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No.522 愛を持って生きていきませんか

昨日からずっと同じことを考えてる。休みの日なのに朝早く目が覚めて、ずっとSNSやネットを見て、考えてしまう。

昨日も書いたけど、私は誹謗中傷はしてない。否定や肯定の意見も言ってない。でも、コンテンツを享受している人間として、ひどい言葉があるのは知ってた。なんか嫌だなって思って見ないようにしていた。

ひどい言葉を発している人たち煮対して私が止めるべきだったかと言われると、そんな立場にはないだろう。でも、知っていたのに見過ごしていた私は、加害者の一人なんじゃないかと思ってしまう。そう自分事に勝手に思ってしまうこともまたおこがましいと思う。

ただ犯人捜しをして、次のターゲットを見つけて、同じことを繰り返すのは全くもって意味がない。それはもう言葉が届かない場所に追いやってしまった手段と同じではないの?

誰か知らない人が「自分ではない誰かのせいだ」と敵認定して区別しようとするのも、「自分が当事者になるかもしれない」という事実から目をそらそうとしているように感じてしまう。それも違う。

いつだって私たちは被害者になるリスクがあって、簡単に加害者にもなる危うさがある。いや、もう加害者になっていることだってあるんじゃないか。自分を守るため、自分の正義感とやらのために、他人を傷つけることを正当化してないか。


気持ちが落ち着かなくて、人に話した。自分で抱えているだけにしては重すぎる思いだったから。その人と私の意見は違っていて、ぶつかり合うというよりはお互いの意見の違いが際立った。だからこそ、私の考えもクリアになった。

私とその人の意見は違う。でもその人は私に「間違ってる」とは言わないし、私もその人を責めない。人格を否定したり、容姿を蔑んだりもしない。「この件に関しては、お互い違う意見だな」と思い、自分はどうするかを選択するだけ。統一する必要はない。

統一しようとする人が多すぎる。どちらかが正しくて、どちらかが間違ってるなんて、そんなはっきりとしたことはない。どちらかが多数派で、「間違ってる!」と叫ぶ人が多数派だと批判だけでなく罵詈雑言や誹謗中傷まで広がって、炎上になるだけだ。だからって、それが正しいわけじゃない。そういう人が多かっただけの話だ。

私の意見と、あなたの意見を違う。だからって、“私”も“あなた”も存在までを否定する必要なんてなくて、罵詈雑言も誹謗中傷もいらない。ただ、私たちは違うだけだ。それだけ。


私たちはもっと愛を持って生きていけないだろうか。人は完璧じゃないし、良い所も悪い所もある。正しさをジャッジする目じゃなくて、人として人を見る目で、良いも悪いも愛で包めないだろうか。

なんてポエミーな。なんて理想論な。自分でもわかってるし、世間なんて社会なんて人なんてそんな簡単には変わらないし、「もうやめてよ」ってたくさんの人が声を上げても大きく変わることなんてない、と言われるのもわかる。

でも、一人が変われば、小さくは変わる。微々たるものでも、変化していく。自分がまずその一人にならなきゃ。

私自身、自分の“正しさ”を基準に誰かを傷つけてきたことはきっとたくさんある。今回の件でたまたま石を投げなかったけど、ネットでもリアルでも今まで一度も誰かに石を投げなかったかと言われると、わからない。そうしないようにと思って生きてきたけれど、自分がやったことなんて都合よく忘れているから、傷つけたことはある。絶対にある。

だから、私はまず自分が変わる一人になる。愛を持って生きていきたい。自分の愛で誰かを変えようなんてそんな力はないと思うけど、鋭い刃をより鋭く研ぐことはないと思うし、信じたい。

本当はこういうことがある前に思わなきゃいけないことだ。こうなってから思うなんて遅い。遅すぎる。

2020年5月24日(日)

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