魔法使い

「ぼく、おかあさんにひとつだけ、まほうをかけられるよ」

洗濯物を抱えた息子が言う。
返して欲しい言葉は分かっているのに、母親は何も言わない。意地っ張りだから。

そういうことにしたかった。
でも本当の理由は振り返ると泣き顔を見られてしまうからだ。
言葉をかければきっと声で分かってしまう。

前日、父親は突然の事故で入院した。
母親は仕事が軌道に乗ってきた矢先のことだった。

家事もできる私。
育児もできる私。
仕事もできる私。
事故の知らせが入ってから、そんな暗示は解けていた。

家事ができない。
子どもの相手も仕事の連絡だってまだだ。
家から病院、病院から家、とぼとぼと行って帰ってくるだけなのに疲れている。
何度も往復したからか。
そういえばレースのカーテンを前日から閉め忘れている。

この程度のことで何もできなくなるのか。
母親は泣いた。
不安よりも悔しさがこみ上げて。
やはり意地っ張りなのだ。

息子は病院へも家へも一緒に歩き、相手にされない1日の終わりに魔法をかけようとした。
最後まで相手にされずとも父親との約束を守ったのだ。
父親がいないときは、母親を助ける魔法使いになる。
いってらっしゃいとキスをするときの父と子の約束。

母親はまだ振り返らない。

魔法使いは明かりをつけ、カーテンを閉め、掛け布団を持ってきてから、明かりを消した。
母親と一緒にくるまりながら、背中をさする。

ずっとあとになって母親が謝ったころには、息子は眠り、目には涙の跡があった。

何という母親だろうか。

私はそんなことをさせた自分の愚かさが、脆さが、情けなかった。
夫や自分がどうあれ、この子のことを最優先にするべきだった。
もっと早くにこどもの日だと気がつくのが母親だろうに。
せめて我が子の魔法にかかってあげれば良かった。

夫は退院し月日が経った。
こどもの日を何度か過ごし、今も母の日には魔法使いになってくれる。

あんな日があったのに母親でいられることを嬉しく思う。
家族で、こどもでいてくれて、ありがとう。

#こども達よ_いつもありがとう #cakesコンテスト #過ぎたら良い思い出 #都合よく生きる

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