依存性の高い快楽

怒れなくなっている自分に焦ることある?とその画家は言った。

知り合いの紹介で出会ったその画家は、10近く年上だった。でも、爛々と輝く画家の大きな瞳は、私のそれより新鮮で生まれたてのような気がした。

絵を書き始めたのは、ストレスを発散したかったから。多言語を学んだけれど、自分が言葉では表現し得ないストレスや怒りを抱えていることに気がついた。だから自分のために、誰に見せるでもなく絵を書き始めた。個展をやるようになって、段々書けなくなっている。怒りに自分は鈍感になってきているのじゃないか…

これはきっと、物を作る人間にけっこう共通して起こりうる問題だと思う。

怒りや悲しみを原動力に人は制作しやすい。作品は作った者の心を救い、またそれを見た人の心も救う。そうやって制作を続けてきた人間は、いつしか制作をする人(画家、作家、詩人…)というポジションに入っていく。そうなったとき、原動力となる怒りや悲しみの供給が少なくなる。日常生活や仕事、人間関係などから得られていた怒りや悲しみは、製作中に得られなくなることが多々あるということだ。

私はその画家の悩みは鈍感さよりも、居心地の良い生活にあるのじゃないかと思った。

かと言って、どうすることができるだろう?結局のところ絵が書けないことを悩んでいるということは、手段の目的化が起こっている。ストレス発散のためのドローイングが、副産物として絵になったし人に評価された。そこから、絵を求められるようになって、絵を書くことが目的化している。居心地の良い生活が手に入って、ストレスが減った。そしてストレス発散の必要が減った。ずっと居心地の良い生活を求めていたのでは?それなら、絵を書くことをやめるほうがいいんじゃないか…

製作は気持ちが良い。酒や薬なんかよりよっぽどキマる。ストレス発散はいつの間にか快楽の追求になることがある。辞められないし辞めたくないのに、ストレスがないから絵が書けない。でもストレスを探しに外へ出るのも変な話だ。私たちはどうしたらいいんだろう。

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