猫の気持ち。

 病院の診察室、である。
 甚だ不本意なことながら、吾輩は今、人間の大人2人がかりで羽交い絞めにされ、診察台の上に横倒しにされている。
「ちくっとするけど、がまんしてね〜」
 わざとらしい猫なで声を出しながら、白衣を来た男が吾輩の足をつかむ。
 やめろ。
 吾輩は抗議の声を挙げた。できることなら、猫パンチをお見舞いしてやりたいところだったが、肩と腰をがっちり保定されているので叶わない。
 男は、吾輩の抗議など意に介することなく、注射針を吾輩の内側伏在静脈に突き立てた。
 抗議の声を上げ続ける吾輩。しかし男は怯まない。慣れた様子で、注射筒の内筒を引いていく。たちまちのうちに、注射筒の中には0.5ccほどの吾輩の血液が採取された。
「はい、よく我慢しましたね〜。偉かったですね〜」
 血管から注射針を引き抜いた男が、血液をヘパリンチューブに移しながらまた猫なで声を出した。
 羽交い絞めにして反撃の余地を与えなかったくせに、よくいけしゃあしゃあとそんなことが言えたものである。吾輩は不満を伝えるために、思い切り尻尾を振った。
「先生、ゴンタちゃん怒ってますよ〜」
 さも他人事のように、女が言う。「ごめんね〜、機嫌直してね〜」
 お前もだ、女。
 吾輩はもう一度尻尾を振る。
 しかし抗議の声はもう届かない。男の意識は、吾輩の同居人の方に向いている。
「では、検査をして参りますので、待合室でお待ちください」
 男は言った。同居人は頷き、吾輩を抱き上げて籐の籠の中に押し込んだ。
 くそっ。
 何もかも、吾輩の思い通りにならない。
 病院なんて、大嫌いだ。
 吾輩は狭いことだけが取り柄の籐の籠の中で、尻尾をばたばたと振り続けた。
 だいたい、なんで吾輩が、こんなところに連れてこられなくてはならないのか。
 吾輩は、文句なしに健康である。洟水も出ていないし、結膜炎にもなっていないし、口内炎もないし、小用はきちんと足しているし、禿げてもいないし、足の先まで温もりに溢れている。不調なところなんてただのひとつもない。
 ただ、ここ数日の暑さのせいで、いささか食欲が落ちている。それだけだ。
 それだけのことが、どこをどう間違えれば、病院沙汰になるというのか。
 どうして、採血などという不愉快極まりないことをされなければならないのか。
 吾輩にはまったく理解ができなかった。
 同居人など、毎朝吾輩がわざわざ起こしてやるたびに、青白い顔をして起き上がってくる。吾輩よりもずっと不健康なように見える。それでも、病院に行ったことなどいくらもないはずだ。
「それほどのことじゃないから」
 と同居人は言う。
 ならばなぜ吾輩のことも、そっとしておいてくれないのか。
 人間とは、つくづく不可解な存在である。
 そんな不満を抱えながら、待合室で待つこと15分。再び診察室のドアが開いて、男が吾輩の名前を読んだ。
 応えてなんぞやるものか、と吾輩はだんまりを決め込む。
「はーい」
 同居人が返事をする。
 吾輩の名前が呼ばれたのに、なぜお前が返事するのか。
 これも、病院に来るたびに疑問に思うことの一つである。
 それはともかく、あの扉が開いたということは、再び不愉快なことが吾輩の身に振りかかる、ということを意味する。吾輩は身を固くした。
 頭上から、男――獣医が同居人に何事か説明する声が聞こえてくる。
 何を話しているかは聞かなくてもわかる。おおかた、検査で異常は認められなかったとでも言っているのだろう。当然のことだ。吾輩は健康なのだから。
 説明は、すぐに終わった。続いて、獣医が同居人に言う。
「念のため、胃腸の調子を整えるお薬を注射しておきましょう」
 不吉な響きの言葉が聞こえ、吾輩は思わず耳をそばだてる。
 今、「注射」と言ったか。
 なんということ。
 健康な吾輩に対して、採血だけでは飽きたらず、注射までしようというのか。
 不届き者め。
 籐の籠の蓋が開けられる。吾輩は、必死で手足を突っ張り、引きずりだされないように努力した。しかし、所詮多勢に無勢である。同居人と、AHTと、2人がかりでは敵わない。本気を出せば敵わなくはないが、同居人に怪我をさせて、仕事に支障をきたさせてしまうと、明日の米びつに困ることになるので手加減をしなくてはならない。そうすると、籐の籠の中に籠城することはやはり難しい。抵抗も虚しく、吾輩は診察台の上に連れだされた。
 AHTに、肩のあたりをむんずと抑えられる。後ずさりしようとしたところを同居人が阻止し、獣医はやすやすと、吾輩の背中に薬剤を注入した。
 いたい。
「はい、よく頑張りましたね〜」
 またしても、獣医が言った。だからよくもまあいけしゃあしゃあと。
「では、受付でお薬をお出ししますので、待合でお待ちください」
 獣医がにこやかに同居人に告げ、吾輩は再び籐の籠の中に押し込まれた。
 まったくもって屈辱の体験である。
 帰りの車の中で、吾輩は心に決めていた。
 少し、食事を残したくらいで、こんな扱いをうけなくてはならないのなら、多少無理をしてでも、出された食事は全部食べてやる。
 食べられないわけではないのだ。意欲がわかないだけなのだから。また病院に連れていかれることにくらべたら、それくらい屁の河童だ。
 そして、その日の晩、さっそくそれを実践した。
 次の日の朝にも実践した。
 病院に連れていかれたくない一心で、吾輩は食事を完食し続けた。
 妙に苦いナニモノかが、その中に含まれていたような気がしたがもう知らん。
 元気さをアピールしていれば、病院に連れていかれることはないのだ。
 そんな努力を、吾輩は1週間続けた。
 それなのに。
 1週間後、吾輩はまたしても病院の診察台に載せられていた。
 どうやら、「1週間したら様子をみせる」ということで、吾輩の知らぬ間に、同居人と獣医との間でナシがついていたようである。
 それって談合社会。
 吾輩は尻尾を振った。
「元気そうですね」
 それを見て、獣医が言った。
「そうなんです。ここのところ調子よさそうで。先生ありがとうございます」
 吾輩の背中を気持ち悪く撫でながら、同居人が言った。
 なぜだ。なぜ礼を言う。
 別に吾輩は、こいつに治してもらったわけではないのだぞ。
「出してもらったお薬のおかげで、ゴンタ、ご飯よく食べるようになりました」
 ちがーう!!!!!
 吾輩は抗議の声をあげた。
 でもその声は誰の耳にも届かなかった。

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