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「上陸者」ボツ原稿_fact.3〜fact.26@プロット沼

21027文字・60min


■サービス稿です。序章から。(改変の可能性が高いため)

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プロローグ 浜


 海中に蟹がいる。蟹は、海中で泡だった波に揉まれ、前に後ろにたおれ、からだを起こす。蟹はじぶんが蟹という認識はない。蟹はニンゲンとはちがうシステムで考え、海のなかをあるく。蟹はニンゲンのことば、言語、その意味と概念とは別の世界で生きる。蟹の突きでた目に、黒色に死んだ藻にアオサが絡まる。泡で揉まれて水流で消える。波に押し流され、蟹は滑るように浜にあがる。濡れて黒色に光る玉砂利のうえを器用にあるく。空は防波堤とおなじ色だ。寒い。蟹は思った。

 ずず。

 地面が揺れた。蟹は、からだを波にさらわれる。

 蟹は未来が見えた。もちろん蟹のすべてに未来が見えるわけではない。だが、蟹は、未来を目撃した。地下壕の奥の暗い所から鎖につながれた男が引きずりだされ、人々に罵声を浴びせかけられる。鉄パイプで殴られ、コンクリートの瓦礫で造られた十字架に吊るされる。手足を杭で打たれ、武装した男どもが銃床で男を突ついた。蟹はそれを目撃した。それから男の首に大きな刃物が勢いよくふられる。三日後のことだ。

 ざぶん。波しぶきがあがる。

 その瞬間、蟹は奇跡が起こるのを見る。裂かれた男の首は、まばゆい光りを発し、繋がっていく。が、蟹にはそれはただの事象だ。蟹はそれを奇跡とは思わない。蟹は、寝ぐらへとあるく。横歩きで。蟹は、ふと背後に、大きな影を感じる。蟹の寿命はそこで切れる。踏まれたのだ。甲羅は割れて、内臓はとびだした。蟹の突きでた目が浜に上陸する男の背を見つめる。三日後、この男は、暗く湿った地下壕で斬首刑に遭(あ)う。それから奇跡の蘇(よみがえ)りを果たす。

 男は浜に、肩に背負っていた女を、そっと横たえた。

「ハン司令官。自由ってなんですか? 」

 男はつぶやく。蟹は男の声をその耳で、聴いた。

 男は浜を歩き、断崖を攀じのぼる。蟹は、それを見た。

 つぎの瞬間、蟹は死んでいた。


一章 旧国道


一 飢堕覚


 北の兵士キムは上陸した。兵士は玉砂利の浜から飛び移った崖をよじ登る。日本海に張りだした洞門の柱に身を潜ませる。トラックが何台も通過する。その一台のトラックの下で兵士は体を滑らせた。トラックの下で兵士はフジツボのごとくへばりつく。トラックは国道を走っていく。

 海に突きでた離合帯に入って覚はエンジンを止めた。窓を開けて顔をぶるっと震わせる。トラックに乗りこむとまた車内はカーエアコンで温められ、また一気に眠くなった。飢堕覚はセーラの口を想像した。セーラは昨日、大津で荷下ろしした帰りに寄った雄琴のトップソープ嬢だった。セーラの小さな口に飢堕覚はぬるりとふくまれる。性器は急激に膨れあがった。鉄のように固くなった。やばい。口で慰められたらすぐにイっちまう。やはり手だ。飢堕覚はジッパーをあけて、セーラに握らせた。縦にゆっくりとシゴいてもらう。飢堕覚はそのままの姿勢でハンドルをにぎり直した。手が速くなっていく。

 カチャ。

 額に冷たい指輪ほどの金属が当たる。飢堕覚は目を開ける。

「ひいいっ」

 飢堕覚は叫び声をあげた。

「殺さない。落ち着いて。私は服がほしいだけだ」

 男は言った。飢堕覚は首をぶるぶると横にふった。

「おれが服を渡したらあんたおれを殺して、金とトラックを奪うんだ」

 男は黙った。覚は怯えながらも男の目を睨みつづける。この男と一瞬でも目を逸らしたら、殺される。飢堕覚は確信した。すると、男は銃を分解して崖から海のほうへ投げた。

「これでいいか? それでも私は君を素手で殺すことができる。だが私は君に危害は加えない。金も取らない。服が欲しいだけだ。君は私のことばを信用できるか? 」

「わからないよ。信用ってなんだよ。命が奪われそうなときによ。おれにはわかんねえよ! 」

 飢堕覚は怯えながらも正直に答えた。

 男は黙った。


 洞門にはいった。柱の隙間から光がパラパラ漫画のようにふたりの顔にあたる。たしかに眠くなってくる。

「ほら、ここで、ブレーキだ。ここはおれの鬼門なんだ。ここはとくにカーブがきつい。ハンドルをにぎりながら眠落ちなんかしたら、この箱車ごと海にドボンだ」

 飢堕覚はパンを食べながら話す。

「なるほど」と男は言った。

「ほら、前見ろよ。ここからまた洞門を二、三抜けることになる。ジャムパン。うめえか? 」

「ああ。こんな甘いパンは北にはない」

「また視界が開けた。すると、また洞門だよ」

「運転手も大変だな」

「北の兵士に比べたら… どうかな。おんなじじゃねえか? 」

 ふたりは笑った。

「ジャムパン。ありがとう」

「おまえほんとうに兵士か? 」

「たぶん、記憶が薄れているんだ」

「よし、服、やるよ。なんだかよくわかんねえけど。おれはおまえが嫌いじゃない」

 飢堕覚は廃墟ホテルの駐車場にトラックを停めた。座席の後ろのカーテンを開き、クリアケースからシャツとナイキの濃紺のとベージュのチノパン一色を男にわたした。

 飢堕覚は男の背中から露出した焼けた肌を見てギョッとする。

「おまえ、背中の肉に金属のバッグみたいなのがめりこんでるぞ」

 男の肌には金属製の亀の甲羅のようなものが深くめりこんでいた。それはまるでハンダで溶接されているように見える。男は自分の背を見ようとふりむくが。見えない。飢堕覚はバックミラーを曲げてやった。男は事態を確認した。

「それ、なんなんだ? まさか北の新種の兵器とか? 」

 飢堕覚は冗談で笑ったがすぐに口を噤んだ。男の目は笑っていなかった。

「パン食ったからおれはここで、少し寝るわ。お前は寝てるうちにおれの前からその姿を消してくれ。互いに名前も知らないうちにな」

「お前が兵士みたいだな」

 男が真顔でいうと、飢堕覚は笑った。

「いちどこのセリフ言ってみたかった。平和なこの国にはそういう映画はたくさんあるんだ」

「ありがとう」

「もう一度、言ってくれ」

「なぜ? 」

「ありがとう。なんてストレートでシンプルすぎる言葉、嫁からも久しく言われてない」

「ありがとう」

 飢堕覚はトラックの天井を見つめ、目をつぶる。

 飢堕覚が目覚めると、男は消えていた。

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fact.3


 おれたちの神殿は日本海につきだした崖の上にある。崖の上に親不知グランドビューホテルが立つ。親不知グランドビューホテルは昭和バブルの絶頂期に「オバケがでる」という妙なうわさが煙のように立って、またたく間に廃業したそうだ。それから半世紀以上転用先もなくいまは廃墟だ。まさにおれとセナの神殿にふさわしい。
 小学四年の夏休みに、おれたちはここを発見した。小五になったおれは理科と図工と体育が得意な悪ガキになった。セナは音楽や絵や歌や詩をとても好んだ。国語(とくに小説)はずばぬけてできた。がセナはそれをテストに出さなかった。セナはそれを韜晦(とうかい)っていうんだ。どういう意味だ? とセナに聞くと、もっとも切れる刀はずっと鞘に収まったままなんだ。これをリョウにしゃべっちゃうと、韜晦の意味は消えちゃうんだけどね。とセナは笑った。おれにはまったくもって、ちんぷんかんぷんだった。
 おれとセナは崖の裏がわに放置された自家発電機とポンプがまだじゅうぶんに稼働していることを見抜いた。それ以外のダクトとか配線(配電盤も)とか水道管とかバルブとかコンプレッサーとかも発見して、セナとふたりで時間と手間をかけて直した。小六から中二にかけて毎日ふたりで廃墟にかよった。中学校に進級した春、この部屋の真上にあるオーシャンビューの大浴場は風呂に浸かれるようになった。そこがこの神殿の至聖所だ。セナが名付けた。
 闇のなかで不穏な音がする。おれの銃(チャカ)をにぎる手に汗が広がっていく。
 じぶんの足でロープを踏んでいた。闇に積まれた登山用ザイルだ。おれたちがどこかから集めて山みたいに積んだ。そこだけは鵺(ぬえ)みたいな闇の声から死守しなければ。ザイルの中は宝物殿なのだ。おれたちの宝が隠してある。
 闇の中でおれは背後でにぎるエアガンをもう一度、確認する。
 その時だった。
 パッと部屋にライトが点いた。
 コンクリートの打ちっぱなしの部屋が丸出しになった。
「配電盤がみつかった」
 おれはつぶやく。
 戸口に黒服の男が立っていた。

fact.4

 ヘビは飢えで目覚めた。舌で自分を舐めたが味はない。ヘビは落胆した。秋の終わりに自分が産んだ卵を呑みこんで、以後なにひとつ食べていない。ヘビはとぐろに積まれたロープの下にいた。ヘビの柄は黒と赤の市松模様だ。首に黄色いバンド模様がある。ヘビは自分がヘビだと思ったことはない。三回ほど脱皮した春先に、田んぼで出くわした二足歩行の生き物に「こいつマムシじゃねえぞ。もっと猛毒でやべえやつだ。ヤマガカシだ! 」とさけばれたが、蛇はそれがいったいどういう意味なのか解らない。
 春に、田んぼでカエルとオタマジャクシをたべすぎた。それでえらく眠くなった。いつしか土よりも固く冷たいこんな場所に迷い込んでしまっていた。壁や床はどこも固く冷たかった。どこへも出られずに、疲れ果て、寝てしまった。目覚めたら秋はおわっていた。冬眠するしかなかった。
 目と鼻の間にある小さい穴が熱を感知した。獲物だ。熱の柱が四本ある。どれを噛(か)もうか。ヘビはゆっくりと悩み、四本の柱のまわりを時間をかけて這った。四本の柱がふるえていた。そういえばロープのなかは食べられぬものばかりだ。腹がひらいて目から光線がでる硬いもの。溶けないカプセル。いくら噛(か)んでも死なない自分に似たもの。アヒル。突っぱる所に触れると光る箱。とつぜん「ヌシロケイコ」の文字が光って震えだす物体。すべて吐いた。よし、この膨らみを噛もう。
 太陽がでて、ヘビはするりとロープの中に隠れた。
「配電盤が見つかっちまった」
 二本歩行の、背がたかいほうがつぶやく。ヘビはロープに擬態する。
「ほんとうにあの崖からか? ふんっ。そーかいな。へぇ〜」
 びゅう。外からふきこんでくる北風に、ヘビはぶるっと震える。飢えで死にそうだ。目の前の光るビー玉をヘビは飲み込んでみる。味がしない。ヘビはまた落胆した。飲み込んだばかりのビー玉を、口惜しそうに吐いた。見上げると背が低い二足歩行の男に覗かれていた。
「ガキのおもちゃか」
 上で笑い声が聴こえる。

fact.5

 私は戦前から建っている白い建物だ。この丘からは日本海が一望できる。なぜか雲ひとつない晴れた日に、南側に隣接する、蓮が一面に浮かぶ湖に水死体が浮かぶ。私には理解ができない。
 私の呼び名は時代によって変わる。土蔵、酒蔵、座敷牢、収容所、陸軍教導病院、直江津精神医療センター。明日も名前は変わる。私は建つ前も風化した後も私だ。不変に私はここにいる。だが私が明日を語れど、だれも理解できない。理解しようともしない。ときに笑う。それは私のなかに住んでいるニンゲンのさけびにとてもよく似ている。
 設備は時代とともに最新だ。
 大きな空間は街と海に面している。朝陽と吹きあがる海風が当たる。おおきなニンゲンの歩幅で五歩と三歩半の小さな空間は崖が張りだした南側にある。いつも暗く湿っていて「イジメ部屋」とよばれる。入れられたニンゲンは決まってどうぶつえんの四つ足のように端から端へ移動するようになる。壁は白い。室内に鍵穴はない。天井はたかい。ライトは埋め込み式だ。四隅に黒い点がみえる。火災探知機ではない。監視カメラだ。六時間おきにノブのない扉がひらき閉じられる。白い服が消毒液が染みこんだモップでリノリウムの床をべったりとぬらす。扉は閉じられる。昼は腕時計を自慢する男。夜は顔に傷があるじぶんの給与の境遇をなげく細面の男が食事と薬のトレーをもってやってくる。
 白い服がでていったあと少年は食事に薬が混じってないかと怯え、衝立のないステンレス便器に顔をつっこみ、口に中指をいれ、食べたものをぜんぶ吐瀉した。
 こつ。
 鉄格子の窓に小石が当たった。
 こつこつ。
 少年は大声で騒いだ。
 今回の少年はむやみには騒ぎたてない。壁やカメラに理不尽に喚(わめ)かない。少年が喚くときは何かを企てたときだ。少年はからだをコントロールする。大声をもっとも効果的な方法で表現する。少年はリノリウムの冷たい床に大の字になって蛇が焼かれるように小刻みにカメラに合図をおくる。若い職員が扉を開けて入ってくる。若い職員は監視カメラを見上げ、白目をむいた少年の口から紙幣を取りだしポケットに捩(ね)じこみ、少年の背をさする。空気でも吸うか。と鉄格子のガラス戸を開けてやる。少年はよれよれになったメモ帳を外に落とす。
 下の崖で待ち受けていた少年はそれを受け取ると湖のほうへ消えた。
 若い職員は拘禁ベッドに四肢をつなぐ。ベッドの下には新しいメモ帳がある。

fact.7

 海に突きでた離合帯に入って覚はエンジンを止めた。窓を開けて顔をぶるっと震わせる。トラックに乗りこむとまた車内はカーエアコンで温められ、一気にまた眠くなる。
 あー、ヤダヤダ。おれの人生はぜんぶ中途半端だ。仕事も稼ぎも家も家族も恋愛も遊びも趣味もなにもかもみんな中途半端だ。今までの人生に夢はひとつも見つからなかった。これからおれは生きてるだけでいったい何になるんだ? おれは老いて何になる? 老害か? 覚は笑った。還暦を迎えた自分が想像できなかった。
 向葵の手を思い描く。向葵は先月アプリで出会った女だ。向葵の手は温かい。向葵はおれを口にふくむ。覚の性器は急激に膨れあがって鉄のように固くなる。口はすぐにイっちまう。やはり手だ。ジッパーをあけて覚は向葵に握らせる。縦にゆっくりとシゴく。姿勢はそのままでハンドルを握り直す。
 なぜか萎んでいた。家のことが頭に過ったからだ。ダメだ。疲れすぎている。借金の言葉が浮かぶが返済額は浮かばない。これが過労なのか。このままおれは死ぬのか。
 家に帰れば尚子がいる。翔も彩もいる。今日は保育園に連れていく日だ。帰宅しても尚子はヤらせてくれない。背に触れるだけで「子どもが見てる」と剣呑になる。覚は上にツンと張った向葵の乳房を想像する。ゆびで抓る。硬くなった乳首を口に含む。濡れたごわごわした陰毛に舌を絡ませ、愛液があふれでる壺に覚の唾液と舌先をいれる。
 洞門にはいる。柱の隙間から光がパラパラ漫画のように顔にあたる。眠くなる。ブレーキだ。ここはカーブがきつい。車ごと海に落ちそうだ。また洞門を二、三抜ける。視界が開ける。また洞門だよ。
 廃墟ホテルの駐車場に車を停めた。尚子には悪いが、おれはここで寝る。翔と彩を保育園へ送るラインはやめた。あとあと面倒だ。エロ動画で一発抜いてから寝よう。シートを倒してシゴく。ダメだ。トラックの天井が見える。
 トラックが大きくガタガタと揺れるのを感じて覚は窓から首をだした。能登地震の再来か。空は晴れ渡っている。それから、佐渡のほうの沖で何かが眩く光った。浜辺が光る。目を向けると男が浜に膝をついて女を横たえている。まるで姫を横たえる名シーンのようだ。あそこはまるで別次元に見える。撮影でもやっているのか。
 違和感を感じて覚は眼鏡を外す。おや? 見えすぎる。男の足元がくっきりと見える。浜を歩く男が、玉砂利に隠れた蟹を踏み潰した。その殻が潰れた蟹と覚は目が合った。
 その瞬間だった。性液は大量に噴射した。激しくとめどなく噴射しつづける。やばい。覚は悟る。おれは死ぬ。死んだあと何度もまた生まれて死ぬ。おれはクマや鳥や石や風や人間にまた生まれ変わる。あの蟹に生まれ変わってまた男に踏み潰される。おれは人間に生まれ変わったじぶんの死の間際に男の顔を目撃する。尚子、翔、彩、ごめんな…。沖から見えな爆風がやってきて覚は熱波のなかに消えた。

fact.8

 その一室は客室だったのか、あるいは他の用途につかわれた部屋なのか、だれも判別はできない。隅にむきだしの水まわり。シンクは落ちてひしゃげていた。部屋の中央には登山用の青色と黄色のロープがヘビのように巻いてある。ふたりの少年が積んだものだ。塒(とぐろ)のなかには胸がひらいて目が光るロボットやけん玉や竹とんぼやビー玉や船の模型やゴムのアヒルやポケモンやドラゴンボールのカードダスで埋まっている。
 紋付きを着た背が低く醜い男はロープに足をかけて塒のなかをのぞきこんだ。
「ガキのおもちゃか」

 背がひくい男は笑った。ふたりの少年は背の低い男を睨(にら)んだ。
「ぼくの呼び名は『ギン』でいい。『金銀銅メダル』の銀だ。ここ界隈では、銀ちゃん、とか銀さん、銀のじ、とかいわれる。相手がぼくをどう呼んでも。呼び捨てでもかまわない。
 背が低い和装の男は巨大ないぼの塊(かたまり)のように膨らんだだんご鼻を、ぶひっ。と鳴らして笑った。ぶひっぶひっぶひっぶひっ。豚舎でうめく豚にそっくりだ。背がひくい和装の男の笑いはどう譲歩しても下品に聞こえた。
「きみたちはほんとうに自分の目でみたのか? 」
 少年はエアガンを構えたまま、男を無視した。
「きみは市振漁港クンか? こっちのだんまりは糸井川クンかな? よくみるときみたちはなつかしの番組「凸凹劇場アボットとコステロ」みたいなへっぽこコンビみたいじゃないか。ぶひっぶひっぶひっぶひっ。ぼくが小さいころに夕方にテレビでやってたよ。糸井川クンはずっとお口にチャック(男はじっさいに自分の口にチャックをしてみせ)だね。きみは唖(おし)かい? おーい、起きてますかあー? 糸井川クーン」
 ぶひっぶひっぶひっぶひっ。銀の鼻は上下左右に皿にのせたプリンのようにゆれる。
「やめろ! おれたちは、ミラクル・ウォッチャーズだ! 」
 エアガンをにぎる少年はさけんだ。
「へ? ミラコロ・ボッチャンズ? 」
 銀は口をぽかんと開けた。

fact.9

 ぶひっぶひっぶひっぶひっ。銀の鼻は上下左右に皿にのせたプリンのようにゆれる。
「やめろ! おれたちは、ミラクル・ウォッチャーズだ! 」
 エアガンをにぎる少年はさけんだ。
「へ? ミラコロ・ボッチャンズ? 」
 銀は口をぽかんと開けた。

「おれは壱振了だ。リョウだ。こいつは糸居瀬名で、セナだ。さっきもいったぞ。まずひとにインタビューをするんだったら相手の名前くらいおぼえてこい。それはオトナがいう礼儀とかじゃない。おまえがやる仕事の、事前にやるべき準備だろうが。質問はそこからだ。このあいだの掲示板のレスで『昨日の日本海の新潟沖に浮かぶ太陽のような光、すさまじい爆風のような風、浜辺におりたった人影の一件について。ぜひ話を聞きたい。情報の価値によっては金一封を』ってそっちが日時指定でここによびつけておいてよ。なんだよそのふざけた態度は。テメエ、まじムカつくんだよ! さきに金をくれよ。そしたら、話してやってもいいよ! 」
 リョウは犬が噛(か)みつくようにいった。片手でエアガンをかまえなおして、尻ポケットから背がひくい和装の男の名刺をとりだした。それはこの男に出会ってすぐにわたされた一枚の長方形の紙だ。紙は新(さら)にはみえなかった。四つかどはよれて所どころに黄色いシミがめだつ。紙のまんなかに『綿鍋銀次』とだけ書かれてあった。リョウは裏をめくった。表とおなじで、かどが黄ばんだ無地の紙だった。
 銀は彫像のように固まっていた。まるで学校の美術教室の準備室の壁際にならぶ色褪せたギリシャの塑像のように。
 その三分間は、時が止まったみたいだった。が、少年たちにとって時がとまったのは恐怖だった。ふたりの少年はこの三分間がまるで無限にのびていく悪夢の廊下のようにかんじた。何度もトイレに行きたくなった。
 ふたりの少年が恐怖に慄(おのの)いた三分間の原因は、銀の、そのみにくい外観、容貌にあった。

fact.11

 リョウは黒服の男をみながら肘でセナを小づく。
「あいつさ、きのうプロジェクターでみた映画で、主演した俳優になんか、すんごく似ていないか。角刈りのたしか、なまえは… 」
「…タカクラケン」
 セナは小さい声で言った。
「そうだ。すげえ、高倉健にそっくりだ」リョウは目を輝かせる。
「ぼくは池部良がすきだけどね」
「あほ。セナは軒下で仁義をきる『お控(ひけ)えくだすって』のシーンがすきなだけだろ」
 リョウはセナにツッコんだ。
 黒服の背丈は畳を立てにしたより高い。頭はスポーツ刈りか角刈りのような短髪だ。黒目の部分は広い。その眼球には人間を寄せつけぬような凄(すご)みがあった。漆黒のダークスーツの背に白地の矢が交差して、中央に「鍋」と書かれた紋がこがね色で刺繍されてあった。胸に「辰」と白文字と書いてある。
「きみらはここでなにをやっていた? 」
 銀は、腰を落として廃墟の床に散らばる無数の微小のプラスチック弾を、はんぺんのような手のひらに、載せた。
「これで遊んでたんかい? ぶひっ」
「うおえっ」
 少年らの顔はひんまがった。銀の口臭は生魚をどぶに漬けて二十年腐らせた強烈な悪臭だった。
「サバゲーやってたんですよ。この廃墟ホテルで」
 嘘だった。階下にはふたりだけで作りあげた大浴場がある。そこは神殿だ。ふたりの聖域だ。そこはだれも入れさせたくはない。
「サバゲー? 」
 銀は黒服の顔を見る。
 黒服はサングラスで表情がわからない。
「サバゲーってなにかな? いま流行りの戦争ごっこかな」
 銀はまぶたを細めて線にした。それからふたりの少年を見上げる。女の水着の中身をのぞくみたいに。それは尋問官が犯人をじわりじわりと袋小路に追いつめる粘っこい目だった。
「ちゃんと見たよな、な、おれたち。自分の目で」
 リョウは、銀よりやや背丈のあるセナに向かっていった。
 セナは口を真一文字にして、うん。と肯(うなず)く。
「きみたちが立つこの場所からみえるっていう、岩間の脇の浜辺からあやしげな男がひとり上陸した。それを、ほんとうにみた。そうだな」
「タツ」
「へい」
「キャタツ」
「へい」
 銀は片手をあげる。
 タツとよばれた黒服で背丈のある高倉健に似た男は俊敏にうごいた。辰は指示された一脚の脚立を断崖につきでた部屋のまどぎわに設置する。
 ふたりの少年は顔を見合わせた。
 脚立に乗った銀は、窓の高さよりずっと低かった。

fact.12

 銀の背は瘤虫(こぶむし)病のように曲がっていた。頭よりも背のほうが高い位置にある。それでいて面(つら)は人面犬のように前にでている。顔面は吹き出物だらけで火星の表面みたいにごつごつしていた。禿(は)げあがった頭頂部は不自然に扁平(へんぺい)で所どころが不規則にへこんでいた。側面についた左右水平でない高さについた耳たぶは垂れたハチミツみたいにぶらさがる。くぼんだ眼窩(がんか)には緑色の目脂(めやに)が蝨(しらみ)の卵のようにびっしりとつく。もう片方の目には眼帯をしていた。眼帯には明朝の書体で「目」とかいてあった。身なりは紋付でその樽(たる)の胴をかくしているようだった。「目」と書かれた眼帯をみて、ふたりの少年はおびえ、抱き合ってふるえていると、銀は(ほんとうにこの中身が見たいのか? )というふうににやけて明朝体でかかれた「目」の眼帯をはずした。こちら側にも緑色の脂がびっしりとへばりついていた。フジツボのごとく緑色の脂が密集する眼窩の奥に黒色にかがやく義眼がはめこまれていた。それをみて少年たちは膝(ひざ)からくずれそうになった。義眼は白目と黒目の色が反転していたのだ。
 銀の目玉も義眼もおなじく四白眼だった。
「おえぇ」
 口に充てたリョウの指のすきまからここ二、三日食べたものがすべてでてきた。ピンク色にひろがる吐瀉物のなかに焼きそばや紅生姜や米つぶが浮いてそれがウジにみえた。吐き気がまたあがってきた。
 しかし、銀の左右の四白眼をよくのぞきこむと、ふたりの少年はうかつにもうっとりと見惚(みと)れてしまった。ふたりとも銀の目玉の催眠術にかかってしまったようだった。ふたりは妙な浮遊感に苛(さいな)まれた。
「この黒い義眼はねえ、黒曜石っていう鉱石なんだよ。ぶひっぶひっぶひっぶひっ」
 銀は口パクでそう笑ったように見えた。
 銀の皺(しわ)だらけになったその笑顔は、さらに信じがたいほど醜(みにく)くゆがんだ。まるで海底二万マイルの底に放たれた発泡スチロールのように。なぜかふたりの少年も銀の笑顔につられて笑ってしまった。ふたりの少年は顔を、海底二万マイルに沈んだカップヌードルの容器のように、クシャッとゆがませた。

fact.13

 私は筆者だ。銀の外貌は人間では醜悪すぎだ。
 果て。銀は人間なのか? 銀は生けとし生きる万物、大自然を造形する海千山千、人間が神話や聖書で愛知の工場でつくりだしたアフロディーテやプリウスなどの人工の産物だとしても、彼をどのような善意のある慈悲ぶかい角度から見ても醜(みにく)く見えた。中途で渇いた溶岩やもしれぬ。銀を直で見た人間は罪の意識に苛まれる。銀の顔を直視すると人類が哲学や文学をこねて規定してきた美醜の概念が暴発する。魑魅魍魎と天女とレディガガと一角獣とムーミンとブルマダグル星人の顔がごっちゃになる。まさに蓋を開けたらこの世の終り、世界の悪魔がとびだすパンドラの箱。オッペケペー。嘘だ。筆者はパンドラの箱をこの目でまだ見ていない。
 筆者は畢竟(ひっきょう)読者にナニを伝えたかったのか? 銀は醜い。それだけだ。筆者は文字通り自家撞着に陥った。これが文学だ。それは韜晦(とうかい)の字義の真の存在意義と同じで銀の醜さの真実はだれも知り得ない。文字で他者につたわる美醜とはなにか? あ、いま銀が私を見た。頭がぼんやりしてきた。やはり君もか。銀が若いのか老いているのか筆者も判別できない。だから銀の年齢はと訊(たず)ねられたら五歳から三百歳とどの年齢だといわれてもそのとおり納得するほかあるまい。銀はそれほど外見が醜い。ああやめて! まだ銀が筆者を見ている! ぶひっ。アヘアヘアヘ… 銀の美醜は形而上の問題の限界を超える。銀の醜さはその作家人生をかけて文字表現の可能性に挑みつづけたノエル・ハビエル・パッツォーネ春樹にさえかけまい。銀の醜さは、ある種の恍惚、官能を感じる。人間の美の解釈を超えた美の女神であれば、銀の美しさと醜さを一緒くたに愛せるかもしれない。たとえばタコ足の火星人とか。
 ふたりの少年は心の中でこの異常に背がひくい醜男の登場はできれば創作やギャグかなんかであってほしい。ギャグなら有りだ。世界はそう希求するはずだ。
 三分間はすぎた。
 銀の口はうごいた。

fact.14

 銀の口はうごいた。
「ぼくは敬語をつかう人間は絶対的に嫌悪する。信用もしない。敬語をつかうやつらは煩悩の数だけまぶたをひんむかれて、裸にはちみつをぬられて真夏のゴビ砂漠の岩壁にはりつけにされるか、鉛のブーツを履かせて真冬の日本海沖にゆっくりと沈められりゃいいんだ。敬語をつかうやつらは絶対に信頼も信用もできない。やつらは敬語や常識ができるかできないか、それだけでその人間が有能か無能か価値か無価値かを判断するんだよ! ぶひっ」
 少年たちは驚き、目を合わせ、また大きく開いた口を覗いた。
「おえぇ〜」
 溝が腐ったような口臭で、少年たちは嗚咽した。
「敬語と常識にしがみつくやつらは、仕事ができないことと、仕事をしないこと、仕事にいくのがイヤ、職場にいくとなぜか体調が悪くなる、仕事ここだけが本能的に覚えられない、仕事の悩みをだれにも打ち明けられないその悩みで苦労する、自宅で準備を万全に整えてもどうやっても出勤時刻に間に合わない、仕事は好きだが職場や仲間には馴染めない、上司のヘアリキッドが苦痛だ、左のデスクのワキガが強烈すぎて仕事をやる気が失せるなど、それらの問題をなにも考えずに『こいつは仕事ができない。その上あいさつもできない』と短絡的にひとつにくくる。それでいて自分から『おっはー』なんて歯が浮くあいさつや『今日どうしちゃったの? 』なんて勝手に心配を一方的に押しつけてくる。自分が決めつけた期待には見返りが返ってくると思いこむ。自分が期待したリアクションにならないと失望する。自分の目で見もしないで不正確な情報にさらに自分の新たな偏見を上塗りする。そんな想像力が一ミクロンもない奴らはいますぐ原爆の熱風で溶けてケロイド地獄に堕ちればいいんだ! 」
 無視しようとしたが無視できなかった。なぜなら本能的にこの口から出たことばは真実だと思ったからだ。この背がひくい和装の醜男はあいさつや敬語や常識を頭ごなしに押しつけにくるそこらへんのオトナより百万倍マシだ。
 そう思ったふたりの少年は銀を見つめ直した。
 ふたりの少年はもう嗚咽はしなかった。少年たちは銀の醜さに慣れた。どんな臭さも醜さも慣れる。少年たちは学んだ。

fact.15

 ふたりの少年は私をみて、驚きを隠せずに互いに顔を見合わせた。
 ニンゲンが私を見ると、たかだか二尺(約六十センチ)の木でできた脚立。けれど、私は国道沿いのホームセンターや家具の量販店で陳列されているような脚立ではない。
 私は貞子。この世には一つとない。
 私はねじを一つも使っていない。私には私の様式美がある。踏み板には絢爛(けんらん)な欄間(らんま)が施され、山麓のように反った脚は熱と蒸気で時間をかけてまげられ、鑿(のみ)で削った箇所はひとつも見当たらない。
 私に見惚れた少年たちに、踏み桟の欄間で戯れるカエルと天女は、ふりむいた。天女は蓮にとび乗ったカエルに乗って少年のひとりにウィンクをして、水をかけた。
「セナ、見たかあれ」
「うん。目が合った」
 私は見事に磨きぬかれている。少年たちは目を瞬かせるたびに私はかがやいた。少年たちはこの世には脚立をみがく職人きっと『磨き師』がこの世に存在する。そう思っているに違いない。
 私の銀さまが、私に雪駄を載せた。あんっ。天板に、上がった。あんっ。そこは敏感なうるしが幾重も塗られている。私は銀さまの体重を一身にうけて、数ミリ、きゅっ、と心地よくしずむ。あんっ。
 私の嬌声を聴いて少年たちはまた息をのむ。私はさらに光る。少年たちはまばゆく光る私を見つめて口をあんぐりと開ける。
 私は密林で生まれた。果実の私を鳥は食べて海を渡った。フンに混じって樹海に落ちた。樹海では私は異質だった。まわりは溶岩に根を張れずに倒れて朽ちた。けど私は千二千六千年と樹海で生き延びた。銀さまは何かを宿す私を見つけ、貞子としてくり抜いた。
 樹海に雪。
 倒木の前で顔が陥没した女は震える。
「ヤメテ! ノー! チガウ! ワタシジャナイ」
 銀は玄能を女の顔面にふりおろす。
「ダ、ダズゲデ」
 「タツ、おまえが撃て」
 樹海に乾いた銃声がこだまする… 
「おい、おまえら。いまサダコが、なにを見せた? 」
 少年たちは瞳孔を開かせたまま息をつめた。

fact.16

「おい、おまえら。いまサダコが、なにを見せた? 」
 少年たちは銀にそういわれたように感じて、慄(おのの)いた。
 見事に磨きぬかれた木製の脚立の漆の天板にたつ銀は、紋付きの懐から玄能をだした。少年ふたりは銀の懐からでてきた玄能を見て、息をつめる。
 銀は玄能でガラスを割って窓枠だけにした。それから袖をまくった。
 銀は窓から短い手をつきだす。が、崖を見るには背はまだ足りない。窓は銀の首よりもずっと高い位置にある。
 銀は首をまわして日本の伝統芸能に通じるような、一拍を打った。ふりむく銀。無反応の辰。日本海から崖を打つ波濤だけが聴こえてくる。
 一月の日本海は晴れ渡っていたが寒い。潮風が窓から入ると肌は刺すように痛い。
 辰は三歩、前に進み出、銀の胴を両手で支えた。その姿を見てセナは目を見張った。好きでユーチューブで検索してよく見る人形浄瑠璃にそっくりだった。辰は銀を人形浄瑠璃のように窓の外に突き出した。
 銀はボロボロの爪で緑色の目脂を落として片目を細めた。
「辰、あれをだせ」
 辰はこんど、銀をひだり肩に載せた。まるで鷹匠のように。辰は肩にたつ銀に双眼鏡をわたした。
「セナ見ろよ銀のあれ。スイス空軍のやつだ」
 リョウはセナに肘でつく。セナは肯(うなず)いた。それはたしかにスイス空軍がつかう本物の双眼鏡だった。
 銀が指さした向こうに小さい漁港が見える。親不知港だ。その向こうには高速道路の橋桁が建っていて真下に道の駅親不知ビーチパークがある。止まっている車は三台。橋桁の脇に巨大なタイヤにふといチェーンを巻いた赤い除雪車とシルバーの乗用車と白いバンだ。
 糸魚川市方面の空は、鉛色に曇(くも)っていった。親不知ビーチパークは閑散としている。
 銀は、双眼鏡をのぞきこむ。潮風で削られた崖に生えた木々は鬘(かつら)のように風にゆれる。銀は木の一本一本をていねいに見はじめる。
「あ、そうやった。前説をわすれとった! 」
 銀は双眼鏡で頭をポンとたたいた。その仕草はまるで朝の大阪駅ホームで忘れ物を思いだした地元の人のようだった。

fact.17

 ある地下。
 コンクリートの天井に裸電球がひとつ下がる。男はハミングをしながら抱えた死体を大釜に放りこむ。大釜はぐつぐつと煮え、他にも頭や足が見える。
「ぺっ」
 男は釜に唾を吐いた。
 腕で汗を拭って死体の山をふりかえる。男はまた他の死体に取り掛かる。
 死体はここに運ばれてくる。それを大釜で茹で、その油脂を保湿クリームや火薬や蝋にかえて海外に輸出する。いまや列島内は戦時下だ。闇では蝋燭ひとつが高値で飛ぶように売れる。
 釜の向かい側で同じ作業をするノロマそうな大男が、大きく噎(む)せこんだ。死体を煮た蒸気を吸い込んだらしい。大男が着る半被の背には油屋と書かれてある。男はだまって作業にもどる。
「タツさん」
 男には聞こえない。男は目をハミングをしている。
「タツさん! 」
 男は手で大男を制止する。
「インザ、ヒイイイト、オブダ、ナアアアアアア〜イト! 」
 男は大きく頭を揺さぶった。それから担いだ死体を大釜にぶちまけた。
 辰はヘッドフォンを外した。
「どうした? 」
「おいらじゃねえす」
 大男があごで扉口を示す。扉口に男が見えるが湯気でぼやける。すると天井からさがる裸電球が、ぱちっぱちっとリズミカルに明滅した。
「忍さん? なんでまた忍さんがここに? まだムショの中じゃあ」
 忍と呼ばれた男は笑う。
「おれがここにいちゃあ、わるいのか」
 近づいた忍の顔の両側にはミニトマトが潰れたような傷痕があった。銃弾で撃ちぬかれた痕に見える。忍はレイバンのサングラスをしていた。
「タツはジャズも聴くのか。年次総会じゃあ演歌ばかりうたってたが」
「これ、ジャズっていうんですか」
 忍は大男を見て、笑った。
「また始まった。おとぼけの辰か」
 辰は外したヘッドフォンを忍に両手で渡そうとするが、ここからでも聞こえる。と忍は音漏れに耳を澄ませる。
「レイ・チャールズだ」
「レイチャールズ」
「曲はイン・ザ・ヒート・オブ・ザ・ナイト」
「おれは学はさっぱりです」
「この曲は映画に使われてたな。黒人の刑事が白人社会から人種差別に遭いながらも殺人事件を解決していくっていう。タイトルは忘れた」
「ああ! 」
 辰はまたヘッドフォンを被る。
「インザ、ヒイイイト、オブダ、ナアアアアアア〜イト! 」
「それだよ。それ! 」
 忍は磊落に笑って辰の肩を引きよせた。かかとで死体を蹴った。大釜にぬるりと沈んだ。
「いってらっしゃいませ」
 地下室にいる作業員は膝に両手をついて声を揃えた。

fact.18

 巻かれた登山ロープのなかで眠っていた蛇が目を開けた。外がなにか騒々しい。まだ子どもの足が見える。蛇は赤い舌をだした。
「あ、そうやった。前説をわすれとった! 」
 銀はにぎった双眼鏡で頭をポンとたたいた。
「綿に鍋に金に男と書いて、ワタナベカネオって男をしらないかな? 外見はぼくとおなじだ。けれど、背丈はぼくよりもたかい。ぼくのアニキだ。先日から行方不明になっとる」
 ふたりの少年は首をそろえて横にふった。
 銀は辰の肩から木製の脚立に飛び移った。
 木製の脚立がきゅっと鳴った。

「われわれの本題。にはいろうか」
 銀は下品に笑った。
「われわれの本題。ってなんだよ」
 リョウは噛みつくように言った。
「その目で見たんだろ。あの浜から男が上陸するのを」
 銀はまた双眼鏡を浜に向ける。
「これから見せてやるよ。そのまえに、カネだ。まずは情報料をさきにくれよ」
 リョウはわめいた。
「情報料? それも前払いだと?」
 銀はふりむいて眉をよせる。
「そうだよ。カネだよ。おまえら、オトナがみいんな大好きな、カ、ネ、のことだ」
「なにも与えてもいないのに、さきに金銭(ぜにかね)をよこせだって? きみたち、銭金をかせぐってことが、いったいどういうことか、わかっていてこの銀次にいっているのか? ぼくはきみたちを心から信じているんだ。その目で見て、わからないのかい」
 銀はふたりの少年を見つめた。銀の目は大粒の涙で潤んでいた。
「うるせえ! やっぱおまえも、そこらへんのくだらねえオトナとおんなじだな! 嘘つきだ! 」
 銀は虚を突かれ、眉間にしわがよった。
 重く固い間が横たわった。
 蛇は身の危険を感じた。
 銀の顔はみるみると真っ青になった。全身がぶるぶるとふるえだした。
 銀は火がついたように笑いだした。

 蛇はロープの下を潜って倒れた扉の上を這って消えた。

fact.19

 銀は怒りの頂点に達している。だが、その状況は貞子以外だれも理解していなかった。銀は弾けたスマイルで爆笑したからだ。このとき、貞子はじぶんの死を悟った。貞子が死に直面したいまになって、ほんとうに偶然なことに、この世で貞子のもっともな理解者が現れた。それは海風だった。海風は窓から入ってきて部屋に滞留していた。この後の貞子の絶美なる死に様を、ひゅるひゅると見守っている。
 海風は博学だった。内陸まで吹いていろいろ世情を知ることもある。銀の顔を見て、まさにいまそのシーンだと気づいた。銀の顔は、人形浄瑠璃の悲恋物語のそれだ。安珍への恋の炎を爆発的に燃やした清姫の顔が、一瞬で鬼の顔に変わる、それだった。
「銀さん? 」
 最初に気づいたのは辰だった。
「だめだ銀さん。それだけはやっちゃだめだ」
 慌てて辰は銀を脚立から引き剥(は)がそうとしたが、遅かった。
 銀がふりまわす玄能は大蛇のようになって辰や貞子に直撃する。辰は、コンクリートの床にうずくまって口から血を吐いた。錆びた扉の上を蛇が這っていくのが見えた。
 貞子は喘いだ。ああ、気持ちいい! 私をもっと壊して! 破壊して! ああ脚が真っ二つに折れたわ!ほらみて! 私のお股よ! ああ、天板が粉々になって、漆が金箔が散って宙に舞ったわ。風に乗って海に消えていくぅ。こんな快感は生まれて初めてだわ。
「銀さん、だめだ。それだけはヒトとしてやっちゃあ」
「三下の外道がおれに一丁前をいうのか。おまえも貞子も死ね! 死ね! 死ね! 」
 銀さん私をもっと激しく痛ぶって、私をぶっ壊して! ああ、もっと私を壊して! ああん! イっちゃう! 私はこの日のために生まれてきてきたんだわ!
「銀さん。貞子さんの代わりはないんですよ」
 辰はなんてばかなことをいうの? 壊れゆくこの快感。なぜわからないの? また私はいま以上の美しい立派な脚立になって戻ってくるのも知らないで。
 ことん。
 玄能は銀の手から滑り落ちた。
 ああん! ああん! 貞子の喘ぎ声は海風に乗って消えた。

fact.20


会話を立ち聞きする鴉

 窓辺に、鴉が降り立った。くわえた蟹の死骸に食べる肉がないのが分かると、コンクリートの床に殻を落とした。鴉はこいつらがだす声の意味がわからない。それでも部屋に充ちる緊迫感はつたわる。鴉は飛び立とうとして強風に煽(あお)られた。すこしのあいだ部屋に留まることにした。奥に立つ、鴉とおなじ色の黒いのが何かで耳をふさぐ。目をつぶって、インザ、ヒイイイト、オブダ、ナアアアアアア〜イト、と首をくにゃくにゃさせる。鴉は身の危険は感じなかった。

 小さいのが顔を赤くして、さらに小さくて醜いのを睨(にら)む。
「銀さんっていったね。銀さんはきっとぼくと似た病をもっている。銀さんはリョウと似た性格をもっている。程度はちがうけど。いままでぼくはこの神殿で未来人や過去の人間や幽霊や宇宙人と交信した。けれどオトナはぼくのことばをだれひとり信じない。ぼくの見たものはリョウが作った短波ラジオとおなじ性質のものだ。リョウがカナダやメキシコの友達と交信するようにぼくは火星人やブルマダグル星人と心の交流をする。だけどぼくの見たものは、なぜか病気のせいにされる。オトナには信じてもらえない。だからぼくもオトナは信じないと決めたんだ。銀さんもそういうオトナなの? 」
 小さくて醜いのは真顔になった。
「三日前の朝だった。この神殿からぼくはこの目で見たんだ。ふしぎなのは、その日の朝はこちらの天気は晴れ渡って雲ひとつないのに、たった半キロ先の海上は雪で大荒れだった。これでも、ぼくの話を信じるかい? 」
 小さくて醜いのは黙って首を縦にふった。
「距離は、この崖のホテルから五百メートルの距離だった。銀さんがその首に下げるスイス空軍の双眼鏡なら見えるはずだ。だってリョウもおなじ双眼鏡をもっているから」
 リョウはうなずいた。
「シケでうねる海に、小さな船とゴムボートが二艇、浮かんでいた。神殿の窓からふたりでのりだして見ていると、船の上でいさかいが始まった。女が男になぐられているのが見えた」
「おれも見た」 
 リョウは手をあげる。
「それから空に、銃声が轟(とどろ)いた。ぼくらはそれをこの耳で聴いた。それから陸の森にひそむ鳥たちが、一斉に空に舞い上がったんだ」
「信じるよ。いままで得た情報のなかでもっとも信頼ができる話だ」
「そうやってオトナは平気でうそをいうんだ! 」
 リョウはさけんだ。
「その、銃で撃たれた男は、マ・ギョングといわれる北の工作員だ。日本名は福田敏夫。ぼくの兄は、さっきもたずねたが『綿鍋金男』という名前だ。兄は、在日朝鮮人、いわゆる在日で本名はマ・ガンホという。兄は、どうやら北の工作員の上陸作戦の実務的な手助けか金銭的な支援あるいはその両方に加担していたようだ。その兄が昨日消えた。霧のように。そう、まるで君たちがネットで書いた目撃現場のように。ぼくは兄をだれよりも心配している。だからこうやって情報収集をする。ぼくの話は真実だ。信じてもらえるかな? 」
 ふたりの少年は目をあわせ、肯(うなず)いた。
「ゴムボートの一艇がこちら崖に向かってきたんだ」
「え、こっちに? こっちってどっちに? 」
「この崖の真下だよ」
 鴉は大きな欠伸をした。こいつらはなにをやってるのだ? 交流するのになぜこんなに時間と手間がかかるのだろうか。こいつらには天敵はいないのか?
 鴉は飛び立った。窓枠が白く汚れていた。

fact.21

 リョウとセナは銀と辰を大浴場に連れていった。湯気が立ちこめていた。
 辰はアヒルのおもちゃを宙に放って遊んでいる。さっきボブ・マーリィーを聴きながらロープの渦で見つけたものだ。
「ここがきみらがいうところの神殿か。豪華だな。かけ流しの温泉だ」
 コンクリで固めた岩が湯船をかこむ。岩風呂の湯船はバスクリンが入れてあって、エメラルドグリーンに染まっていた。湯船の底に翼が折れた女神像が沈んでいるのが見える。ふたりが学校の美術室から持ち出したものだ。
 少年たちは黙っていた。
「ぼくがたずねてるんだよ。ここがきみらがいう神殿なのか」
 ふたりの少年は口を噤(つぐ)んだままだ。
「よく手入れしてあるじゃないか」
 獅子の口から湯が噴き出している。
「で、この大浴場の神殿と目撃情報となんの関係があるんだ」
 銀は下品に笑った
「いまから見せてやるよ」とリョウはいった。
「ここで裸の少年のゲイショーでもやるのか? 」
 銀はふりかえる。辰は黙っている。
「百聞は一見に如かず。っていうだろ。セナ、宝物殿から船とゴムボートをもってきてくれ」
 わかった。といってセナは宝物殿にもどってロープの下に隠した小型船のプラモデルを抱えてきた。それらを湯船に浮かべた。
「もうひとつの、それも」とセナ。
「これもか」と辰。
「かれらはつがいだから」
 セナは手を差しだす。辰はアヒルのおもちゃをセナの手に乗せる。セナはアヒルのおもちゃをふたつ湯船に投げいれた。ぽちゃん。湯が張ったエメラルドグリーンの水面の下にうっすらと女神像の顔が見える。その上に小型船が浮かぶ。その少し手前に黄色いアヒルのおもちゃがふたつ縦にならぶ。
「おれたちがみた目撃現場をここで再現してやるよ」
「ここで再現? 」
 目を見はった銀。その顔は歪む。ニヤけていた。
「じつに興味深い。君らがみた現場とおなじ現場を、銀にこの場で見せてくれるというわけか」
 リョウは銀を無視した。
「隅っこの、いちばんおおきいやつにしよう」
「よし。セナはそっち側をもってくれ。重いぞ。落とすなよ。せーの」
 大浴場の隅にある大きい丸石を、少年ふたりは赤い顔になってもちあげた。
 塩化ビニールでできた物体は水面に縦に連なって揺れる。仲が良さそうに。

fact.22


 私は石だ。私は数十億年を経て、地中から隆起した。そのあとの数百万年は断崖だった。ある日、鈍重にうごく黄色い鉄の塊のツノに割られた。下へと運ばれた。ヒスイと選り分けられ、また割られた。こんどは錐のようなもので表面をこまかく叩かれた。ここへ運ばれた。私はまた割れるのか。長く生きた経験則で石は感じる。
「まじで、重めえ」
 初めて呼ばれた。そうか。私はマジデオメエだったのか。
「まずおれたちは昨日、海の沖でこれからやる再現を見たんだ。なセナ」
「見た。だれも信じないけど。ぼくはこの目で、見た」
 沈黙は降りた。硬い重い沈黙だった。
「へらへら笑いやがって! テメエやっぱおれたちを信用してねえだろ! 」
「信頼はする。だが信用はしていない。『信頼』と『信用』のちがいはわかるかな? 小学四年生で習っているはずだが」
「『信頼』は主にこれからの未来の期待に置かれる。『信用』はいままで重ねた過去の実績を重んじる。たとえばクレジットカードは借金を返しつづける信用にその価値はある」
「そういうことだ」
 また重い沈黙が横たわる。
「窓から顔をだすとホテルの窓という窓に特殊部隊が潜んでいた。上にはライフル銃の先が見える。崖にはりつく数名の隊員がボートに突入した。けど、すぐにこちらに手で大きなバツをかえした。まるでこれは危険な爆弾だと示すかのように。まったく訳がわからなかった」
「なるほど。興味ぶかい。七時七分。こちらの調べだとそう記されている。君たちが見た時間はわかるかな? 」
「わからない。ぼくもリョウも神殿にはいるときは腕時計もケータイも宝物殿に隠すから。ゴムボートで人影が海に飛びこんだ。ボートに残ったふたりはまだ喧嘩していた。それから沖で巨大な太陽のような光がかがやいた。そこで爆風が襲ってきた。だけど、問題は、その爆風そのものなんだ。信じるかい? 」
「信じるよ」
「奇妙な爆風だったんだ。何も感じない。ただ目にみえるだけでは感じない爆風だった。それが僕らを通り過ぎていった。爆風は消えた。海を見るとこんどは巨大な津波がやってくるのが見えた」
「その津波も、見えるだけでじっさいには襲ってこなかった」
 重い沈黙は和らいでいた。
 そこで石は何かを感じる。見えないが、感じる。
「前説はいい。見せてやるよ」
「いっせーのぉ、せえっ! 」
 マジデオメエは湯船に投げ入れられた。

fact.23

 天井にぶらさがる我々は、その一部始終を目撃していた。
 ばっしゃーん。四本の手から離れた亀の彫刻(長老はそれを亀石と言った)は湯船の中央に落ちた。水面はおおきく王冠をつくるように広がった。しぶきは我々のいくつかとくっついてぽたぽたと湯船へと落ちていった。大きな波が黒服の足を覆った。チッ濡れちまった。とつぶやくのを我々は聴いた。船の模型は亀石ごと沈んでから粉々になって浮いてきた。湯船の底で女神が首から折れているのを我々は見た。
「じつはぼくも同時刻に君たちとおなじ風景をみたんだ」
 ぶひっ。ずんぐり男は鳴いた。下品だった。
「どこで見てたんだよ! 」
 子どものひとりはさけぶ。
 ずんぐり男は丸い腕さきで我々をさした。兄弟がひとり、垂れた。
「銀、おまえあの日、この廃墟ホテルの屋上にいたのか? 」
 子どもらの頭は向かい合う。
「寒かったが、あっぱれな冬晴れだったな。あの朝は」
 ずんぐり男はふりむく。ヘッドフォンを拭きおえ、黒服は、確かに。といった。
「で、あの浜から上陸したのは男ひとりだけだな」
 沈黙があった。
 子どもらはこれ以上ずんぐり男の質問に答えるつもりはない様子だった。
「帰ってくれ。もうここには来ないでくれ。約束してくれたら金はいらない」
「やだ。帰らない」
 少年は舌打ちした。
「で、君らがその目で見たそのひとりの兵士はあの浜からどこへむかった? 」
 また、子どもらの頭は向かい合う。少年のひとりは肯(うなず)いた。
 我々は知っていた。子どもらはひとりの兵士などといってはいはない。
 子どもらは、こんご、このずんぐり男とも黒服ともずんぐり男がいうひとりの兵士とも、こんりんざい二度と関わるまい。子どもらは無言で内密に誓った様子だった。
「ほう。この期(ご)におよんで、だんまりか。真実を話せば、きみらが大好きな謝礼金ははずむんだよ」
 天井にぶらさがる我々から見ると、ずんぐり男を頂点とする傾いた台形一面に、黒く重い沈黙が舞いおりた。
「話を変えようか」
 ずんぐり男は、ある話をきりだした。

fact.24

 旧式で闖入者はぼんやりとしか映らないが、壁の隙間から二十四時間三百六十五日記録はつづく。常習的な犯罪を法に突きだす際は動かぬ証拠になる。
「君たちがいうこの廃墟ホテルの正式名称は親不知グランビューホテルだ。通称は親不知ビューホテル。この親不知ビューホテルの電気メーターがね。ここ数年、具体的には昨日までの四ヶ月と九ヶ月と九日で、すごい勢いでまわっている。水道代も廃墟ホテルにしてはすごい額だ。それがここ数年のぼくの悩みの種だ」
 湯煙のなかで少年の影はむきあう。
 銀は手を上げた。首をひねって笑った。カメラと目が合った。銀は話をついだ。
「君たち市振了くんと糸居瀬名くんはこの廃墟ホテルを好き勝手に使った。君たちが小学四年生の夏休みにここを見つけて、夏休み明けの二学期から手直しを始めた。そうだね。市振了くんが配電盤を復活させた。流れたその電気をつかって、こんどはふたりで排気口と水道管を復旧させた」
 ぱちぱちぱち。手を叩く。
「素晴らしい」
「糸居瀬名くんが、継母である糸居恵子に直江津にあるB閉鎖病棟にいれられて初めて退院してきた小五の秋だ。そうだね」
 少年は小さくなった。唾が嚥下したみたいに。
「その間に市振了くんは地下温泉をここ大浴場にポンプで汲みあげた。二十四時間かけ流し温泉に成功した。それは君らふたりにとって記念すべき成果だったわけだ。だって神殿の伝説が始まった最初の偉業だったわけだからね」
 少年の影は体を震わせ始めた。
「それで流れた地下の温泉代金はともかく。公共の電気代と水道料金はいったいどこのだれが払ってると思っていたのかな? 」
「市振了と蒼井瀬名が生まれる前、昭和五十二年三月二十日の春分の日に、綿鍋銀次はこの土地と建物を買い取っている」
 紋付きの懐から銀は紙を一枚だして見せた。
「読んでも解らんか。土地の登記簿と権利書だ。終わったらコピーをやろう。で、この紙の意味はわかるかな? この崖の上にたつ廃墟の土地と建物の法的な所有者はじつはこの銀、綿鍋銀次だ。君たちがいままで勝手につかった… 」
 銀は猪首をぐるりと回した。
「四年と九ヶ月と九日です」
 辰は補足した。
「省エネに積極的に取り組んでいる、のべ床面積十万平方メートルの総合ホテルで一年間に使用する電気代は二億円程度だ。で、水道代金は年間おおよそ六百三十五万円だ。壱振了くん。足すといくらになるね。小学生の問題だぞ」
「二億六百三十五万円」
「ご名答。壱振了くん。つぎはかけ算だ。二億六百三十五万円にかけて、四年と九ヶ月分と九日。ハイ次。糸居瀬名くん」
「九億八千十六万二千四百八十一円」
「ご名答」
「で。利子がついてぽっきり十億円にしよう。ふたりで割ってひとり五億円だ」
 カメラの上に点く赤いライトに水滴が落ちた。

fact.25

 陽は傾き、真冬の潮風が入ってきて瞬く間に部屋は冷えた。湯気でぼやけていた画像はみるみると鮮明になる。湯が抜かれた湯船は、亀石が頭をだした。排水溝で一匹のアヒルが裏返しになって渦を巻く。
「あと家賃だ。ここは総合ホテルだ。一室一泊いくらになる。裁判になればわかるが、四年と九ヶ月のあいだを満室時での想定利回りで賠償請求させてもらう。いくらになるかな? 」
 ぶひっ。銀は笑った。
 少年たちは泣きっ面だ。
「いまここで耳を揃えて返済しろとは言わない。この意味はわかるかな? 」
 銀ははんぺんのような手を少年の頭に乗せた。少年たちはびくつく。
「僕に君たちの顔をよせて、耳を貸してくれ」
 ふたりの少年は前屈みに膝をつく。
 銀はふたりの少年に小声で話す。マイクはその模様を聞き取ることはできない。
 銀は辰に光沢のある物体を出させ、辰はリョウにそれを渡した。でたばかりの最新のスマホだった。リョウが驚くと、君らはこういうものが嬉しいのか? と豚のように銀は笑った。
「廃墟ホテルと同じくそのスマホは使い放題だ。インストールされたアプリにはそれぞれポイントが一律に一千万円ぶんが付与されている。クレジットカードのアプリはブラックカードにしておいた。ちょっとしたオトナでもつかいきれない額だ。一日いくらつかっても日をまたげば基準の額に自動的に足される仕組みだ」
 金はいくらでも自由につかってよい。そういわれ、ふたりの少年は余計におびえた。
「それから、壱振了と糸居瀬名がこの親不知ビューホテルの水道・光熱費・維持費浪費の一件で負った負債総額十億円においては、今後だれからも二度と断罪(だんざい)されない。だけど、さっきのぼくの要求から逃げたりなんかしたら、君らふたりの人生は終わりだ。ほんとうの意味で君らふたりの人生はゲームオーバーだ。ゲーム機の電源がひっこぬかれたとか壊されたとかそういう次元じゃない。あそぶゲーム機そのものがこの世に存在しない。そう事態になる。『人生はなんどでもやり直しはできる』なんて寺の坊主やマスメディアは人々を励ますがね、それは幻想だよ。『人生の致命的なミスはやり直しがきかない』これが真実だ。それがいまのきみたちには判るかな? 」
 リョウは肩を震わせ、嗚咽する。
「君らが僕から逃げようとすると、君らの係累一統はとてもひどい死にざまをさらす。ときに切り傷にアヘンと蜜をぬられ蝿が集る岩に磔にされる。ときに鉛の靴をはかされて遠浅の海に沈んでいる。目覚めると冷蔵庫のなかで外から鉄がつぶれるスクラップ音が耳に迫る。とか、そういう類の死にざまだ。それでいて世間に社会事件やニュースには現れない。消えた君らの家族の穴には同じ名前をした別の人間が生きる。住所も戸籍も学校の成績も同じだ。そうやって君たちが抜けた世界は連綿とつづく。ただ君たちの係累一統はこの世界からその存在を消し去られるだけだ。まるで優秀な消しゴムで隅々まで消されたように。綿鍋銀次はそれができる人間なんだ」
 泣きだしそうになったリョウをセナはつよく握りしめた。

fact.26

「さあ、少年たち。ぼくの目に手に足になってくれ」
 ふたりの少年は神殿に立ちつくす。
「さあ行くんだ。上陸した男が見つからねば、君たちの係累一統は死に絶える」
 セナはリョウの手をひっぱる。
「リョウ、行こう。このスマホに入ったお金は使い放題だって。ぼく、なんだか楽しくなってきちゃったよ。ふたりでどこかに泊まろうよ! 超ハイクラスのリゾートホテルとかさ」
 セナはリョウに笑ってみせる。
「ふたりで超高級ホテルで受付なんかしたら、警察をよばれるだけだ」
 リョウは洟水をすすりあげる。
「でも、ぼくらは行くしかない。ぼくたちはこのスマホで十億円を稼がないと」
 ぶひっ。銀は笑った。
「十億円て… 十億円なんて想像がつかないよ。おれ自信がないよ。家に帰りたい… 」
「ぼくは行きたい。もっとそとを、そとの世界をじぶんの目でちゃんと見て、それから死にたい。もしかしたら明日ぼくらは交通事故で呆気なく死んじゃうかもしれない。だったらスマホをもって上陸した男を追いかけてみよう」
「わからないよ。おれはセナみたいに、おれはセナみたいに、強くなんかないんだ。ほんとうは、ほんとうのおれは、よわむ…」
 ガシャン。
 とつぜん、部屋のライトが消えた。あたりは闇につつまれた。
「ブレーカーを落とされた」
 暗闇になった空間にリョウの声が響く。
 階下の食堂からダクトを通して神殿を温める暖房の風は死んでいた。
 窓の結露はみるみると消えて、瞬く間に部屋は冷えこんできた。
 神殿はふたりが見つけた当初の廃墟にもどった。神殿に充満していた湯気はもうどこにもない。魂の手のように部屋から抜け出ていた。
 この部屋にはもう銀も辰もいない。ふたりの少年は確信した。
「寒い。このままだと凍えちゃう」
 廃墟の闇に取り残されたふたりは寒さでふるえ始める。
 ぶひっ。
 闇で豚が鳴いた。そんな気がした。
「行こうよ」
「だれかに、無理やりに小突かれているみたいなこの感じが。おれは胸クソがわるくなるんだ」
「それが、人生だろ」
「ぶはっ。十五のお前がいうな」
「はは。リョウが笑ったー」
「よし、まずはそのスマホがほんとうにつかえるか実験だ。牛丼でも食いにいこうか」
 ふたりの少年が闇を踏みだす足音が聞こえる。


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