるようになって、昔と比べて自分の絵が変わってきたなあとか、そういうのは感じますか?

nakaban あります、あります。聞きたいですよねえ。

辻山 ……聞きたいです(笑)。

nakaban でも自分ではうまく言葉にできないなあ(笑)。たとえばちょっと前に描いた絵を整理しますよね。そうすると嫌なんですよねえ、昔の絵って。あんまり好きじゃないなー、今のほうがいいなー、っていう気持ちがあるんです。ということは変わったのかな?くらいのことなんですけれども。やっぱり以前はちょっとわざとらしい絵が多かったような気がします。でも、今の僕の絵も、何年後かの僕が見たら「あざとい」とかいろいろ言うのかもしれないですけどね。ああ、やり直したいなあ、と思う絵もいっぱいあるんですが、「これはその時にしか描けない絵だよ」と言ってくださる方もいるので、ああ、それもそうだなあ、と思って納得はしています。

辻山 具体的には、線の描き方とか、今ならこうしないなあというものが多い、ということでしょうか。

nakaban そうですね。力技でやってしまっているところがどんどん減っていって、なんとなく落ち着くポイントに向けて描けているような気がしますね。でもそれをずっとやるとまた「マンネリだ!」とかひとりで言い始めて、変えていくことになっちゃうんだと思いますが。

変わらない部分と、変わっていく部分と

辻山 今回改めてnakabanさんの絵本を読んでみたんですが、たとえばnakabanさんが昔作られた『みずいろのぞう』という絵本は、川のモチーフが出てきたり、どんどん外に向かって歩いていく、という旅をするお話です。最近だと、去年作られた『ぼくとたいようのふね』という絵本がありますが、nakabanさんは昔から変わっていない部分も多いなあと思いました。

nakaban 今おっしゃった『ぼくとたいようのふね』という絵本と『みずいろのぞう』という絵本を並べて見たときに、「おんなじことしか言ってないじゃないか!」と自分でもちょっと批判的に思ってしまって(笑)。これは僕の好きなテーマなんだな、と客観視できたこともあるし、だから大事にしたいという思いもあるんですが。

辻山 完成したらわりと似ていたと(笑)。

nakaban やっぱり似てた。読後感とか。それぞれテーマは違うんですが、結局いろんなことをやっているつもりでも、まあピアソラの曲調みたいなもので、他人から見たらどれも同じ感じじゃないかと。

辻山 でもだからこそ、nakabanさんの中でそれが本当に言いたいことというか、強いメッセージなのかもしれないですね。

nakaban うん、だから両方あります。「これでいいのかな?」というのと、「これでいいのだ!」というのと。

辻山 そういう旅のイメージというか、「ここではないところに行く」というのは、やっぱり旅がお好きだったりとか、ちょっと漂泊してみたいとか、『方丈記』や尾崎放哉のような気持ちがnakabanさんの中にあるんでしょうか。

nakaban 尾崎放哉みたいな旅はいやだなあ(笑)、かっこいいとは思いますけれど。自由に憧れる気持ちはありますよね。旅をすると、ルーティンじゃないものに出会う確率が上がるじゃないですか。それはまさに絵を描くことにおいて僕が求めていることで、つまりマンネリが怖いっていうことでもあるんです。何か違ったものに出会いたいということと、それによって好きなものは同じなんだという確証を得たいという、やっぱりそういう気持ちはありますね。だからこの『ことばの生まれる景色』も、辻山さんから、僕の知らないボールをたくさん投げてもらって、どういうことができるのかなっていうことが楽しみでしたし、やっぱり楽しかったんですね。続編も作りたいです(笑)。
                            (第二回につづく)

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