先生へ

私はこれからどうしていけばいいのか、なんにもわかりません。

ここしばらくで忘れられないのはデイビッド・カンです。牛の舌を咥えて機械油やらケチャップやらを混ぜた墨をつけつつ長い紙の上を這うパフォーマンスで、息苦しさ、つたう唾液、悲鳴をあげる四肢にぞっとするものでした。それでいて私は、このパフォーマンスに惹きつけられました。彼の喉に詰まった牛の舌は、私にもあると思ったのです。でもそれが彼のものと違うがためにまた口にして良いものやら気が滅入ります。彼の舌はディアスポラ(「撒き散らされたもの」という意味のギリシャ語に由来する言葉で、元の国家や民族の居住地を離れて暮らす国民や民族の集団ないしコミュニティ、またはそのように離散すること自体を指す。)としてのもの言えぬ舌。自分がどこにも完全には所属し得ない窮屈さやそれによって言いたいことも言えないような閉塞感が、あの牛の舌の形をして彼を苦しめているのだと思います。でも私は?私は普通に日本生まれ日本育ち、差別を受けたりないがしろにされたりすることもなく、平和で優しい家族に親戚、ぬるま湯につかって生きてきました。それなのに彼の舌によって私の気持ちが代弁されたかのような気持ちになった…なんて真顔で言えるものですか。差別に敏感な世間の前で、生半可な若造がそんなことを言おうものなら石を投げられたって文句は言えない、そんなふうに思ってしまいます。


それでも先生、私にもあの息苦しさはあると思ってしまったのです。あのパフォーマンスを見ていて、自分のなしえる表現で言いたいことが言えなかったときを思い出しました。思い描くもの、感じていること、それを誰かにわかってほしくて、私は写真を撮ったり歌を書いたり文字を書いたり、いろんなことをせざるを得ません。我慢ならないのです。この胸のうちに巣喰う鈍色の錆(原文ママ)が、じわりと奥歯から染み出てくるような気味の悪さを、誰かに知ってほしくてたまらないのです。誰かが知ってくれたことで救われるんじゃないか、そう思って手を動かしています。

手を動かしている間は幸せです。あがいていることは、救いに近づいていることに違いないのだから、生きている心地がします。でも、はっと気がついて立ち止まって出来上がったものを見ると、退屈で表面的なうす気味の悪い物が手の中にあるのです。瞬間指先がさっと冷え、私の居場所は何も変わって居ないのだと気付かされる。私は何も言えないし言うことも許されていないんじゃないか。喉の奥がきゅうと閉まる。この苦しさと、デイビッド・カンのパフォーマンスが重なって、動画を見たとき「これは私だ」と思ってしまったのです。


写真は、思うようにコントロールできません。モデルの表情は私のものではないし、背景に写るものを全て自由にすることもできません。それでも絵ではなく写真にしていたいのは、「少なくともその瞬間だけは、この世に存在していたのだ」と思いたいからだと、考えています。もし、自分の思うことや感じていることを写真に落とし込めたら、その瞬間だけは救われていたのだと思うことが出来るはずです。その写真が私のことを知っていてくれることは救いになると思うし、私を救う写真は誰かにも伝わるんじゃないか…


でも、そんな写真撮れたことは一度だってありません。私の写真に残るのは空っぽな表面だけで、退屈で劣化した二番煎じばかり。あんなに新しいことをしようと挑んだのに、あんなに私の中の新鮮な気持ちを込めたのに、出来上がってくる写真からは死臭がする。無力で頭でっかちの出来損ない。私は言いたいことを言えたことなんて本当の一度だってないのです。デイビッド・カンが這った長い紙の上には黒く臭う染みがのたうち回っていて、私の写真入れもまた醜い私自身がのたうち回った後があるだけです。写真だけじゃない。言葉も、歌も、私が作ったものは皆、死体でしかありません。


この醜い写真を持って、これから就職活動をしなくちゃならないのかと思うと辛くて仕方ありません。もっと写真がうまくなりたい。写真に自分の言いたいことを詰め込みたい。技術を学ぶために身を粉にして働けば、もしかしたら何か見えてくるかも、なんて甘えたことを思っています。自力で学べもしないくせに。機材も増やせないしモデルに金も払えないし心地よい友人達に助けられてばかりのくせに、お高く止まって自分にとっての写真なんてことを考えてる。こんな奴がデイビッド・カンのパフォーマンスに代弁されたような気持ちになるなんて甘えにもほどがあるのに。


私はこれからどうしていけばいいのか、なんにもわからないままです。デイビッド・カンのえずくような吐息が頭に響いているのに、先生と過ごしたこの半年、私の写真はなんにも変わりませんでした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?